この三連休というのは魅力は魅力だが、こちらは仕事が忙しくてなかなか暦どおりには進まない。精神的にも肉体的にもしんどい。
文学味豊かなミステリを書く作家はままいるものだが、とにかく「読書をした」という満足感を十二分に味あわせてくれる作家はそれほど多くない。で、トマス・H・クックは間違いなくその数少ない一人だろう。
とりわけ初期のクレモンズ三部作は個人的にイチオシなのだが、悲しいことにもう絶版らしい(泣)。まあ、このシリーズはあまりの暗さ&重さで人によっては胃にもたれるかもしれないし、人に勧めるとすれば、やはりここは世間一般で言われるように、記憶シリーズが無難であろう。記憶シリーズは日本での人気がブレイクした作品として知られているが、どれも粒揃いで、安心しておすすめできる作品ばかりである。
ところが今回読んだのは、そんな小説巧者のクックが書いたノンフィクションの『七つの丘のある街』。書かれた時代はクレモンズ三部作の後、記憶シリーズの前というから、なかなか微妙なところだ。クレモンズものの総決算的なものなのか、あるいは新たな境地をめざしたものなのか、そういう意味でも興味深い。
で、結論から言うとこれがまた微妙なところで、気持ち後者寄りか。ミステリではないため、もちろん犯人探しという要素はなく、殺伐とした事件の背景を探って、なぜ犯人はこの事件を起こすに至ったかという動機の部分にスポットを当てている。これはクックがその後に書いた記憶シリーズなどにも共通する要素であるが、ノンフィクションの本書では、それがすべてといってよい。文体も彼独特の叙情的な香りは影を潜め、犯罪実話的な事実のみを綴る手法をとっている。
したがって後の記憶シリーズへの影響を含めて読むのであれば、なかなか興味深いのかもしれない。また、カポーティの『冷血』に代表されるように、犯罪を扱ったノンフィクションがある程度のポジションを占めているアメリカではやるべき仕事だったのだろう。
だが、クックは文学性と同時に、物語ることの巧みさも売りの作家であり、記憶シリーズが好評を博した理由にそこにあるはずだ。したがってその点が重視されていない本書は、どうしても一段評価を落とさざるを得ない。正直、退屈さが先行して、最後まで楽しむことはできなかった。
トマス・H・クックの『テイクン(下)』読了。スピルバーグが製作したSFテレビドラマを、あのクックがノヴェライズしたもので、「地球に来訪した未知の生命体と3家族が4世代に渡って織り成す壮大なSF大河ドラマ!」である。
なんせストーリーが3つの家族を4世代にまたがって追いかけるうえ、場面もコロコロ変わるので、さすがに上巻の辺りは各家族のイメージが掴みにくく、筋を追うので精一杯のところはある。それが下巻で1本の流れに集約されてくるにしたがい、読みやすさも物語のボルテージも上がってゆく感じだ。
元々がなんせテレビドラマなので、それを上下巻にまとめることに問題があるわけだが、話は思った以上によくまとめられている。人物描写も悪くなく、よくもこれだけの登場人物を書き分けていると感心。ノヴェライズもライター次第で十分に読ませる話になるという見本であろう。
しかしながらお話しそのものが魅力的かと言われれば、それほどのものとは正直思えなかった。肝としては、家族愛あるいは同胞愛という人間ドラマとしての側面、人間同士による狩る側と狩られる側のスリラー的側面、そしてエイリアンが人類の敵か味方かという謎、言い替えればエイリアンの目的は何かというサスペンス的側面があるのだが、とりわけ最後のネタが手垢のついたものだけに、物足りなさは否めない。長い物語の割には、ラストもやや中途半端ではないだろうか。
クックの職人技は認めるにしても、あくまでライトユーザー向け。そんな作品である。
この三連休は墓参りで嫁さんが里帰り。普通なら羽を伸ばすところだが、仕事がしっかり入っているし、愛犬の世話もあるのでそれほど楽ではない。
ちょっと読書も滞り気味だったが、本日はトマス・H・クックの『テイクン(上)』を読み終える。スピルバーグ監修のSFテレビドラマをクックが小説化したもので、クックのノヴェライズというだけでも珍しいが、なんと日本での版元は竹書房文庫というから、これまた意外な組み合わせ。
詳しい感想は下巻読了時にするとして、本日はちょっと気になったことだけをメモ。それはこの竹書房文庫の製本。紙のせいだと思うが、とにかく開きが悪くて読みにくいったらないのである。他の竹書房文庫もこんな感じなら、関係者、再考を願う。
業界の一大イベントで幕張メッセへ。2週間ほど前にも行ったのだが、やはり規模が桁違い。しかも今回は目玉が目玉なので人も多く、なかなかの盛況である。おそらくここ数年で一番か。かなり歩き疲れたが、やはりこれぐらいの盛り上がりがないと業界全体がやばいもんなぁ。いや、マジで。
幕張への往復のお供はトマス・H・クックの『闇に問いかける男』。
公園でキャシーという八歳の少女が殺害された。容疑者は公園で子供たちをスケッチしていた若い浮浪者スモールズ。だが、彼はかたくなに容疑を否認し続け、証拠物件もないまま、ついに釈放まであと11時間というリミットが決定される。コーエンとピアースの両刑事は、スモールズの自白を引き出すべく、最後の尋問に臨む……。
クックには珍しくタイムリミット型のサスペンスである。だが、途中途中で捜査の過程を回想シーンで読ませるため、残念ながらそれほどサスペンスが効いているとは思えなかった。展開は異なれども、むしろ味わいはいつものクックのそれであり、そういう意味ではクックの読者であればすんなり物語に入り込めるだろう。
それにしてもクックは上手い。本作は二人の刑事と容疑者のスモールズの他にも主要な人物を数人配し、各人の辛く複雑な過去を語ることによって、暗く澱んだ世界を描き出す。この語りの上手さがクックの武器であり読みどころ。本作も読後はかなりダークな気分にはなるが、どんでん返しも含めて、つくづく読んで良かったと思える一冊。おすすめ。
トマス・H・クック『神の街の殺人』読了。
本作は最新作ではなく、1983年に書かれた作品である。つまり記憶シリーズはもちろんフランク・クレモンズ・シリーズより先に書かれたということで、最近のあざといばかりの構成は影を潜め、ストレートなハードボイルドを展開しているのが大きな特徴。しかもサイコ・スリラーだ。
物語の舞台は敬虔なモルモン教の街、ソルトレーク。モラルの高さや犯罪発生率の低さを誇る美しい宗教都市である。その神の街で、黒人娼婦が射殺されるという事件が起きた。捜査にあたるのはニューヨークから流れ着いたよそ者の刑事トム、そして地元生え抜きのモルモン教信者の刑事カール。一見ただの猟奇的犯罪に見えたこの事件が、清潔な神の街を恐怖のどん底にたたき落とす連続殺人へと発展してゆく……。
先に書いたとおり、本書はストレートなハードボイルドもしくは警察小説だ。ポイントはふたつある。まずは主人公トムの生き方。ニューヨークでの苦い体験を忘れたいがために、この清廉なる地に移ってきたと思われるトム。だが、結局は過去の亡霊に悩まされ、しかも逆にソルトレークの清潔さに違和感を抱きつつ暮らす。
もうひとつはソルトレークが静謐さ故に抱える爆弾である。ニューヨークやラスベガスのような、欲望を具現化したような街の対極にあるといってもよい美しい宗教都市、それがソルトレークだ。しかし住民の大半がモルモン教というこの街は、モルモン教に関わりのない者にとっては威圧的なまでの息苦しさを与え、一方では過剰な信仰が人の精神バランスを狂わせる場合もある。正しい道なのかもしれないが、ある種バランスを欠いた側面がないとも言えない。そんな危うさも抱えた街がソルトレークなのだ。ソルトレークが実際にそのような街か私は知らないが、物語のうえで作者は間違いなくその危うさを危惧している。
以上の二点を理解すると、この物語の方向性はある程度見えてくる。いま読むとそれほどの刺激はないが、定石をきっちり踏まえたうえで、物語をむだなく盛り上げていく術はさすがクック。徐々に明らかになってゆく犯人の宗教的動機や精神、さらにはそれに呼応するかのようにトムの内面もまた照らし出されてゆく。
そしてクライマックス。クックの書く犯罪小説のテーマが、常に心の浄化であるといっても間違いではないだろう。すれた読者なら「予想できた結末」などと宣うかもしれないが、後のクック作品を彷彿とさせる作品といってよい。
確かに最近の作品と比べれば饒舌過ぎる嫌いはあるし、その一方で舌っ足らずなところもある。コクにも欠ける。だが、クックファンなら読むべき作品だし、クックじゃなければ佳作といってよいレベルにはあると思う。
土、日と連日の休日出勤。休んだ分を取り返す、なんて健気なものではなく、単にせっぱ詰まった仕事を抱えるスタッフのヘルプである。そのくせ、けっこう待ちの時間が多いために、ついつい本などを読み進めてしまい……ああ、読み終わっちゃったよ、いいのか、仕事中に。
というわけで本日の読了本は、トマス・H・クックの『心の砕ける音』。
文学とミステリの幸せな合体を実践できる作家として、すでにミステリファンなら知らない人はいないと思われるほどの大家だが、それでも読んだことないという人は、ぜひ記憶四部作からでも手をつけてみてください(シリーズではなく単独作品なのでどれからでもよし)。絶対損はさせないから。
情熱にしたがって生きるというロマンチストの母。その母の気質を受け継いで小さな新聞社を経営する弟ビリー。かたやリアリストで論理的、感情を抑制することが大事と考える父。その父の気質を受け継ぎ、地方検察官になった兄キャル。なかなか相容れない性格ながらも、兄弟はお互いを尊重しながら暮らしていた。そこへ現れた流れ者の女性ドーラ。ビリーは彼女こそ探し求めていた理想の女性だと確信するが、キャルはもうひとつ納得できない何かを感じていた。
しかし、あるときビリーは殺害され、その日からドーラが姿を消す。キャルは仕事を辞し、ドーラの後を追うのだった……。
人には自信をもってオススメするクックなのだが、実はこの『心の砕ける音』、最初はあまりノレなかった。またまた過去を回想するという手法が取られていたからである。
叙述トリックとまではいかないにしろ、クックは記憶四部作でこのパターンを極めた観がある。ストレートな時間軸で語らず、主人公が過去を回想することによって、物語に深みを持たせると同時にミステリ的な仕掛けも施しているのだ。クックを初めて読む人には問題ないだろうが、すでにクックを読み尽くした人間には、当然作者の企みが隠されていると思うので、素直に読む進めることができないのだ。
「あざとさ」や「けれん味」は嫌いではない。むしろ好きである。これがエンターテインメント路線の作家であれば、逆に潔いくらいだし、例えばマイクル・クライトンなんてあざとさの極北だと思うのだが、それがなくなるとクライトンの良さも消えてしまうだろう。だがクックは純文学志向がもともと強い作家で、クックをクックたらしめる点というのは、小説としての味わいにこそある。あざとさが鼻につくようでは、その魅力も消されてしまうではないか。
とにかく、いいかげんこのパターンは止めようよ、というのが最初の印象だったのだ。そんなことをしなくても、クックなら十分に魅力ある物語は作れるはずだ。
ところがどっこい。いやいや、中盤からは結局クックの術中にハマったというか。鼻につくあざとさを吹っ飛ばす力強さが、この物語にはある。ビリーとキャルの兄弟の絆。家族間のパワーバランス。次第に顕わになってゆくドーラの複雑な人間性と秘められた過去がサスペンスを盛り上げ、キャルは少しずつ核心に迫ってゆく。ラストの意外性もあり、まさに傑作の名に値する。
結末も今までのように救われないものではなく、はるかに温かなまなざしが感じられ、読後はしばらく言葉が出なかったほどだ。やっぱりクックは安心して人にオススメできる作家なのだ。