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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

ジョルジュ・シムノン『メグレと死体刑事』(読売新聞社)

 ジョルジュ・シムノンの『メグレと死体刑事』を読む。なにやら奇妙なタイトルだが、死体刑事とは、メグレの元同僚だった刑事のあだ名である。カーヴルという名前と「死体」を意味するカダーヴルの語呂合わせに加え、性格が陰気なことから名付けられたものらしい。

 こんな話。メグレは知り合いの予審判事に呼び出され、田舎町で起こった事件の調査を個人的に依頼される。鉄道事故で死んだ被害者が実は殺害されており、その犯人が判事の義弟だと噂されているのだという。メグレは単身、現地へ出向いたが、田舎町ではメグレの神通力も知名度もなかなか通じず、いまひとつ捜査は進まない。おまけにメグレの元同僚だった「死体刑事」がなぜか街を彷徨き、メグレの捜査を妨害しているようにも見えた……。

 メグレと死体刑事

 表面にはなかなか現れないが、田舎町ならではの対立、不正、自堕落な生活、無気力などが蔓延り、それがあまりに自然なため、メグレも知らず知らずその中に取り込まれそうになる。その度に内心で恥ずかしい思いをしたり、イライラを爆発させそうになるメグレだが、そんな雰囲気に飲み込まれているメグレの心情が本作の読みどころと言えるだろう。
 この村におけるメグレの存在は異質であり、異邦人的なのだが、メグレもまた村人に対し、ある種の評価を下しているのがミソ。長篇としては短い作品ながら、主要人物はもちろん脇役ですらどこか癖のある人物ばかり。よくもこれだけ書き分けられるものだと感心するしかない。

 事件そのものはシンプルである。シンプルすぎてもう一捻りあるかと思うほどだが、メグレものではこんなものだろう。ただ、真相はこれでも良いのだが、メグレの捜査を妨害していると思われる「死体刑事」の扱いはやや物足りない。若い頃はメグレのライバル的存在であり、本作でも大きなアクセントになっているはずなのに、思ったほどの活躍(?)は見られない。死体刑事の行動やメグレとの対決をもっと掘り下げれば、本作はさらに面白くなっていただろう。そこは素直に残念なところだ。

 とはいえ全体でみれば相変わらず味のあるメグレものの一冊。解説ではメグレもののベスト5という評価だが、さすがにそこまではいかないにせよ、これは悪くない。
 なお、ラストでサラッと描かれる後日談はけっこうインパクトがある。後味は悪いけれど(苦笑)、こういう皮肉な一文を入れ込むのはさすがシムノンである。


ジョルジュ・シムノン『倫敦から来た男』(河出書房新社)

 ジョルジュ・シムノンの『倫敦から来た男』を読む。シムノンのノンシリーズは非ミステリーも多いが、これは比較的ミステリーの雰囲気をまとった作品。とはいえ興味の中心はやはり事件の謎なんかではなく、主人公が転落してゆく様であり、そうなるに至った心理である。

 港町ディエップで夜勤の転轍手と働くマロワン。贅沢はできないが妻と二人の子どもを抱え、単調で平凡な毎日を過ごしていた。そんなある日の夜、マロワンは高所に設置されている転轍操作室の窓から、二人の男がスーツケースのやりとりをしているところを目にし、マロワンはおそらく密輸入あたりだろうと見当をつける。ところが数十分後、二人はまたも姿を現し、今度は何やら争っている様子。すると一人がスーツケースもろとも海へ突き落とされてしまう。残った男は落ちた男を救おうともせず、その場を去っていった。
 誰もいなくなったあと、スーツケースが気になったマロワンがそれをを引き挙げると、中には五十万フランもの大金が入っていた。ひとまず転轍操作室のロッカーにスーツケースを隠したが、その日からマロワンは、去っていった男が自分の後をつけ狙うのではないかという不安に襲われる。やがて、それは現実のものとなり、さらにはその男を追って英国の刑事も現れ……。

 倫敦から来た男

 先に書いたように、本作はミステリっぽい体裁はとっているが、本質は平和な生活を踏み外してしまった主人公の行動や心理を描くところにある。
 平凡ではあるが決して満たされることのない日々。主人公マロワンにはそんな生活を変えようという気概もない。しかし若いときならいざ知らず、生活のために働き、疲れ果てた中年男性を誰が責められようか。そして、そんな人間が違法な手段でたまたま大金を入手したとき、どう考え、どう行動するのか。シムノンはマロワンを通じて、人間の弱さをまざまざと見せてくれる。
 とりわけ巧いのは、直接的な心理描写がいたって少ないことだろう。良質のノワール然り、良質のハードボイルド然り。シムノンはあくまで行動を通して主人公の心理を描いてゆく。大金が入ったことで奥さんに強気になる、贅沢品を買ってしまう。そうかと思うと男が自分をつけ狙っているという不安に怯え、かえって怪しい行動をとってしまう。そんなアンバランスな状態、一貫性のない行動が逆にリアルなのだ。

 カタストロフィへと至る道筋も絶妙だ。終盤、マロワンは倫敦から来た男と接触を果たすが、ここからのマロワンの行動にはかなり意外な感じを受ける。なぜそういう行動をとるのかという疑問と、それもまた仕方ないのかという納得感、その両者のバランスを保ったまま、読者は苦いラストを迎えることになる。
 マロワンは決して悪人ではない。しかし彼の抱える弱さは、多かれ少な彼誰もが持っているものではないだろうか。それが感じられるからこそ、マロワンを憐れむことができ、本作は胸に響いてくるのだ。

 個人的にシムノンは大好物だが、ストーリーの面白さという点で人にお勧めするのが難しい作家でもある。しかしながら本作は過去、三度も映画化されており、シムノン作品の中でも比較的面白さがわかりやすい作品だ。シムノンを試そうと思うなら、本作は間違いなくその筆頭にくる作品といえるだろう。


ジョルジュ・シムノン『マンハッタンの哀愁』(河出書房新社)

 ジョルジュ・シムノンの『マンハッタンの哀愁』を読む。ノンシリーズの非ミステリ作品で、シムノン自身の体験をもとにした自伝的恋愛小説。

 主人公はフランソワ・コンブという四十八歳になるフランスの俳優。妻もまた俳優だが、彼女は若い劇団員と浮気をして、コンブは別れ話を持ち出されてしまう。仕事で一緒になることを嫌ったコンブは、傷心のままニューヨークへ渡り、心機一転アメリカで仕事を続けようとする。しかし、思ったほどには仕事が取れず、今ではニューヨークで孤独のまま安アパートで暮らしている。
 そんなコンブがあるとき深夜の安食堂で一人の女性、ケイと出会う。帰るところもないケイと何となくホテルで関係を持ったコンブだが、孤独が二人を結びつけ、すぐに愛し合うようになるのだが……。

 マンハッタンの哀愁

 本作に描かれているのは、挫折を味わい、孤独を舐めている一組の男女による行きずりの恋だ。しかし、そんな恋にも、いや、そんな恋だからこそ胸を打つ感情の流れや縺れがある。崇高な恋愛にはない、疑惑や嫉妬、欲望がふんだんに入り混じる恋である。

 主人公コンブはかつては華やかな世界の住人だったが、今では落ちぶれて見る影もない。フランスに戻ればいくらでも仕事はあるというが、実際にそれを行動に移すことができず、いつの間にか低いところに流され、孤独を甘受してしまっている。今となってはその方が楽で、むしろ現状を変えたくないと思っている節もあり、そこにコンブの弱さがある。
 だからこそ、たまたま手に入れてしまった行きずりの恋をかえって失いたくないのだろう。傷を分かち合える相手・ケイに、心の安寧を期待するコンブ。そのためケイに対して逆にさまざまな疑惑や嫉妬を抱えることになる。それでもよしとする気持ちもありながら、自分を制御することができない。
 勝手といえば勝手な男なのだが、とはいえ、これはコンブがとりたてて特別なわけではない。人生において、現状に甘んじたいとかあきらめるとかという境地はむしろ普通であり、しかも意外に居心地がいい。そのくせいったん手に入れたものに対しての執着は凄まじい。
 人間なんて本来そういうものだろう。シムノンはニューヨークの孤独な二人による恋愛を題材に、そんなやるせない生き方を見せてくれる。
 ただ、努力や工夫次第で人は変わることもできる。それもまた人間の一面であり、素晴らしいところでもある。シムノン にしては珍しく少々甘ったるいラストだが、本作にはそんな希望の光が残されていて少し嬉しくなる。
 傑作とまではいかないが、ニューヨークの描写も含め、決して悪くない一冊だ。


ジョルジュ・シムノン『医師殺害事件』(湘南探偵倶楽部)

 仕事が立て込んでいて読書がなかなか進まず。そんなわけで本日も湘南探偵倶楽部さん復刻の小冊子(短編)でお茶を濁す。ものはジョルジュ・シムノンの『医師殺害事件』。かつて『新青年』に掲載されたものだ。

 医師殺害事件

 本作は安楽椅子探偵ジョゼフ・ルボルニュ(本書ではジョゼフ・ルボルニエ)シリーズの一作で、創元推理文庫からはルボルニュものの短編集『13の秘密』が出ているので、ご存知の方も多いと思う。ちなみに同書はメグレものの「第一号水門」を併録しており、現在の正式タイトルは『13の秘密 第一号水門』である。

 ジョゼフ・ルボルニュ・シリーズは、シムノンにしては珍しいパズル性重視の本格ミステリである。というか、原書では図版やら写真やらも合わせて載っていたらしく、パズル性重視どころか、本当に推理クイズとしての趣向だったらしい(このあたりの情報は瀬名秀明氏が詳しい紹介をこちらにアップしている)。
 管理人も四十年ぐらい前に創元推理文庫で読んではいるが内容はほぼ忘れているので、シムノンがこういうものも書いていたのかと、今さらながら驚いている次第である。

 内容としては、密室で銃殺されたと思われる医師の死体が発見されるのだが、犯人はおろか凶器すら見つからないという難事件。蓋を開ければ、まあ、こんなものかという感じなのも推理クイズ的なところだが、犯人の心情を慮る最後はやはりシムノンの味わいである。

 ちなみに本作は『13の秘密』に収録されている「クロワ・ルウスの一軒家」と同じ作品である(ただ、手元に『13の秘密』がなく、確認は取れていないので、もしかしたら間違っているかもしれない。念のため)。

ジョルジュ・シムノン『ブーベ氏の埋葬』(河出書房新社)

 ジョルジュ・シムノンの『ブーベ氏の埋葬』を読む。ミステリ風味の強い普通小説である。まずはストーリー。

 舞台は第二次世界大戦直後のパリ。セーヌ河岸の古本屋の店頭で、版画集をのぞいていたブーベ氏が突然息絶えてしまう。ブーベ氏は近所のアパルトメンに一人で暮らす老人だ。訪ねる人もなく身寄りがまったくないように思えたが、その死亡記事が写真とともに掲載されると、ブーベ氏の親族や知人が続々現れて……。

 ブーベ氏の埋葬

 いやあ、なかなかいい。シムノンの巧さが光る一品である。
 基本的なストーリーはシンプル。親切な独り者の老人と思われていたブーベ氏の過去が関係者の証言で再構築され、その知られざる生涯と内面が明らかになっていく。まあ、それ自体は珍しい設定というわけではない。ただ、シムノンが語ることによって、それが実にじわっとくる物語に昇華してしまうのである。

 死ぬ直前まで静かな生活を送っていたブーベ氏だが、実はその生涯は波乱に満ちたものであった。ブーベ氏の過去が二転三転する展開は序盤こそユーモラスだが、戦争の影が落ち、犯罪の匂いまでもが立ち込めてくると、何とも切ない気分になる。いったん成功を手にしたようにも思えるブーベ氏だが、果たして彼が本当に欲していたものは何なのか、それとも彼は何かから逃げようとしていたのか。興味は尽きない。
 最終的にブーベ氏が選んだのはセーヌ河岸の町である。ブーベ氏がなぜその地を選んだのか、はっきりとは明らかにならないけれど、おそらくはそれこそが彼の意思であり、セーヌ河岸の町の暮らしにこそ彼の欲していたものがあったということではないだろうか。

 しかし、シムノンの作品を読んでよく思うことだが、けっこう掘り下げられるネタをいつもコンパクトに収めてしまうのが潔くてよい。現代の作家、それこそフランスでいうとルメートルなんかもそうだが、みなボリュームが過剰なんだよなぁ。大作ゆえの読み応えも大事だろうが、これは作者のセンスの問題なのか、それとも営業上の問題なのか。

 余談だが、本作の登場人物のなかにリュカという刑事がいるのだが、これはメグレ警視にも登場するリュカと同一人物?


ジョルジュ・シムノン『メグレの退職旅行』(角川文庫)

 ジョルジュ・シムノンのメグレ警視もの短編集『メグレの退職旅行』を読む。
 以前に読んだ『メグレ夫人の恋人』という短編集は、『Les Nouvelles Enquetes de Maigret』(メグレ最新の事件簿)という短編集からセレクトしたものだったが、本書も同じ短編集から採られている。
 どういう基準で作品が分けられたのかは不明だが、強いていえば『メグレ夫人の恋人』では比較的トリッキーな作品が多かった印象。かたや本書では、メグレが事件や関係者、さらには自らを取り巻く環境に振り回される姿を描いた作品が多い。
 メグレの定年退職前後の作品が三作ほど混じっているのもその感を強くしており、メグレの心情の移ろいみたいなところが楽しめる短編集といえるだろう。まあ、ミステリ的には『メグレ夫人の恋人』のほうが上とは思うが、これはこれで面白い。
 収録作は以下のとおり。

Monsieur Lundi「月曜日の男」
Rue Pigalle「ピガール通り」
La Vielle dame de Bayeux「バイユーの老婦人」
L'Étoile du Nord「ホテル北極星」
Mademoiselle Berthe et son amant「マドモワゼル・ベルトとその恋人」
Tempête sur la Manche「メグレの退職旅行」

 メグレの退職旅行

 以下、各作品について簡単なコメントなど。
 バリオン医師宅の女中が不審な死を遂げ、その捜査を描くのが「月曜日の男」。死因はエクレアに忍ばせたライ麦の芒によるものだったが、そのエクレアは毎週月曜日に医師宅にやってくる老人が子供に与えたものだった……。
 それほど凝ったネタではないけれど、一応、捻りはあるし、何より犯人のキャラクターに今風の怖さがある。最後の一行もなかなか効果的だ。

 「ピガール通り」は一幕ものの芝居のような雰囲気。匿名の電話を受けたメグレが店に着くと、そこにはギャング同士のいざこざがあった形跡が。誰もが口を濁すなか、遂には死体が発見され……という一席。地味ながら独特の緊張感で読ませる。

 ミステリ的な面白さでは「バイユーの老婦人」が本書中のピカイチか。
 地方都市カンに派遣されたメグレは、老婦人に話し相手として雇われていた女性の訪問を受ける。老婦人が死亡したが、殺人の可能性がるので調べてほしいという……。

 「ホテル北極星」はメグレが退職二日前に遭遇したホテル北極星での事件を扱う。被害者のもとにはストッキングが残されており、その持ち主を探すメグレだが……。
 若い娘に振り回されるメグレのイライラが見もの。コミカルなメグレものはなかなか貴重で印象深い一作。

 『マドモワゼル・ベルトとその恋人』はメグレ退職後の物語。メグレのもとに助けを求める手紙が届くが、その差出人はなんとリュカの姪。犯罪を犯したかつての恋人に迫られているというのだが……。
 リュカの若い姪に対するメグレの心理や言動が読みどころだが、メグレものには珍しく、スマートイメージの作品。後味もいい。ただ、作中でリュカの死がさらっと明らかにされるのが悲しい。
 
 ラストを飾るのは文字どおり「メグレの退職旅行」中に起こった事件。嵐のためにペンションで足止めをくらったメグレ夫妻が殺人事件に遭遇する。
 すっかり観察力もやる気も鈍ってしまったメグレは、端からみても精彩がなく、おまけにこの作品でも女性相手に気苦労が絶えない感じである。「ホテル北極星」などのように、こういうのはユーモラスに描いてほしいところだが、タッチは暗めで読んでいて切なくなってしまう。ただ、最後はしっかり決めてくれてひと安心。


ジョルジュ・シムノン『メグレ夫人の恋人』(角川文庫)

 大雪なのでいつもよりは早めに帰宅。風呂上がりに雪かきをするはめになるとは夢にも思わなんだが(苦笑)。


 本日の読了本はシムノンの短編集『メグレ夫人の恋人』。まずは収録作から。

L'Amoureux de Madame Maigret「メグレ夫人の恋人」
Peine de mort「死刑」
La Fenetre ouverte「開いた窓」
La Peniche aux deux pendus「首吊り船」
Les Larmes bougie「蝋のしずく」
Une erreur de Maigret「メグレの失敗」
L'Affaire du boulevard Beaumarchais「ボーマルシェ大通りの事件 」
Jeumont, cinquante et une minutes「停車─五十一分間」
Stan le tueur「殺し屋スタン」

 メグレ夫人の恋人

 本書は1944年に刊行された『Les Nouvelles Enquetes de Maigret』(メグレ、最新の事件簿)から九作をセレクトした一冊。メグレものの短編集は五冊あって、長篇に比べると実に少ないのだが、その出来は長篇に勝るとも劣らない。
 全般に長篇ほどには人間ドラマを押し出しておらず、意外な結末を用意するなど、かなり通常のミステリに寄せているような印象である。
 短篇をもとに長篇化するケースは海外の作家にありがちだけれど、シムノンもその例に漏れず、おそらくは長篇化する際にいろいろとドラマの肉付けをすると思われる。したがってミステリとしては、むしろ短篇の方がすっきり読めるものが多いのかもしれない。まあ、あくまで想像だけど。
 ともあれシムノンの作品でどんでん返しがこれだけ楽しめるというのは非常に楽しい。

 「メグレ夫人の恋人」はタイトルだけ見れば不倫もの?と勘違いしそうだが、まったくそんなことはない。メグレ夫妻が暮らすアパルトメンから見渡せる広場で、いつもベンチに長時間座っている男がおり、それをメグレ夫人が気にしていることから、メグレが夫人をからかって“恋人”と称したことによるもの。
 ところがあるとき男がベンチに座ったまま殺害されてしまという事件が起こり、男の奇妙な行動の裏に何があったのかメグレが捜査する。
 メグレ夫人が夫顔負けの推理や捜査の真似ごとをするのが微笑ましいが、真相やそれに到達する流れも面白く巻頭を飾るにふさわしい一作。

 「死刑」も面白い。尻尾を掴ませない容疑者に対し、メグレは徹底的な尾行でプレッシャーをかけるのだが、そこにはメグレの意外な狙いがあったというもの。

 実業家の爆殺事件を扱うのが「開いた窓」。メグレは実業家に長年虐げられていた部下に目をつけるものの、その男にはアリバイがあった……。

 「首吊り船」はセーヌ川に浮かぶ船から発見された男女の首吊り死体の謎を追う。男はちょっとした資産家の老人、女はその資産目当てに結婚した若い妻であった……。

 田舎町の老姉妹宅で起こった殺人事件を捜査する「蝋のしずく」。町の描写や事件の真相が陰々滅々としており、メグレもの本来の味わいが濃厚な一品。

 タイトルどおり「メグレの失敗」談。特殊書店に勤める若い女性が殺害され、メグレは店主を犯人とにらむが、その真相はほろ苦いものだった……。メグレが行き場のない感情を爆発させるのが見もの。

 「ボーマルシェ大通りの事件」は夫と妻、その妹の三角関係から起こった事件。妻が毒殺され、メグレは夫と妹を交互に調べていくが……。現代でこそ起こりそうな事件。

 国際列車のなかで起きた殺人事件を捜査するのが 「停車─五十一分間」。『オリエント急行殺人事件』ばりのシチュエーションは楽しいが、ラストが妙に駆け足なことが物足りず、ミステリとしての仕掛けもいまひとつ。

 「殺し屋スタン」は早川書房の世界ミステリ全集のアンソロジー『37の短編』、それを再編集したポケミス版『天外消失』にも「殺し屋」のタイトルで収録されている傑作。
 殺し屋スタンを含むポーランド難民の強盗団を追うメグレたち。そこへ自殺を考えているポーランド人の男が、せめて最後にこの命をポーランド強盗団逮捕に役立てたいと、執拗にメグレを追い回す。メグレは渋々引き受けることになるが……。
 再読ゆえ真相は知っていたが、シムノンの語り口がある意味カモフラージュになっていることがよくわかり、再読でも十分楽しめる。未読の人ならもちろんこのラストに驚くはず。


ジョルジュ・シムノン『片道切符』(集英社文庫)

 ジョルジュ・シムノンの『片道切符』を読む。1942年に刊行されたノンシリーズ作品で、いわゆる心理小説と呼ばれるもの。
 シムノンはメグレ警視ものだけではなく、数多くの心理小説も残したが、そもそも心理小説とはフランス文学のお家芸みたいなもので、人間の心の微妙な綾を簡潔な文体で表現し、克明に分析しようとするのが特徴。この説明がそのままシムノンの小説の説明にも当てはまる。

 こんな話。
 殺人罪で逮捕され、仮釈放の身となったジャン。たいした目的もないままバスに乗り込んだが、そこで
同じバスに乗り合わせた中年の未亡人タチの荷物(孵卵器)運びを手伝ったことがきっかけで、そのままタチの家に下男として住み込むことになる。ジャンはタチの情夫となるが、そこにタチの姪フェリシーが現れて……。

 片道切符

 流れ者が女と知り合い、痴情のもつれから再び人を殺してしまう、ただ、それだけの物語。だが、殺す側にどういう理由があったのか、それが直接的に語られることはなく、シムノンはあくまで登場人物たちの行動からそれをイメージさせる。
 とりわけ主人公のジャンが無口なキャラクターであるため、彼が前科者であることや実は街の有力者の息子であることも最初は隠されており、そういった事実が少しずつ明らかになるたびに読む側としては軽くショックを受け、ジャンがどのような人間なのか想いを巡らせてしまうわけである。
 ただ、一見なんの希望もなく虚無的に見えるジャンだが、タチ&フェリシーとのやりとりやたまに差し込まれる過去の回想によって、実は重度のストレスを抱えていることも窺える。それが近い将来のカタストロフィを予想させ、良質の心理的サスペンスを生んでいくのだろう。
 シンプルだが、シムノンの上手さを再認識できる佳作である。


ジョルジュ・シムノン『モンド氏の失踪』(河出書房新社)

 シムノンの『モンド氏の失踪』を読む。シムノンの文学寄りの作品をコレクションした河出書房新社の【シムノン本格小説選】からの一冊。

 こんな話。パリで会社を経営するノルベール・モンド氏は再婚した妻と二人の子供にも恵まれ、すべてが幸せに見えた。しかし、妻はいつしか彼のことを理解しないようになり、子供たちは精神的に自立できず、モンド氏に頼りきる暮らしであった。
 そんなある日のこと。モンド氏はなんとなく会社も家族も捨て、夜汽車でパリをあとにする。その先で出会ったのは男に捨てられて自殺を図った女との出会い、犯罪がひしめく裏社会、落ちぶれた最初の妻との再開。モンド氏はそこで何を得ることができるのか……。

 モンド氏の失踪

 新たな人生をやり直すというのは、とりたてて珍しいテーマというわけではない。ただ、これをシムノンがやるとまた一味違ってきてなかなか面白い。
 面白いポイントはふたつあって、ひとつは主人公がこれまでの暮らしを何もかも捨てさり、まったく誰にも知られることなく消え失せてしまうところだ。家族や同僚など残された者にはたまったものではないが、そういうことも一切気にせず消え失せる。
 そこにあるのは他者がまったく気づかなかった主人公の深い闇であり、そんなところに人の結びつきに対するシムノン自身の醒めた人生観がちらほら感じられて興味深い。

 もうひとつのポイントは、その実、主人公が失踪する確固たる理由がないところである。家族に対する失望や人生の目的を見失ったようなイメージは感じられるが、大きなきっかけになるような事件もなく、何が何でも人生をやり直すという決意もない。
 日々の暮らしの中でうっかりボタンを掛け違えたかのような、そんなレベルで主人公は自分を消してしまうのである。

 ただ、そんな失踪事件を起こした序盤は引き込まれるのだけれど、その後がいまひとつ。
 やり直すはずの人生が意外に波乱万丈で、ううむ、それまでの人生と対比する意味を持たせているのだとは思うのだが。モンド氏の絡みかたというか行動ルールがそれまでの生き方となんとなくズレている感じがして、いまひとつ納得できないのである。
 モンド氏は自分の人生を変えようとしているのであって、自分の生き方まで変えたいわけではない。その辺りの設定がやや混乱した印象で残念なところだ。

 モンド氏は結局ラストでもとの人生に帰っていくことになり、その人生は再び暗澹たるものになることが暗示されて幕を閉じる。このラストがたまらなくよいだけに、中盤が余計にもったいない。
 まあ、そんな不満もあるのだけれど、モンド氏の抱える心の澱は、案外、現代の日本のサラリーマンが抱えている悩みと似ている気がしないでもなく、そういう意味では考えさせられる一作である。


ジョルジュ・シムノン『メグレと老婦人の謎』(河出文庫)

 カウンターが本日(昨日だったかも? 適当なのでよくわからんw)、100万を突破。おお、われながら凄いじゃないか。
 2007年にブログを立ち上げ、ちょうど十年ほどで達成したので年平均10万、一日平均300弱といったところ。こんな辺境ブログをお訪ねいただき、見てくれている方々には感謝しかございません。特にキリ番企画などまったく考えてはおリませんが、今後ともご愛読いただければ幸いです。



 さて、本日の読了本はジョルジュ・シムノンの『メグレと老婦人の謎』。1970年の作品でメグレものとしては最後期にあたる。

 メジスリー河岸で暮らす一人の老婦人。その彼女がメグレに用があると警視庁に日参していた。自分の留守中に誰かが忍び込んでいるというのだ。その証拠に家具が僅かだが動いているというが、盗まれたものは何もない。メグレは自分が出る幕もないと思い、若いラポワント刑事を対応させ、型どおりの調査は行わせた。
 だが、その数日後、老婦人が自分の部屋で殺害される。死因は窒息死。メグレは老婦人に対して自分がしてやれなかったことを悔やみながら捜査に取り組むことになる……。

 メグレと老婦人の謎

 後期のメグレものらしく、あまりミステリとして凝った内容ではない。謎の中心は、家具が動かされている理由はなぜか、つまり犯人の目的は何かというところなのだが、登場人物が少ない上に早々と手がかりが与えられるため、真相や犯人を想像するのはそれほど難しい話ではない。

 シムノンもことさら謎解きを重視しているわけではなく、読みどころは老婦人に最善の対応ができなかったことを悔やむメグレの心情だろう。部下に対応をさせているし、メグレにそれほど責任があるわけでもないのだが、結果として喉に刺さった小骨のようにメグレを苛む老婦人の死。
 それが影響しているのだろう。メグレは珍しく妻を散歩に誘ったり、一日フルに休日の相手をしたりするのだが、おそらくそれによって精神のバランスをとっているのである。こういう間接的な描写がやはりシムノンならではの巧さだ。
 ミステリとしていまひとつでも、こういうメグレが読めるのなら、ファンとしてはそれでOKといったところか。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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