何度かこのブログでも告知したけれど、論創海外ミステリから出たジョン・ロード『クラヴァートンの謎』で解説を書かせていただいた。幸い、作品自体はまずまず好評のようでよかったが、やはりクイーンやクリスティのようなメジャー作家ではないため、そもそも取り上げられること自体が少ないのが残念。
というわけで今回は宣伝も兼ね、版元の了承を得て、解説を転載させていただくことにした。
※本稿では『クラヴァートンの謎』のトリックに言及した箇所がありますので、未読の方はご注意ください。

「ジョン・ロード再評価の機運を高める傑作」
本作の刊行を待ち望んでいたクラシックミステリのファンも多いのではないだろうか。一昨年に〈論創海外ミステリ〉から刊行された『代診医の死』が、実に素晴らしい傑作であったことはまだ記憶に新しいが、さらには立て続けにマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』も刊行され、これまた悪くない一作で、著者の株が一気に上がったことは間違いない。我が国でもこの二作から紹介されていれば、その後の翻訳事情もまたずいぶん変わっただろうにと思わずにはいられない。
『クラヴァートンの謎』(原題:The Claverton Mystery)はジョン・ロードが一九三三年に発表した長編本格ミステリである。数学者ランスロット・プリーストリー博士を探偵役にしたシリーズの一作。
四十代後半以上の方なら同感していただけるかと思うが、インターネットが発達していなかった昭和の時代、海外ミステリに関する情報は本当に少なかった。
英米から原書を取り寄せるようなディープかつ語学堪能なマニアならいざ知らず、一般のミステリファンはせいぜいが「ミステリマガジン」や「EQ」(光文社が一九七八年~一九九九年に発行したミステリ総合誌)といった雑誌を読むぐらいである。しかもいかんせんそれほどの需要もなかったのだろう、都会の大書店でもないかぎり入手は難しく、地方ではその存在すら知らない人も多かった。
そんな状況で、唯一、頼りになったのがミステリの入門書やガイドブックの類である。これが当時はけっこういろいろな出版社から刊行されており、これを参考にミステリを読み進めていった人も多かったのではないだろうか。ざっと思い出すだけでも『世界の推理小説・総解説』中島河太郎・権田萬治(自由国民社)、『推理小説入門』九鬼紫郎(金園社)、『探偵小説百科』九鬼紫郎(金園社)、『世界の名探偵50人』藤原宰太郎(KKベストセラーズ)、『推理小説の整理学』各務三郎(かんき出版)などが挙げられる(余談だが、普段はミステリと縁のなさそうな版元ばかりというのが面白い)。
紹介されている作品はまさに定番中の定番ばかりだったが、それでも当時田舎に住んでいた少年(筆者)には、これらの入門書が実に参考になり、ヴァン・ダインを皮切りにエラリー・クイーン、F・W・クロフツ、アガサ・クリスティ、コーネル・ウールリッチ、ダシール・ハメット等々、クラシックの代表作を読むことができた。また、内外のミステリ史、ジャンルの違い、トリックなど、ミステリに関する一般教養もこれらの本で身につけていった。なかには藤原宰太郎の入門書などのようにネタバレ満載のものまであって、呆然としたこともあったけれど。
こんな感じで振り返ったのも、もちろん本書の話と無関係ではない。これらの入門書は代表作ばかり紹介されているので、その後、ほとんどの本は読むことができたのだが、なかにはどうしても読めない作家や作品があった。
単純に邦訳が少ないとか、絶版で入手が困難だったせいだが、そういった作家の一人に本書の著者ジョン・ロードがいた。
当時の紹介でも、英国のミステリ黄金時代を代表する本格ミステリの書き手だとか、プロットやトリックにも工夫を凝らしているとか、しかも著作は八十作あまりもあるとか、おまけに英国ミステリ作家の親睦団体〈ディテクション・クラブ〉を設立した中心的メンバーでもあるとか、まあとにかく華々しいかぎりである。そのような素晴らしい作家の作品がなぜ日本で読めないのか、当時は本当に不思議であった。
ちなみに英米文学の評論家・植草甚一氏は東京創元社〈現代推理小説全集〉第6巻『吸殻とパナマ帽』(一九五八年刊)の解説で、ジョン・ロードの翻訳が進まなかった理由を挙げていて興味深い。それによると、当時、日本における海外作品の紹介者たちはポケット版に頼っていることが多かったが、当時ポケット版といえばアメリカの出版社によるものが中心で、そのポケット版でジョン・ロードが出ていなかったことが大きいという。また、本国イギリスの出版社にしても、そもそも日本との取引が少なかったことも影響したらしい。これはE・C・R・ロラックなど、他の英国作家も同様だったという。
ともあれ時代は変わった。本書を買うような読者の方々なら先刻ご承知だとは思うが、クラシックミステリの復権というムーヴメントが起こり、多くの幻の作家、作品が紹介される時代になったことは誠に慶賀の至りである。ロードの作品もぼちぼちと刊行されはじめ、品切れだった作品も復刊されるようになる。
ただし、そこで新たな問題が起こる。
「ジョン・ロードって、面白くないよね?」
なんということか。
確かにジョン・ロードの作品は非常にわかりやすい弱点がある。英国のミステリ作家であり評論家でもあるジュリアン・シモンズが「退屈派」というレッテルを貼ったことはよく知られているが、これらは主にストーリーの単調さや地味さ、人物描写の平坦さを指し、早い話が小説として面白くないといったわけだ。
人によってはトリックの古さ、あるいは素人が推理できないような専門的知識を必要とするトリックを使うことを欠点として指摘する人もいるだろうが、物理的トリックに関しては経年劣化はある程度やむを得ないところがあるだろう。専門的知識が必要なトリックもケース・バイ・ケース。要は使い方次第である。そもそもすべての作品に共通した課題というわけでもないので(まあ多いのは確かだが)、トリック方面についての指摘はちょっと脇に置いておくとして、やはり一番の問題はストーリーなのだ。
本書の訳者であり海外ミステリの研究家でもある渕上痩平氏によると、特に後期の作品ほどその傾向が強いようで、【事件発生~警察の捜査~推理と議論~新たな手がかり~さらに繰り返される推理と議論】という展開がそれほど起伏もなく続くパターンは、既訳の作品でも目立つところだ。
ただ、本当にロードの作品は退屈なのか? 筆者も実はロードを読み始めた頃はそういう印象を持っていたのだが、この数年に刊行された『代診医の死』や『ラリーレースの惨劇』、『ハーレー街の死』、あるいはマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』、古いものでは評価の低い『電話の声』や『吸い殻とパナマ帽』をひととおり読んでみて、その認識はずいぶん変わってきた。
そもそもロードの作品を退屈とする人は、何をもって退屈というのだろう。「退屈」とは対象への関心を失った状態であり、逆に関心を持った状態は「熱中」と表現することができる。では何故に熱中できないかといえば、ミステリに期待する興味や刺激の欠如があるから、と考えることができるだろう。
では、ミステリに期待する興味や刺激とは何か、ということになる。
ここが難しい。昨今のミステリともなれば、その価値観は非常に多様化しており、人が求める刺激もまた多様化する。とはいえミステリはミステリ。かつて江戸川乱歩が定義した「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」(『幻影城』より)というのは、現代のミステリに照らすとやや狭く感じはするが、エッセンスはそこに集約されるといってもいいだろう。
そしてジョン・ロードの作品は、そういうミステリとして要のポイントを押さえた、まさに王道のミステリなのである。余計な虚飾を排して、冒頭の謎をあまりこねくり回すことなく、その謎が解かれる過程を楽しむことにこそ興味が置かれる。ロードの工夫や努力もそこに向けられている。ただ、その結果として物語の余裕とか潤いとでもいうものをかなり犠牲にしている感はあり、それが退屈派と呼ばれた原因にもなっているのだろう。
だから、そういう欠点が多少なりとも目立たない作品、あるいはそういう欠点を踏まえつつもよりインパクトのある要素を備えた作品は決してつまらなくはない。むしろ本格ミステリ本来の愉しみをゆったりと味わえる作品となっているのである。
さて、そこで『クラヴァートンの謎』である。
本作は『代診医の死』も翻訳した渕上痩平氏が『代診医の死』、『ハーレー街の死』と並び、ジョン・ロードのベストスリーに推すほどの作品ということだったので、余計に期待が高まったが、確かにそれに値する傑作といえるだろう。
プリーストリー博士は体調がすぐれないという旧友クラヴァートンの屋敷を訪れるが、そこにはクラヴァートンの世話をする姪、その母親でクラヴァートンの妹、そしてときおりクラヴァートンを見舞う甥の三人がいた。歓迎ムードからは程遠いなか、クラヴァートンとようやく話ができたものの彼もまた様子がおかしい。当惑したまま主治医のオールドランド医師とともに暇を告げたプリーストリー博士だったが、家に立ち寄ったオールドランド医師から思いもよらない話を聞かされる羽目になる。なんとクラヴァートンは六週間ほど前に砒素を飲まされたというのだ。
状況からして怪しいのは当然、三人の親族。あらためて翌週にクラヴァートンを訪ねたプリーストリー博士だったが時すでに遅し。クラヴァートンは容態が急変し、死亡してしまったのだ。だが検死の結果、砒素はおろか何の毒物も検出することはできなかった。死因は胃潰瘍の突然の悪化による胃の穿孔だというのだ。
やがてクラヴァートンの遺言が発表されるが、それは遺族の思いも寄らない内容であった……。
先に挙げたロードの弱点がほぼ払拭されており、「退屈派」などとは決して呼ばせない読み応えのある作品である。
メインとなる謎は、どうやってクラヴァートンを殺害することができたのか。ひと言でいえばハウダニットものの毒殺ミステリなのだが、そこに遺産相続に関連する疑惑、砒素による殺人未遂、さらには後半で起こる銃撃事件を絡めて、少ない人数ながらなかなか真犯人を絞らせない工夫が見事である。プロットにはもともと定評あるロードの本領が発揮されているところだ。
また、そういった事件を複数用意したことで、他の作品で顕著だったストーリーの平坦さが完全に解消され、とにかく物語が快適に進んでいく。とりわけ第十二章の展開は盛りだくさんで、そこからラストの降霊会のシーンまでは一気。推理や議論も他の作品ほどくどくはなく、いつになくサービス満点である。後期に目立つパターン化された展開とはまったく無縁なのだ。
もうひとつ他の作品との大きな違いをあげると、登場人物の描写にも注目したい。そもそもプリーストリー博士のシリーズとはいえ、博士の登場シーンが土曜の例会や、終盤の謎解きシーンだけだったりということも少なくはない。事実上の主人公は捜査を担当する刑事が務めていたりするため、プリーストリー博士に対する読者の熱量もそれなりにしかならない(脇役扱いでも癖のあるキャラクターであれば話は別だが)。ところが本作ではプリーストリー博士が出ずっぱりである。友の仇を討つべく殺害方法を見破りたいのだが、なかなかその答えが見つからず、考え、悩み、動き回る。そういう喜怒哀楽を見せるプリーストリー博士の姿は実に新鮮で、それだけでも本作は読む価値がある。
プリーストリー博士だけではない。のちに土曜例会のメンバーとなるオールドランド医師ががっつりと事件の当事者となっているのも興味深い。単にクラヴァートンの主治医というポジションかと思っていると、序盤での怪しげな行動、そして語られざる過去のエピソードなど、これまた目が離せない。どんな内容かは本書でご確認いただくとして、ここではワトスン以上の役割だと書いておこう。
もちろん百点満点というわけではない。思わせぶりすぎる描写やネタバラシが早いかなと思う箇所もあったりするし、メイントリックにも専門性が入ってしまい、普通の人が見抜くのは正直難しいと思う。
ただ、伏線はきちんと貼るし、可能性について何度も推理して掘り下げるのはロードならでは。そのため(実際にはロジックの詰め切れていないところもあるのだけれど)、真っ当な本格を読んだという満足感のほうがはるかに大きく、十分にお釣りのくるところではないだろうか。
ジョン・ロードの未訳作品はまだ百作以上残っているわけだが、全部とは言わないけれど、さらなる傑作の紹介が進むことを祈るばかりである。
※論創海外ミステリ『クラヴァートンの謎』より転載