マーク・チスネルの『ゲームに憑かれた男』読了。刊行当時は少し話題になったと思うが、おそらくほとんどの人にとっては無名の作家だろう。小説はおそらくこれ1作。しかしライター歴は長く、ヨットの専門書では知られた人らしい。本書もその持ち味であるヨットの描写が効いた作品だ。まずはストーリーから。
為替ディーラーとして順調な人生を歩む主人公マーティン。しかし、ある交通事故をきっかけに、精神的ダメージを負い、仕事で大きなミスをしてしまう。立ち直ることもできないまま、仕事も恋人も失ったマーティンは放浪の旅に出る。やがてタイで暮らすようになるが、そこで麻薬組織のボス、ジャナックと出会う。ジャナックは偏執的なゲーム・マニアであり、マーティンを罠にかけて密輸に誘い込み、そればかりか元の恋人や周囲の人間をも巻き込んでゆく……。
巻き込まれ型のサスペンスだが、悪玉ジャナックがゲーム・マニアというのがミソだろう。ジャナックはゲーム理論を応用した罠を、マーティンに対して仕掛けてくるのだが、このゲーム理論「囚人のジレンマ」というのが面白い。
「囚人のジレンマ」とは、独房に入れられ相談できない状況の二人の囚人に対して持ちかけられる課題だ。すなわち、二人ともが黙秘(協調)すればともに刑は1年ですみ、二人ともが相手の不利を証言(裏切り)すればともに刑は3年となる。そして一人が黙秘し、一人が証言したとき、黙秘した方が5年、証言した方が無罪放免となるのである。
二人の囚人にとっての最良の結果は、おそらく協調である。だが、個人にとっての最良の結果は、相手の協調を裏切っての無罪放免だ。結局は人間の心理の問題なわけで、人のエゴがなくならない限り、この問題には答えが見いだせそうにもない。最良の答えを求めたにもかかわらず、結果はどうにもうまくない、というのがジレンマというわけである。いやはやなんとも。
本書の読みどころは、それらの罠によって次々と苦境に立たされるマーティンが、どのようにしてピンチをかいくぐっていくかに尽きる。また、味つけとしては、先にも書いたようにヨットでのイキイキとした描写が挙げられるだろう。小説家としてはまだ経験の浅い(はず)著者だが、得意のテーマやジャンルを持ち込むことによって、なかなか作品としては成功している。ちょっと変わったサスペンスが好きな人にはおすすめ。