J・K・ローリングの『ハリー・ポッターと死の秘宝(下)』を読み終える。と同時にハリポタ・シリーズもこれにてめでたく読了と相成った。
以下、本書を含めたシリーズ全体の感想である。ネタバレは極力避けているつもりだけれども、うっかり核心に触れていないとも限らないので、未読の方はご注意のほど。

さすがに最終巻、シリーズ全体のクライマックスということもあって、ストーリー的にはかなりの盛り上がりを見せた。本書はとりあえずすべての謎に決着をつけており(当然のことではあるのだが)、『不死鳥の騎士団』あたりから実にすっきりしない話が続いていただけに、まずはその点を評価しておきたい。
本シリーズの魅力は何かと聞かれたら、個人的にはプロットが一番ではないかと考えている。単にストーリーが面白いという問題ではない。ミステリ的な仕掛けやサプライズを巧みに織り交ぜ、小説としてより効果的な演出を生み出す構成に長けていると思うのだ。
例えばストーリーだけで見れば、『賢者の石』などが躍動感もあり一般ウケする作品だろう。ただ、それは単純にドキドキワクワクするというシーンが続くだけのことで、プロット的にはそれほど工夫されているわけではない。むしろ地味ながら『アズカバンの囚人』などはプロットの妙が味わえる作品で、捻りを利かせたメインの謎はミステリ好きやSF好きにもアピールできるものとなっている(前例は多々あるものの)。
また、全体を通し、メインの流れとはまったく異なる時間や場所のシーンが、突然挿入されることも多い。往々にしてこういう演出は著者の独りよがりになりがちなのだが、これもシリーズ全体のプロットがしっかり考えられているので、思った以上に判りにくさはない(まあ一部グダグダのところもあるけれど・笑)。こちらも例を挙げると、ハリーがヴォルデモートの見ているものを、同じように見てしまうというシーンがある。一度や二度では済まず、シリーズ中盤から執拗に繰り返し語られるパターンだ。伏線というにはさすがにあざとすぎるけれども、二人のつながりを徹底的に読者にインプットさせ、最後の対決に絡めるという点では、やはり巧いと言わざるを得ない。
こういった仕掛けの数々が、キャラクターの魅力や世界観以上に張り巡らされているからこそ、ハリポタは読まれたと思っている。ただのキャラ人気だけでは、日本だけで100万以上の人間は読まない。老若男女、実に幅広い層が読み、その大多数が面白いと感じたのは、やはりまずは人を惹きつけるだけの語りの魅力があったからこそなのだ。
先に『賢者の石』がプロットとしては単純と書いたが、あれにしても単なる魔法合戦に物語をまとめず、クィディッチで締めたところも著者の周到なところなのである。
その一方で不満もないではない。いや、不満というより違和感といった方が適切か。それは本シリーズが、もはや児童文学ではなくなってしまったのではないかということだ。ではなぜハリポタが児童文学ではなくなってしまったのか。
単に人が死にすぎるという理由もある。だが何より注目したいのは、主人公たちの成長という要素がほとんどないからに他ならない。いや、そんなことはないんじゃないか、という声もあるだろう。だが、第一巻から最終巻まで、ハリーとその仲間たちのトラブルは常に自己中心的な考えが原因であり、もう少し相手の立場を理解できたなら回避できたことばかりである。最終巻にいたってなおハリーとロンが喧嘩する展開を読み、いったいこれはどういうことなのだと正直呆れてしまった。
本シリーズを一言で表すとしたら? おそらく多くの人は、「魔法の世界を舞台にした、主人公の成長を描く児童文学」というような答えを返してくるはずだ。あるいはあとがきにあるように「愛と友情と勇気の物語」でもいい。とにかく少年少女を主人公にした児童文学であるなら、やはりその精神性という要素を外すわけにはいかない。
児童文学は民話や神話と近い関係にあると考える。その構造は基本的にシンプルで、より多くの人が物事の本質を理解できるよう書かれなければならない、という意味で。さらには、普遍的な愛や勇気といった、人として大切なものを学び、成長していくための助けとなる、という意味で。
表面的には実にオーソドックスな少年たちの成長物語として捉えることのできるこのシリーズで、ローリング女史はなぜハリーたちをここまで教訓の活かされない子供たちにしてしまったのか。なぜ、ここまで複雑な物語に仕上げてしまったのか。なぜ、ここまで登場人物を多く殺してしまったのか。
ここで思ったのは、ローリング女史がもともと児童文学を書くつもりなどなかったのではないかということだ。確信犯かもしれないし、潜在的にあったものが自然と表れた可能性もある。
繰り返しになるが、児童文学には成長や志、自己の存在証明などなどといった精神性が必須だ。本シリーズにもその要素はもちろんあるのだが、それは復讐に彩られていたり、差別の上に成り立っていたり、ある意味、現代社会で非常に多く目にすることのできる歪みの上に構築されてしまっている。以前の記事でも書いたのだが、おそろしく不公平な世界で彼らは生きている。児童文学にもそういう側面はないでもないが、いかんせんここまで強いことはそうそうない。
邪推すると、ローリング女史は成功する以前にそういう世界を生きてきて、それに対する怒りや呪詛をそのまま物語にぶつけているように思えるのだ。本シリーズでも度々繰り返されてきたダーズリー家におけるハリーへのいじめ、「穢れた血」の存在、理不尽な「クラス分け」、魔法使いと小鬼の対立などなど、シリーズの歴史は差別との戦いの歴史でもあり、その縮図がホグワーツともいえる。
となるとこれを児童小説と呼ぶのはそもそも無理がある話なのだ。本シリーズは少年の成長物語ではなく、むしろ社会制度を告発し、新たな社会形成を促す物語だったのではないか。
もちろんローリング女史はまっとうなファンタジーを書くつもりだったろう。だが、この長大な物語を読み終えたいま、いわゆるファンタジーの読後感とは別のものを感じている自分に気がついた次第だ。