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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

佐藤春夫『田園の憂鬱』(岩波文庫)

 佐藤春夫の『田園の憂鬱』を読む。著者の代表作だが、恥ずかしながらこれが初読である。

 こんな話。都会での生活に疲れた青年は、妻と犬二匹、猫一匹を連れて、武蔵野の田園に引っ越してくる。親から金を借り、仕事もせず、隠者としてひたすら自然の中に生命の在りようを実感する日々であったが、やがて倦怠と憂鬱が忍び寄り……。

 田園の憂鬱

 すごいな、これは。
 上記のようにストーリーらしいストーリーはほとんどない。描かれるのは田園の様子であり、主人公の心理、心象風景といったものが大半である。しかし、それを徹底的に精緻に描くことで、独特の世界を作りあげている。
 主人公は何事かを成し遂げたいという思いを持ちながら、なかなか思いどおりにはならず、遂には都会から逃げるようにして田園に引きこもってしまう。初めのうちこそ、田園での自然との触れ合いにいちいち感動するのだが、働く意思もなくただぶらぶらするだけの暮らしだから、村の人間ともうまくいかない。風呂もなく毎日同じ内容の食事、やることといえば自然と相対するだけの生活に、やがて青年は憂鬱と倦怠を蓄積させ、しまいには精神のバランスをも崩してゆく。
 とにかく青年の思考回路と心理状態が危うい。時代は変われどこういう若者は今でも多いはずで、名を成したい、人に認められたい気持ちは人一倍強いのだが、その手段も実行力もない。その中で憂鬱だけが積もり、徐々に狂気を育んでいく様にぐいぐい引き込まれてゆく。極端なことをいえば主人公はニートであり、人間のクズだ。それでいてどこか共感できるところもあり、読んでいるこちらも実に精神衛生上よくないが、これこそ小説の力というものだろう。

 その読ませる力の源となっているのは、佐藤春夫の圧倒的な描写力だろう。美術でも音楽でも、どのような芸術においてもその作品を受け手に伝えるテクニック、すなわち描写力が重要なことは言うまでもない。文学でいえばそれは文章力となる。
 田園の自然、蝉や馬追いといった虫から庭先の薔薇にいたるまで、主人公の感性そのままにに語り、さらにはそこから派生する主人公の心情を克明に描き、そして心象風景までもが交錯する。ほとんどストーリーはなく、こういう描写だけを積み重ねていくスタイルは、もしかすると案外実験小説的だったのかもしれない。

 本作はもちろんミステリではないのだが、狂気を孕んでいく青年の様子は、サスペンス小説のようでもあり幻想小説的でもある。そういう意味ではボーダーライン上の小説が好きな人には強くお勧めしておきたい。ただ、正直、若い頃に出会いたかった作品ではある。

 ちなみに田園の舞台(モデル)となっているのは神奈川県都筑郡中里村鉄というところで、今の横浜市青葉区、あの有名な桐蔭学園のある場所である。


佐藤春夫『維納の殺人容疑者』(講談社文芸文庫)

 佐藤春夫の『維納の殺人容疑者』を読む。探偵小説に理解を示し、自らも探偵小説に手を染めた文豪、佐藤春夫。その彼が書いた異色の法廷ミステリである。

 本作は小説ながら犯罪実話風の形をとる。一九二八年七月、維納(ウィーン)郊外で起こった女性殺害事件。その容疑者として裁判にかけられたのは、グスタフ・バウアーという男であった。被告、検事、弁護士、さまざまな証人たちが虚々実々の駆け引きにしのぎを削り、読者はさながら陪審員のごとく成り行きを見守ることになる。

 維納の殺人容疑者

 注目すべきはやはり主人公とも言うべき容疑者のグスタフ・バウアー。検察側による数々の追求をあの手この手でかわしてゆくところは、それなりに読み応えがある。屁理屈に過ぎない答弁なども見られるが、これは時代性もあるから多少は割り引くべきだろう。
 また、ドラマとしての演出的な要素は余計なものとして、あくまで真実の追究に焦点を絞り、推理と論理を徹底的に押し出した小説という点だけでも、十分に歴史的価値があるといえる。これは佐藤春夫の著作というだけでなく、当時の探偵小説としても非常に珍しいものだ。ただ、解説にあるように、犯罪実話たる本作が逆に人間性の剥奪を表出するという解釈は、ちょっと強引な気がする。

 とにかく論理を押し出した法廷ものということで、国産探偵小説史においては実にエポックメーキングな作品でもあるし、とりあえず探偵小説マニアであれば一度は読んでおきたい……と書きたいところなのだが、正直これは辛かった。
 最大の泣きどころは、その読みにくさにある。独特のリズムのうえに読点、改行が少なく、おまけに事実関係などもすべて法廷でのやりとりの中で語られるから、とにかく内容を把握しにくい。まあ、こちらの読解力が低いという話もあるんだけれど(笑)。いつもであれば当時の雰囲気が出て好ましい古い語句なども、本作においては煩わしい限りで、できれば超訳で読みたいぐらいだった(笑)。
 ただ、古くても涙香あたりはけっこう抵抗なく楽しめるので、やはり語りの形式や扱う事件の地味さといったところで、かなり損をしている気はする。まあ、本書の結構こそが著者の狙いなんだろうし、それを言ったら話しが始まらないとは思うが(苦笑)。


佐藤春夫『美しき町・西班牙犬の牙 他六篇』(岩波文庫)

 ちくま文庫で『怪奇探偵小説名作選4佐藤春夫集 夢を築く人々』を読んだのは、日記によると二年ほど前だったが、何となくまた読み返したくなって、岩波文庫のものを引っ張り出す。
どちらかというとわかりやすい作品が多く、入門者向けの構成だが、もちろんこちらは探偵小説的な編み方をしているわけではない。ところが意外にちくま文庫版と重複している点が面白い(★がちくま文庫版との重複)。もともと佐藤春夫の作品が探偵小説的な味わいを含んでいる証拠でもあろう。

「西班牙犬の家」★
「美しき町」★
「星」
「陳述」★
「李鴻章」
「月下の再会」
「F・O・U」
「山妖海異」★


佐藤春夫『怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集 夢を築く人々』(ちくま文庫)

 日下三蔵氏編集の『怪奇探偵小説名作選4佐藤春夫集 夢を築く人々』を読了。読み終えるのに四日ほどかかってしまったが、こういう本は本来時間をかけて味わいたいものなのだから、まあいいのか。

 著者については管理人が今さらここで紹介するまでもない。日本文学史に書かせない作家であるが、本書の解説にもあるとおり、佐藤春夫は探偵小説に惹かれ、決して少なくない量の探偵小説を残したことでも知られている。
 当時のことゆえ探偵小説とはいっても、その多くは広義の探偵小説、つまり幻想小説や犯罪小説的なものが中心だったが、佐藤春夫の書いたものの中には純探偵小説といえるだけのものも多い。谷崎潤一郎や芥川龍之介など、純文学畑から探偵小説を残した作家は他にもいるが、この佐藤春夫が最も探偵小説に理解を示し、興味を持っていたのだ。
 とまあ、こういうこともすべて解説にあるとおり。
 あの横溝正史だって初期にはそれほど本格的な探偵小説を書いていたわけではなかったので、こういう解説を読むと、いやがうえにも期待は高まったのだが、いざ読んでみると、やはり本格的探偵小説はそれほど収録されていない。やはり印象としては耽美主義の作品の延長線上のものが中心。もちろん水準が高いので作品としては惹かれるものが多いが、変に期待させるような解説は警告+1って感じ。
 まあ、それはともかくとして、耽美・浪漫主義的な作品は学生の頃にはまっていたせいもあって、非常に堪能できる作品集である。二、三の作品はアンソロジーなどで読んだ記憶があるが、ほとんどが初めて読むものばかり。お得感も高い。収録作は以下のとおり。

「西班牙犬の家」
「指紋」
「月かげ」
「陳述」
「「オカアサン」」
「アダム・ルックスが遺書」
「家常茶飯」
「痛ましい発見」
「時計のいたずら」
「黄昏の殺人」
「奇談」
「化物屋敷」
「山妖海異」
「のんしゃらん記録」
「小草の夢」
「マンディ・バナス」
「或るフェミニストの話」
「女誡扇奇談」
「美しき町」

 特に印象に残ったものは、何気ない日常にすっと入ってくる奇妙な体験をつづった、デビュー作「西班牙犬の家」。まるでホームズものの長編を読んでいるかのような感覚に陥った「指紋」。めちゃくちゃ読みにくいけど、医者の壊れていく過程がなんとも凄まじい「陳述」。乱歩作品のような奇妙な味の「オカアサン」。安部公房っぽい何ともシュールな味が楽しめる「のんしゃらん記録」。壮大なほら話と虚脱感の落差を味わう「美しき街」など。
 この時代に佐藤春夫の熱心な読者が果たして何人いるかわからないが、まああまり多くないことは確かだろう。だが、こういうものから入った方が意外に佐藤春夫の本質を体験できるのではないか。ミステリの読者より一般の小説好きにこそむしろすすめたい一冊と言えるかもしれない。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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