E・W・ホーナング『最後に二人で泥棒を』読了。怪盗ラッフルズ・シリーズの三番目の、そして最後の短編集である。
第一短編集の『二人で泥棒を』を読んだときの印象は、正直イマイチだった。こちらが勝手な先入観でルパンのような内容やレベルを予想していたこともあり、ミステリ的な弱さばかりが気になってしまったからである。ところが続く『またまた二人で泥棒を』、そして本作と読んできて、少々その印象が変わりつつある。
とりあえず本作の魅力がラッフルズの冒険にあることは確かだ。たとえラッフルズがアマチュアであり、さらには謎解き興味が希薄だとしても、興味の中心は犯行をいかに成し遂げるか、という点にあることは間違いないところだろう。
ただ、このシリーズで作者が本当に書きたかったのは、むしろラッフルズと相棒バニーの二人の友情や生き方だったのではないか。もちろんホームズものの大ヒットを受けて書かれたシリーズ作品だから、主要登場人物のキャラクター性は重要だ。だがラッフルズ物では、単なるキャラクター作りの枠を超えて、青春小説のような趣すらある。さらに風呂敷を広げるなら、閉塞感の漂う当時のイギリスの若者に向けた作者のメッセージであり、あるいは教養小説のようなものを目指していたのではないだろうか?
そう考えれば『二人で泥棒を』や『またまた二人で泥棒を』の最終話が、それぞれ異質な形で幕を閉じることにも合点がいくし、本書の特殊な構成も理解できるのだ。
狭い日本というのに洪水や日照りでむちゃくちゃ。もはや異常気象は異常でも何でもなくなっている気配すらある。新潟県にお住まいの方はさぞやしんどいことであろう。心からお見舞い申し上げます。
E・W・ホーナング『またまた二人で泥棒を』読了。ラッフルズ・シリーズの二冊目である。
正直言うと、一冊目の『二人で泥棒を』を読んだ時点で、残りを慌てて読む必要はまったくないと感じていたのだが(笑)。まあ、前作のラストを受けて、どういうふうに話が再開したのか、その興味だけで読み始めたようなものである。
とはいえ、わざわざそのネタをここに書くこともないだろうから、一応、ラッフルズが華麗なる復活劇を遂げたとだけ記しておこう。ちなみにバニーもしぶとくてなかなかいい感じ。前作以上にバニーの存在が重要になってくるので、そういう意味でもこのシリーズはラッフルズ&バニーと呼ぶ方が適切なのだろう。
全体の印象はほぼ前作と同様で、ミステリの純粋なそれさえ期待しなければ、そこそこ楽しめる。ただし、相変わらずアマチュア泥棒の域を出ないラッフルズなので、もう少し鮮やかな手口を披露するネタがあってもよいと思うのだが。そこがつくづく惜しまれると同時に、海外でなぜ人気があるのかやはりピンと来ない。
なお『二人で泥棒を』に引き続き、今回もラストの短編が何とも不可解な結末を迎えているのが引っかかる。
かつて創元推理文庫で「シャーロック・ホームズのライバルたち」というタイトルのもと、思考機械や隅の老人など、同時期に活躍した探偵たちの事件簿をまとめたシリーズがあったが、ついに1冊だけ予告のまま消えていった作品があった。それが怪盗ラッフルズの冒険談である。ルパンに先駆けて登場したこの怪盗は今なお欧米では根強い人気を誇り、ずっと気になっていた作品であった。
それがご存じのとおり、論創社海外ミステリで登場したかと思うと、あれよあれよという間に、なんと全部で3冊ある短編集がすべて刊行されてしまったのだ。長生きはするものである。
そんなわけで本日の読了本はE・W・ホーナングの『二人で泥棒を』。
個人的に怪盗ものが好きなこともあって、かなり期待して読んだのだが。むうう、これはいろいろな意味で予想外の作品である。決して怪盗ルパンやニック、バーニイなど、優れた後輩たちのレベルを期待していたわけではないが、本格やどんでん返しの妙などの要素がここまで薄いとは。ラッフルズものは狭義の探偵小説に入るものではなく、どちらかというとかなりライトな冒険小説という印象である。
また、ラッフルズが泥棒としてはアマチュアであることにも驚いた。当然ながらミスも犯すし、捕まりそうにもなるわけで、読者はそのハラハラドキドキを楽しむという寸法なのだろう。実際、読んでいる間はそれなりに楽しい。ラッフルズと相棒のバニーとのかけあいは、明らかにホームズとワトソンのそれだが、バニーの情けなさが際だち、ユーモアだけでみればドイルを凌ぐかもしれない。
ただ、盗みのテクニックは大したことがないし、ホームズのように推理で魅せることもない。時代といってしまえばそれまでだが、ミステリとしてはそうそういい点数は付けられないだろう。正直、何故今も海外で親しまれているかわからないが、もしかすると日本人が捕物帖を楽しむ感覚なのかもしれない。
うまいなと思ったのは、作品内でけっこう過去の事件に言及するのが多いことか。この物語の魅力がトリックや謎解きにない以上、興味の中心はある程度キャラクターや物語性にあるはず。そこで過去の事件において二人がどんな関係を築いていったか、どんな活躍があったかを匂わせることは、作者が読者に対してシリーズのつなぎや流れを意識させようとしていた証拠ではないだろうか。当時の大衆作家がシリーズ人気を高めるための営業上のテクニックといってもいいだろう。
その極めつけが本書の最後に収録している作品で、ここではそれまでの積み重ねを一気に壊すほどの、驚くべき結末を用意している。ミステリ作家としてはともかく、大衆小説作家としては、やはり光るものを持っていたというべきだろう。