fc2ブログ

探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

アルフレッド・ベスター『分解された男』(創元SF文庫)

 SFミステリ読破計画を一歩前進。アルフレッド・ベスターの『分解された男』を読む。テレパシーを使えるエスパーが活躍する未来世界で、犯罪者と警察の対決を真っ向から描いており、ミステリ的には倒叙ミステリあるいは警察小説のスタイルをとった作品でもある。
 ベスターといえば何といっても『虎よ、虎よ!』が有名だろう。SFはあまり読んでこなかった管理人ですら、大学の頃に読んだ記憶がある。ベスターはSF的ギミックがとにかくカッコいいので、あまり意識することはなかったけれど、いま思えば、『虎よ、虎よ!』もSF要素を取り払うと根っこは復讐を軸にした凄絶な人間ドラマと見ることもできるわけで、本作もそうだけれど、従来の大衆小説をSFとして昇華させるのが上手い作家なのかもしれない。まあ、二作しか読んでないので単なる思いつきだけれど(笑)。

 分解された男

 さて、『分解された男』だがこんな話。
 時は二十四世紀。科学の進歩のみならず、人類にもまたエスパーとして進化した者が出現し、数は少ないながらも社会の要職で活躍していた。エスパーは心を読むことができるテレパシー能力を持つため、この時代には計画殺人などは起こらず、また、起こそうとしても不可能な時代であった。
 そんな中、モナーク物産の社長ベン・ライクは、苦戦を強いられているライバル企業の社長ド・コートニーに共同提携を提案するが拒否されてしまう。このままでは破滅しかないと、ライクはド・コートニー殺害を決意する。ライクはエスパーの一人を買収して計画を実行。殺害には成功するが、被害者の娘に目撃され、挙句に逃げられてしまう。
 捜査に乗り出した第一級のエスパーでもある刑事リンカン・パウエルは、すぐにライクによる殺人を確信し、娘も確保するのだが……。

 これは面白い。本作はベスターの長編デビュー作でもあるのだが、テレパシーを視覚化する工夫やタイポグラフィを駆使した見せ方、エスパーの存在による格差社会や差別問題など、惜しげもなく硬軟とり混ぜていろいろなアイデアが盛り込まれているのがまずお見事。タイポグラフィなどは今ではさすがに目新しくないとはいえ、1953年という発表年を考えれば、これは驚異的である。

 また、警察と犯罪者の対決も熱い。こちらはアクションもあるけれど、やはりメインは心理戦。犯人側のベン・ライクは通常人で特殊能力は備えておらず、そんな人物がエスパーを相手に心理戦なんて、と思うところではある。
 しかし、ライクは単なる悪党ではない。エスパーたちに嫉妬しつつも彼らを利用するという強かな面を持ち、エスパーしか出世できないような世界で頂点に上り詰めようとする、類まれな精神力や行動力の持ち主なのだ。あの手この手で刑事パウエルに対峙し、パウエルにすら認められ、恐れられる人物でもあるのだ。
 とはいえ、感情に流される面もあるし、ときには弱みも見せる。そして何より重大なこととして、夢の中に出てくる「顔のない男」の存在に怯えてもいる。その複雑な人間味が魅力的で、本作はピカレスクロマンの香りすら漂っていると言えるだろう。

 SFミステリという観点ではどうか。警察と犯人の対立構造、動機や犯罪方法などをカギとして、倒叙ミステリ的に展開するストーリーなど、要素としては十分だろう。また、「顔のない男」の秘密や真相などもミステリのサプライズに近く、ミステリファンでも十分に楽しめるのではないだろうか。根本的なところではやはりSFであることを実感できるけれど、ベスターがかなりミステリの手法を参考にしているのは間違いないだろう。

 なお、ひとつケチをつけるとすれば翻訳。古いということもあるのだろうが、むしろセンスの方か。全体的なべらんめえ口調だったり、落語や講談あるいは往年の日活アクション映画のような言い回しが多用されていて、それがあまりに作品世界とそぐわない。本作はハヤカワ文庫版『破壊された男』もあるので、そちらと比べてみたいものだ。


ゾラン・ジヴコヴィチ『図書館』(盛林堂ミステリアス文庫)

 盛林堂ミステリアス文庫で新たなシリーズとして《ゾラン・ジヴコヴィチ ファンタスチカ》がスタートした。本日の読了本はその第一弾、『図書館』である。
 ゾラン・ジヴコヴィチはセルビアの幻想文学系の作家で、盛林堂ミステリアス文庫としては珍しいラインナップだろう。ただ、そこまでマイナー作家というわけではなく、我が国でも古くは『SFマガジン』にいくつかの作品が掲載されているし、近年では黒田藩プレスから『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』、東京創元社からは『12人の蒐集家/ティーショップ』が刊行されている。そして小説ではないけれど、ミステリ好きには盛林堂ミステリアス文庫から出たイラストレーター・YOUCHAN氏の図録『ゾランさんと探偵小説』で、その名を知った方も多いだろう(恥ずかしながら管理人もそのタイミングで知った次第)。
 今回の《ゾラン・ジヴコヴィチ ファンタスチカ》という企画も、その繋がりで生まれたものと思われるが、その一冊目のテーマが“本”というのがまたいいではないか。

 図書館

「仮想の図書館」
「自宅の図書館」
「夜の図書館」
「地獄の図書館」
「最小の図書館」
「高貴な図書館」

 収録作は以上。書名から各作品の題名に至るまですべてが“図書館”絡みだが、実際の内容はもう少し幅が広く、上で書いたようにテーマは“本”と見るぐらいが適切である。どれも本に関連した、ちょっと不思議な出来事を描いた作品が六篇収められている。

 以下、簡単ながら各作品のコメントなど。
 「仮想の図書館」は、あらゆる本が揃っているという謳い文句のサイトへアクセスした小説家の話。すぐに自作を勝手にアップされていることに気づくが、もっとおかしなことは自分の書いたことがない作品も紹介されていることであり、さらには自分の没年までもが何種類も示されていた……。著者の問いかけはどことなくユーモラスだが、かなり意地が悪い。
 「自宅の図書館」は、なぜか郵便箱から何度も出てくる本を、何度も往復して部屋に運び込む男の話。知と痴はまさに紙一重。個人的に昨年、引っ越しをして、同じように何度も本を運んだ経験をしたばかりなので、これは身につまされる。
 「夜の図書館」はマイ・フィバリット。閉館後の図書館に閉じ込められた男は“夜の図書館”に遭遇し、そこで自身のすべてを書かれた本を紹介される。事細かに描かれた自分の人生を読み始めた彼は、これを現実のこととして無理やり消化しようとするのがミソ。
 文字どおり“地獄の図書館”を描いたのが「地獄の図書館」。読書が罰という、まるでコントのような内容だが、当然その裏にはエセ知識人や教養主義にアッカンベーをそいて笑っている著者の姿がある。
 「最小の図書館」は開くたびに内容が変わる不思議な本の話。これは本そのものの価値だけでなく、さまざまな媒体の価値を問うている話でもある。現代の寓話っぽい。
 「高貴な図書館」は自分を高尚な読書家と自認する主人公が、蔵書の中にペーパーバックを見つけ、それを捨てようとするがなぜか元に戻ってくるという話。なんといっても主人公の解決方法がキモで、著者のドヤ顔が目に浮かぶようだ(笑)。

 奇妙な味の類かと最初は思っていたが、最後まで読み終えると、むしろ意外にストレートな幻想小説という印象であった。といっても変におどろおどろした感じはなく、奇妙な話をユーモラスかつさっぱりした語り口で描いている。
 何より、本や図書館をモチーフにするという企画・構成が楽しく、適度に考えさせ、適度に楽しませるバランスもちょうどいい。セルビアの幻想作家と聞くと少し構えてしまいそうだが、実は広くオススメできる作家であった。

『国書刊行会50年の歩み』(国書刊行会)

 国書刊行会が創業五十周年を記念して無料配布する小冊子の第二弾、『国書刊行会50年の歩み』が既に書店に並んでいるというので、国書税を納めたついでにいただいてくる。ちなみに今回の国書税は『宇宙探偵マグナス・リドルフ』である。

 国書刊行会50年のあゆみ

 しかし、噂には聞いていたが、小冊子とは思えないレベルである。主には編集部と刊行物の歴史を綴ったモノだが、そもそも国書が今日のような本を作るようになった経緯がやはり興味深いし面白い。
 実は管理人もその昔、某中堅出版社の社長による自伝兼社史のようなものをゴーストライトした経験があって、それもすごく面白かったのだけれど、思うにこの長引く出版不況の中、しぶとく生き残っている中小・零細出版社というのは、みな何かしらの武器や個性を持っていると言える。そんな会社の裏側やエピソードががつまらないわけはないのだ。
 とはいえ大手とは違い、なかなか大儲けはできないのだろうが、長く続けていることで結果として確実にファンがついてきて、より個性が際立ってくるのかもしれない。

 思うに国書刊行会などもその最たるものなだろう。今回の小冊子も、読者サービスなのだからもっと安く済ますこともできるし、HPに掲載してお終いにすることもできるだろうに、それをあえて商品レベルの書籍に仕上げてくる。書店でフェアを開催してくれるとはいうものの、この宣伝費用を回収できているかどうかはわからない。ただ、これでまたファンは増えるだろうし、読者からすれば好感度アップは間違いないところである。

 昨年だったか、Twitterで今まで買った国書の本の中で何が好きかアンケートをとっていたと思うが、個人的には〈ブラック・マスクの世界〉、〈バベルの図書館〉、〈復刻版『新青年』全7巻付録1巻〉を挙げてみた。そういえば国書の本は昔から叢書やシリーズものが多くて揃えるのも大変だったのだが、そもそもそういう方針だったことも本書で書かれており、思わず納得した次第である。

 なお、本書はフェア開催書店でもらえるけれど、詳しくは国書刊行会の50周年記念特設サイトでどうぞ。

マイクル・コナリー『ダーク・アワーズ(下)』(講談社文庫)

 マイクル・コナリーの『ダーク・アワーズ』読了。夜勤専門刑事レネイ・バラードと元ロス市警刑事のハリー・ボッシュの共演作で、ボッシュの出番も少なくはないのだが、描写のスタイル的にも内容的にも、完全にレネイ・バラードの物語であった。

 ダーク・アワーズ(下)

 前巻の記事でも書いたとおり、今回はバラードがレイプ事件と年越しの夜に起こった殺人事件の両方を追うというストーリーなのだが、そこにはロス市警の腐敗が大きく絡んでおり、バラードの動きは徐々に縛られてしまう。そこでボッシュにサポートを依頼したり、自らもルールの外へ足を踏み出しそうになり、それがさらに自らを窮地に陥れてしまうのだ。
 法律や正義感、自分の信念との間で苦悩し、最後には大きな決断を下すことになるバラードの運命や如何に……というわけでストーリーは相変わらず達者で、とりあえずは面白く読めた。背景にはコロナ禍やトランプ煽動による議事堂襲撃事件も盛り込んでくるし、特に下巻に入ってからの展開は矢継ぎ早ながら破綻もなく、さすが熟練の技としか言いようがない。言ってみれば、シリアスではあるのだが、安心して読めるエンタメドラマといったところである。

 ただ、安定した面白さはあるものの、本作をもって傑作とか感動するところまではいかなかった。最近の作品にかぎっていうと、事件は小粒だし、サプライズも一時期に比べるとかなり少ない。何より主人公の生き様や葛藤がパターン化されてきて昔ほど引き込まれないのである。これはバラードだけでなくボッシュモノにも感じるところだ。
 別につまらなくはないので、ボッシュと娘マディのストーリーが一区切りしたところまでは読もうと思っているのだが、解説によると次作がまたまた衝撃の展開とのことで、ううむ悩ましいのう(苦笑)。


マイクル・コナリー『ダーク・アワーズ(上)』(講談社文庫)

 マイクル・コナリーの『ダーク・アワーズ』をとりあえず上巻まで読む。深夜勤務の刑事レネイ・バラードと元ロス市警刑事にして、今は私立探偵となったハリー・ボッシュの共演作である。

 コナリー作品の邦訳としては、おそらくこれが三十六作目。そのほとんどが上下巻だから本棚には七十冊近くのコナリー作品が並んでいる。よくこれだけ続いているなと感心するばかりだが、飽きずに読むほうも読むほうである。ハードボイルド路線とキャラャラクターの魅力で読ませるボッシュもの、ストーリーやどんでん返し等の派手な面白さで読ませるリンカーン弁護士ものなど、多彩なシリーズが揃っているおかげだろうが、最近はそれらがすべて一つの世界観に集約され、読者としては面白いと思うと同時に、商売っ気もちらほら感じてしまうし、マンネリ化の加速も危惧するところは否めない。
 本作の主人公レネイ・バラードもそんなコナリー・ワールドのテコ入れ(?)のために登場した印象が強いけれど、早いものでもう四作目。全体的な展開としてはボッシュの後継者という存在になりそうな気配だが、彼女がいずれはボッシュの娘、マディとも絡んできそうで、そういうことを考えてしまっている時点で著者の思うツボなのだろう(苦笑)。

 ダーク・アワーズ(上)

 さて『ダーク・アワーズ』だが、今回はバラードがレイプ事件と年越しの夜に起こった殺人事件の両方を追うというストーリー。殺人事件では、現場で見つかった薬莢が十年前の未解決事件に使われた銃と同じものだったことが判明、その当時の担当者がボッシュだということで、再び二人が共同戦線を……という展開である。
 まあ、いつもどおり安定の書きっぷりだが、ベテランの燃え尽きた女性警官の描写が印象的で、彼女に対するバラードの怒りが昔のボッシュをやや思い出させる。ただ、ボッシュに比べるとまだまだ甘いもので、こういうところが最近のコナリー作品の甘さなのかもしれない。
 詳しい感想は下巻読了時に。


レオ・ブルース『ブレッシントン海岸の死』(ROM叢書)

 レオ・ブルースの『ブレッシントン海岸の死』を読む。同じくROM叢書から刊行された『死者の靴』のあとがきで、訳者の小林晋氏からブルース長篇の完全紹介を目指すという力強い宣言があったけれども、その最新刊である。

 まずはストーリー。歴史教師のキャロラス・ディーンは従兄弟の女優フェイ・ディーンからの手紙を受け取った。殺人事件に巻き込まれたので助けてほしいというのだ。
 手紙によると、フェイはが早朝の海岸を散歩中、招待されていたミステリ作家リリアン・ボマージャーの死体を発見したという。しかも砂浜で首から上だけを出して埋められるという異様な状態で。
 ディーンが調査を始めると、すぐにリリアンの暴君ぶりが露わになり、家族や使用人は容疑者だらけとなってゆく……。

 ブレッシントン海岸の死

 実は本作は、本国でもそれほど世評が高くない作品だという。一読すると、確かにいろいろ粗の多い作品であることはわかる。そのなかでも特にガッカリするのが、強いインパクトを残す冒頭の被害者の姿の謎が、実にあっさりと流されていることであろう。
 その真相はあまりに腰砕けであり、しかもなぜそこに行き着いたのか論理的な説明もほぼない。いつもの著者なら、ここでとんでもない解釈を持ってくるのだが、本作にはそのキレがないのが残念だ。
 とはいえメインとなる趣向はなかなか実験的であり、他の作家で有名な作品もあるものの、その狙いは悪くない。むしろブルースなりの味付けがなされていて、他の本格作家の凡作よりはよほど楽しめる。

 ちなみに書かれた時期としては1950年代であり、作品的には『ハイキャッスル屋敷の死』と『ジャックは絞首台に!』の間に位置する。決してスランプの時期ではなく、むしろ安定して作品を発表していた時期である。
 ただ、この頃のレオ・ブルースがどれだけ売れていたのかは知らないが、もしかするとビジネス面での苦悩がいろいろあって、調子を崩してしまったのではないだろうか。
 というのも本作には、そういうことを暗示させるような描写がちらほら目につくのである。たとえば登場人物の一人がキャロラスに対して、「事件が中だるみを起こしている」「容疑者をずっと尋問し続ける古臭い探偵小説」「もっとサスペンスが必要」などと言ってみたり、ラストの謎解きシーンでは「犯人の名前を隠して説明されてもわかりにくい」と自虐的なギャグを入れるようなところもある。
 さらにはゴリンジャー校長がエッセイ(自伝?)を出版するという話にキャロラスがギョッとするエピソードが出てくるのだが、これもけっこう暗示的で、つまらない作品が売れるという風潮に対するやっかみみたいなものが感じられるエピソードではないだろうか。

 まあ、勝手な想像でしかないけれど、本作はそういう著者の迷いみたいなものが入り込み、その結果、いつもの実力を発揮できなかった作品ともいえる。レオ・ブルース・ファンとしてはやはり楽しい一冊であった。

谷甲州『高度36,000キロの墜死』(講談社)

 国産のSFミステリは意外と少ない。いわゆる特殊設定ミステリは多いのだけれど、どちらかというと著者の考えたアイデアを実行するための場として設定したようなものが中心で、広義のSFミステリには分類可能だとしても、純粋なSFミステリとは言い難いものが多いように感じるのだ。
 個人的に考える純粋なSFミステリは、やはりアシモフの『鋼鉄都市』のような、SFとして徹底的に作り込んだ世界とルールを構築しつつ、謎解きを物語の興味の中心に据えたもので、SFではあるのだが本格ミステリとして通用するものである。そういう意味ではSFミステリと特殊設定ミステリというのは、分けて考えた方がよい気もする(これも「SFミステリとは?」改修に向けての宿題である)。
 念のために書いておくと、これはジャンルの概念として区別する必要を感じるだけの話で、どちらが面白いとか、ましてやどちらが上だとかではもちろんない。

 高度36,000キロの墜死

 本日の読了本は、そんな国産のSFミステリから谷甲州の『高度36,000キロの墜死』。
 軌道救難隊の警備艇が緊急ランデブーの訓練を行っていたときのこと。レーダーが高度500キロのあたりを浮遊している物体を捉えた。徐々に物体に近づき、光学望遠鏡でその正体を確認した艇長は絶句した。それは黒焦げになった宇宙服姿の死体だったのだ。
 同じ頃、地球周廻軌道都市サイナス市の保安部に、サイナス・インストルメンツ社の衛星実験室で研究員が死んでいるという通報が入った。広沢部長は現場にダグと新入りのエレンを向かわせるが、その直後、局長からサイナス社での捜査を中止しろと指示がくだる。広沢はその指示を突っぱねるのだが……。

 ううむ、ちょっと当てが外れたかな。
 導入はかなり魅力的だ。宇宙空間の軌道上を漂う変死体。さらにはサイナス社の衛星実験室で発見された死体も無重力状態での墜落死ではないかと思われ、オッこれは不可能犯罪ものを扱ったガチガチの本格ミステリかと、のっけから引き込まれる。
 ところがその後が問題だ。冒頭の無重力状態での墜落死にしても、あっという間に謎が解かれてしまうし、物語が進むにしたがって本格臭はどんどん薄れ、ストーリーの意外性もほとんどない。それと反比例して活発になるのがアクションやスリルの部分。終わってみれば、印象はミステリとはやや離れ、捜査チームのキャラクターとアクションで見せるエンタメ小説に近い。もちろん、それが悪いというわけではないが、なんというか題名に誤誘導されて肩透かしをくらった感じ。勝手に勘違いしたこちらが悪いのだろうけれど。

 ただ、作品の名誉のために書いておくと、決してつまらないわけではない。
 キャラクター造形は生き生きとしているし、掛け合いも面白い。一見ダメっぽい連中が実は凄腕という点なども、読者のニーズをよく心得ている。そういうノリも含めて実はやや古い感じも否めないけれども、エンタメ小説としての完成度はなかなか高い。
 なのでガチのSFミステリを望みさえしなければ、割と普通に楽しめる一作ではある。

 なお、「あとがき」で著者がSFミステリについていろいろと考察していながら、結局は本格SFミステリが難しく、ハードボイルドやドタバタを混ぜた結果「よくわからないものになった」と書いているのだが、謙遜もあると思うけれど、正直こんな言い訳めいた文章は不要だったと思う。


梶龍雄『清里高原殺人別荘』(徳間文庫)

 一時期は梶龍雄作品も集中して読んでいたが、あまりに入手難が多すぎていつの間にか中断してしまった。もちろんネット上で探せばあるにはあるが、バカみたいにプレミアがついてしまっている。
 思えば不遇な作家で、必読級の作品がいくつもあるというのに、生前はそこまでブレイクすることもなく、没後はそれなりに再評価が進んだかと思いきや、すでにほとんどの作品が絶版品切れという状態。おかげで古書価は暴騰。乱歩賞を取った『透明な季節』やそれに続く初期の作品は部数も多いだろうからそれほどでもないが、1983年以降になると大手版元からの出版がガクンと減ったせいか、一気にレア作品だらけとなり、価格もなかなか大変なことになっている。

 そんな状況が「トクマの特選!」によって、どうやら改善される方向に向かっているのはありがたい。すでに笹沢左保など傑作がガンガン復刊されているが、このラインナップに梶龍雄も加わったのである。管理人も古書価が高すぎて躊躇していた『清里高原殺人別荘』を、この度ようやく読むことができた。ああ、本当に大枚叩いて買わないでよかった(苦笑)。

 清里高原殺人別荘

 さて『清里高原殺人別荘』だが、こんな話である。
 シーズンオフで雪積もる清里。その外れにある静かな別荘に、五人の大学生がやってきた。しかし、そこは彼らの物でも、借りた物でもない。彼らはある人物からの連絡を待つための拠点として、持ち主不在のその別荘に、勝手に忍び込んだのである。
 ところが彼らの予想しないことが起こる。別荘の持ち主の娘と名乗る女性が滞在していたのである。そればかりか、一人、また一人と何者かによって殺害されてしまう……。

 なるほど、これはお見事。
 クローズドサークルでの連続殺人を描く、文字どおり「吹雪の山荘もの」ではあるのだが、実はすべてがある目的のための伏線であったという、とんでもない仕掛けが用意されている。まったく思いもよらない方向から真相が明かされるので、その衝撃は半端ではない。そして、前のページを読み返し、その巧みな描写に唸らされる。

 だいたいクローズドサークルものは、サスペンスの盛り上げに関しては文句なしの趣向ではあるが、登場人物や舞台などさまざまな要素が限定されるため、意外に真相自体は辿りつきやすいという弱点がある。しかも被害者が増えると同時に容疑者は絞られる一方なので、決してハードルは低くないのだ。
 また、ミステリ的な部分だけでなく、極限状態での登場人物の描写に不満が残ることも多い。これは作者の描写力の問題ではあるが、ストーリーに登場人物をはめすぎるきらいがあって、不自然な行動、納得できない行動をする登場人物も少なくないのだ。
 本作が素晴らしいのは、そうした弱点も多少は抱えているにせよ(特に人物描写は著者の初期の作品に比べるとかなり辛い)、それらをまったく気にさせない驚くべき真相を用意していることなのだ。

 ともあれ、このような傑作が復刊されたことは実に喜ばしい。梶龍雄は次に『若きウェルテルの怪死』が予定されているようだが、個人的には『灰色の季節』もぜひ復刊してほしいところである。


エリック・フランク・ラッセル『超生命ヴァイトン』(ハヤカワSFシリーズ)

 エリック・フランク・ラッセルの『超生命ヴァイトン』を読む。SFミステリ読破企画の一冊ではあるが、SFミステリというよりは、そもそも人類家畜テーマを扱ったSFの古典として有名な作品である。

 こんな話。アメリカ政府の渉外係官を務めるビル・グレアムは、過去に長く付き合いがあった科学者の墜落事故を目撃する。その奇妙な状況を調べるうち、世界各地で科学者が次々と変死していることを知る。しかも、そこに共通する事実があることに気づき、グレアムは世界規模で不吉なことが進んでいるのではないかと考える。
 情報局の所属となったグレアムは、ついに関係ある科学者の生き残りを見つけ出し、その秘密を聞き出すことに成功する。そこで明らかになったのは、通常の手段では人間の目に見えない、青い球体状の生物「超生命ヴァイトン」の存在であった。
 彼らは人の心を読み、その感情を電気エネルギー化して餌にするという生態を持つ。彼らは安定して餌を確保するため、古代から密かに人間を操っては人間を家畜化してきたというのだ……。

 超生命ヴァイトン

 これは素晴らしい。個人的には『ゴジラ』をはじめとする良質の怪獣映画と共通するものを堪能できて、大変面白く読むことができた。
 映画関連の記事でご存知かと思うが、管理人はミステリのほかに怪獣ものやモンスターものの小説・映画も好物である。それらの何が面白いのかというと、人類を超越した存在に対し、人はどうやって対抗し戦っていくのか、そういう部分にたまらなく惹かれるのである。
 単に戦うから面白いのではない。相手の弱点をどのように調べあげ、その弱点をどうやって突くのか、その一連の展開が合理的・論理的であればあるほど面白い。そして、そこがミステリと響き合うところでもある。だからウルトラマンやいわゆる怪獣プロレスよりは、『ウルトラQ』や『シン・ゴジラ』のように、あくまで人類vs怪獣でなくてはならないのだ。

 本作に話を戻すと、まさに人類は超生命ヴァイトンを相手に、どうやって生き残るかというストーリーが展開される。もちろん突飛なお話ではあるのだが、本作はきちんと科学的裏付けをとり(あくまで当時の空想の範囲内ではあるが)、論理的に進めていく。主人公が科学者の連続変死事件に気づいていく過程、調査を進めるうちヴァイトンの存在が浮かび上がる過程、対抗手段がないと思われたヴァイトンの弱点が明らかになる過程などなど。謎の解明がストーリーの核を成しているところにSFミステリと言われる所以があり、実にスリリングで魅力的なのだ。
 とはいえ本作を以ってSFミステリというのは、少々SFファンに対して申し訳ない感じである(苦笑)。確かにミステリ的要素があり、前半のサスペンスから後半のド派手なアクションに至るまでエンタメ度はすこぶる高いのだが、これらはSFにもミステリにも共通するところである。無理にSFミステリと呼ぶほどではなく、それをいったら先ほどの『シン・ゴジラ』などもみんなSFミステリになってしまうし、ジャンルづけの意味が逆に失われてしまう危うさを感じてしまう。したがって、本作はあくまで良質のB級SFという位置付けでいいのではないだろうか。
 先日の記事「SFミステリとは?」で分類みたいなものを挙げたけれど、何を以ってSFミステリとするかはもう少し詰めたいところだ。基本的にはより厳密に、より狭めた定義の方が、ジャンル分けする意味もありそうだ。

 本作はただ面白いだけの作品ではなく、考えさせられるところも多かった。何より書かれたのが1943年、第二次世界大戦の真っ只中であるということ。作中でもヴァイトンの操作によって人類同士が世界大戦に突入するという展開になるが、まさにリアルな戦争が本作に大きな影響を与えている(ちなみにアメリカの敵がアジア連合軍というのも何かと暗示的である)。
 なぜ人はここまで殺し合わなければならないのか、それがベースにあることは言うまでもないだろう。著者はその原因を人ではなく、ヴァイトンという未知の生命体に求めた。そう考えでもしなければ、人間同士がここまで殺し合うなんて信じられないではないか、ということではないだろうか。

 ただ、だからといってヴァイトンばかりが「悪」なのかというと、それもまた難しい。ヴァイトンは人間を家畜化することで生きているのだが、人間もまた牛や豚に同じことをしている。双方の立場があまりにかけ離れているから、その関係性の真実は見えにくい。ヴァイトンの行為にしても人類の行為にしても、実は善も悪もないわけで、より強力なものが上位にくるというだけのことでもある。
 極端なことをいえば、ヴァイトンの存在は一種の「神」と見ることもできる。しかし、そういうアプローチをするのは著者の本意ではなかったようで、著者はあえて(だと思うが)ヴァイトンと人類のコンタクトは一切描かず、その問題を取り上げないようにしているのではないかという印象を受けた。

 ということで重いテーマを孕みつつも、とりあえずはサスペンスやアクション、ミステリ要素も盛り込んだ痛快なSFである。今となっては古い部分もあるけれど、これは今後も読まれていってほしい作品だ。


ハル・クレメント『一千億の針』(創元SF文庫)

 ハル・クレメントの『20億の針』の続編、『一千億の針』を読む。
 地球に飛来したゼリー状の二人の異星人。一人は犯罪者の“ホシ”、もう一人はそれを追う捜査官“捕り手”である。彼らは宿主に寄生しなくては生きることができず、“捕り手”は地球人の少年、バブ・キンネアドに寄生し、バブと協力して“ホシ”を追いつめてゆく、というのが前作のストーリー。
 本作では、“ホシ”を片づけた“捕り手”とバブのその後の姿を描いている。

 一千億の針

 “ホシ”を倒してから七年後。不時着時に宇宙船が壊れ、故郷に帰ることのできなくなった“捕り手”はバブとの共生生活を送っていた。ところが次第にバブの体調が悪化し、“捕り手”の力でも回復が難しく、治療には“捕り手”の母星に連絡をとるしかないという。そこで彼らが思いついたのは、かつて“ホシ”が乗ってきた宇宙船を見つけ出すことだった……。

 本作は前作から三十年近く経ってから書かれた続編だという。著者にいったいどういう思惑があったのかはわからないが、果たしてその必要性があったのかどうか。
 管理人はSFものではないけれども、前作はSFミステリという観点から非常に楽しめる作品だったし、SF的にも異星人との共生テーマの先駆けということで高く評価されていたと思うのだが、本作にはそういったキモとなる部分が弱かったように思う。
 また、前作はあくまでバブと“捕り手”のコンビによる“ホシ”探しがメインストーリーだったけれど、本作ではストーリーの柱は宇宙船探し、しかも協力者が必要だとのことでメインキャラクターが増え、いわゆチームプレーになってしまって、緊張感が薄まってしまったことも挙げられるだろう。バブも活躍というには程遠い始末だ(体調が悪いという理由はあるのだけれど)。

 ただ、魅力的なキャラクターが新たに登場したり、ストーリー自体はいろいろと工夫されているので、読んでいる間、退屈するようなことはない。
 宇宙船探しと並行してバブたちの周囲に不可解な事故が起こり、バブたちの行動が妨害されるという展開も悪くない。もしかすると“ホシ”はまだ誰かに寄生しているのでは、という疑惑がサスペンスを高めてくれるわけだ。
 おまけにラストでは、“捕り手”が名探偵ばりに、皆を集めて「真相」を解明するという演出まで見せてくれる。

 前作ほどのインパクトはない。しかし、ともすればロジカルな部分に比重がかかり過ぎていた前作なので、もしかするとこういうストーリー重視の作品にして、きっちりとシリーズのカタをつけたかったのか。著者が長年の忘れ物をとりに戻った、そういう作品なのかもしれない。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

ツリーカテゴリー