読了本は実にひっさびさのマーティン・クルーズ・スミス。レンコ・シリーズの『ハバナ・ベイ』。
ロシア検察局の捜査官レンコ。彼のかつての仇敵にして友人、プリブルーダが、キューバで謎の死を遂げた。最愛の妻を亡くし、失意の日々を送っていたレンコは自殺さえ考えていたが、身元確認のためやむなくキューバへ飛ぶ。そして、そこでレンコを待っていたのは、ロシアに見捨てられたかつての革命国家の荒んだ姿、ロシア人に対する冷たい敵意、水面下で行われている陰謀であった……。
見どころは多いが、やはり驚かされるのはキューバの描写だろう。キューバに行ったことがないので、実際のところはなんともいえないが、よくぞここまでというぐらいキューバ国民の心情や生活、街並みが描かれているのがすごい。そもそもレンコ・シリーズの一作目『ゴーリキー・パーク』にしてからが冷戦当時のモスクワを描くという荒技を成し遂げていたのだが、キューバはさらに取材しにくい国ではなかろうか。かつての東側諸国はご存じの通り民主化の波に呑まれて、ほとんどの国が資本主義国に生まれ変わった。その中でロシアに見放され、未だに社会主義国の暗い影を引きずっているのがキューバだ。そういう意味では本作は、シリーズの原点に立ち返ったといってもよい作品である。
レンコはそんなキューバという見知らぬ国で孤立無援の捜査を続ける。過酷なことは当時のモスクワ以上であり、加えてレンコは最愛の妻を失い、絶望の淵に立たされている。レンコの心の闇、キューバが抱える問題、キューバ国民のやりきれない心情がないまぜとなって、シリーズでもとりわけ重い空気をはらむ。キューバが原色の国であるからこそ、この重い空気がより際だち、読む者を圧倒するのだ。これこそ本書のもうひとつの読みどころでもある。
ボリュームもかなりのものだし、前半から中盤にかけての展開がちょっとだるいが、シリーズのファンは絶対に見逃せない作品といえるだろう。
先日本屋に行ったときマーティン・クルーズ・スミスの最新刊『ハバナ・ベイ』が出ているのを発見。しかもお懐かしや、『ゴーリキー・パーク』で知られるレンコ・シリーズである。このシリーズは他にも『ポーラ・スター』と『レッド・スクエア』があり、これでシリーズは全四作。ノンシリーズや別名義のシリーズがあるにせよ、ここまでで十九年という歳月が流れている。最近の出版界の風潮とは対極のところで書いているようで、著者がこのシリーズを大事にしていることがわかる。
さて、もちろん『ハバナ・ベイ』は購入したのだが、新しいものを読む前に古いところを消化しなければいけない。そこで積ん読の山から引っ張り出して読んだのが、本日の『スタリオン・ゲート』だ。
舞台は第二次大戦中のニューメキシコ。もはやイタリアが墜ち、ドイツが墜ちようとしている終戦間近。アメリカはここニューメキシコで原爆の開発を続けており、その実験を間近に控えていた。そこに配属されたのが、アメリカ先住民族の血を引く主人公ジョーである。無類の女好きのジョーは上官の妻と浮気したことが発覚して拘留中だったのだが、折しも原爆の開発チーム内にドイツのスパイ疑惑が浮上し、その調査と引き替えに釈放されたのだった。
実はなんとも歯がゆい一冊なのだが、まずは長所から。
この物語の魅力は一にも二にも主人公ジョーにある。ジョーは舞台となるニューメキシコ出身の先住民族。元ボクサーでありながらピアニストとしても一流で、地元のジャズハウスのオーナーになることを夢見ている。しかも女好き。この主人公の多彩な面が、物語の中で際だっている。原爆実験を推し進める軍、開発チームの長である幼なじみ、実験に反対する地元先住民族、スパイ発見に血まなこの冷徹な上官など、恋愛に陥る怪しいドイツ人数学者、さまざまな軋轢と人間関係のなかで、ジョーは自在に泳いでゆく。あくまで渦中に踏み入ることはせず、自分は自分、他人は他人。その距離感が狂った世界観を冷静に描写してゆく。
だが、その反面、物語の表面的なことだけが淡々と語られるだけの印象もある。原爆実験に向けての緊張感や、スパイが誰かというサスペンスがあまり感じられないのが痛い。
そして何より、原爆を単に威力の大きい爆弾としか捉えていないフシが見受けられ、著者の認識にガッカリする。放射能の脅威についてはほんの少し触れられるだけで、科学者同士が議論する場面でも、巨大な爆風によって民間人を多く巻き込むことの是非だけである。原爆の根本的な恐怖についてはまったく解かっていない。これが当時のアメリカ人の認識なのだろうか? エンターテインメントだからこそデリケートな問題を扱う際の気配り、そして取材を大事にしてほしい。もしかすると傑作『ゴーリキー・パーク』だって、ロシア人から見るとこういうレベルなのかと考えたりもする。世の中には無知では許されないこともあるのだ。
今回は自戒も込めて。
一昔、いやもう二昔前になるだろう。動物パニックというジャンルが、映画や小説で流行ったことがある。火付け役はもちろんピーター・ベンチリー作の『ジョーズ』。その後、熊やらワニやら犬やらヘビやらピラニアやらミミズやら蜂やら、もう数え切れないくらいの獣が人間を襲ってきた。そして『ジョーズ』から遅れること二年。ある作家がコウモリをネタに作品を書き上げた。
それがマーティン・クルーズ・スミス作の『ナイトウィング』。
大したストーリーはない。舞台はアリゾナのインディアン居留地。家畜の奇怪な死を発端にして幕を開ける吸血コウモリと人間の戦いを描いた作品だ。
この手の作品を成功させるポイントはふたつあると思う。
ひとつは獣と人間の戦いに説得力をもたせること。これは科学的なものでも良いし(ま、こちらが一般的ですわな)、オカルト的に解釈するのも手だろう。動物の特性などをしっかり説明し、なぜ人間を襲うのか、どうやったら退治できるのか、この辺をしっかり書き込んでくれないと読めたものではない。どっちにしても普通はまずあり得ない状況を物語るのだから、上手に嘘をついてほしいのである。そうしないと子供向けの怪獣物と大差ない低レベルの作品になることは目に見えている。
もうひとつのポイントは、獣との対決という縦軸以外に、対立する人間関係やロマンス、主人公の成長などの横軸でしっかりフォローすることであろう。どうしても単調になりがちな獣との戦いを物語として成立させるには、これも欠かせない要素となる。
そこでこの『ナイトウィング』。
結論から言うと、水準は極めて高い。吸血コウモリの蘊蓄は申し分ないし、退治の仕方も合理的だ。また、作者は主人公にホピ族の保安官補を採り、インディアンの部族間の対立、主人公の精神的成長、ロマンスなどを盛り込み、さらにはインディアンの伝説などでオカルト色も絡めている。はっきり言ってあまり期待しないで読み始めたのだが、リーダビリティはなかなかのものであった。さすがはマーティン・クルーズ・スミス。後に『ゴーリキー・パーク』でブレイクした作者だけのことはある。
ただ、そんなに面白かったのかといえば、「それなりに」という答えにはなってしまう。やっぱり相手がコウモリごときではイマイチ恐怖感が盛り上がらないのだ。この手の話はやはり相手が強力すぎるくらいでないと困る。
必読ではないが、類似作品の中ではハイレベルだと思うので、動物パニックものが好きな人なら読んでも損はないか。