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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

ジョン・ロード『デイヴィッドスン事件』(論創海外ミステリ)

 かつて退屈派と揶揄されたジョン・ロード。実際、我が国で訳された作品にもそのようなものがあったことから、遅々として紹介が進まなかったが、近年になってようやく状況が改善されつつあるようで喜ばしい。
 私見だが、ロードの作品のキモは論理性にある。情報を集め、それらをもとに推論を重ね、事件を論理的に解明する過程こそが読みどころなのだ。ストーリーやトリック、雰囲気作りなどにはそこまで興味がなかったようで、残念ながらその結果としてとにかく地味な作風になってしまった。それが退屈派と呼ばれた一番の原因だとは思うのだが、我が国においてはこれに加え、単純に初期の傑作と思われる作品がなかなか翻訳されなかったこともあるのだろう。
 本日の読了本は、そんな不運な(?)ロードの初期傑作のひとつ『デイヴィッドスン事件』。ようやく真打ち登場といったところだろう。

 こんな話。化学装置の設計・製造を手掛けるデイヴィッド社の社長ヘクターは、利益のみを追求し、設計技師として貢献してきたローリーをクビにすることにした。ヒット商品の報酬を彼に支払うのが惜しくなったのである。それを聞いたヘクターの従兄弟で取締役を務めるガイは憤慨する。これまで多大な貢献をしてくれた社員への仕打ちとして酷なだけでなく、会社の将来にとっても大きなマイナスである。また、ローリーの恋人でヘクターの秘書を務めるオルガも激しい怒りを覚えていた。彼女もまた会社を愛するがゆえにヘクターのセクハラに我慢してきた過去があったのだ。
 そんなある日、ヘクターは大きな籐製のケースを抱え、列車で郊外の屋敷へ出かけていく。そして駅まで迎えにきたトラックにケースを積み、自らも荷台へ乗車した。ところが屋敷へ到着したとき、ヘクターはすでに息絶えていた。死因は鋭利なものによる刺殺と思われる。警察は秘書のオルガに容疑を絞るが、プリーストリー博士には別の考えがあった……。


 デイヴィッドスン事件

 なるほど確かにこれはいろいろと見どころがあり、面白い作品だ。なんならジョン・ロード・ファン必読と言ってもよい。
 ミステリとしての大きな仕掛けは二つあるのだが、ひとつは割と見抜きやすい。事件が起こる過程がフェアというか丁寧に描写しているので、ミステリに慣れている読者ならある程度は気づいてしまうのではないだろうか。
 もうひとつの仕掛けはそちらに比べるとかなり効果的だ。ネタバレになるから詳しくは書かないけれど、要は二重解決のスタイルをとっている。ストーリー三分の二のあたりで早々に犯人を明かしながら、法廷でそれをひっくり返し、ラストで真相を明かすというもの。このひっくり返す仕掛けが巧妙で、その結果がストーリー展開にも寄与していて面白い部分だ。

 そして仕掛けとは少し異なるのだけれど、本作にはラストである趣向が施されていることに驚かされる。この点だけでもロード作品としては異色の部類に入るだろうが、ストーリーや読後感にも影響するため、かなり好き嫌いが分かれるところだろう。
 ただ、個人的にはぶっちゃけ微妙だなという感じ(苦笑)。終盤に入ってからの犯人のキャラクターには、正直、薄気味悪さしか感じなかったが、大いに共感する人がいても別におかしくはない。言ってみれば、そういうさまざまな受けとり方がある作品だからこそ、本作はロード・ファン必読の一冊なのだ。


ジョン・ロード『クラヴァートンの謎』(論創海外ミステリ)

 何度かこのブログでも告知したけれど、論創海外ミステリから出たジョン・ロード『クラヴァートンの謎』で解説を書かせていただいた。幸い、作品自体はまずまず好評のようでよかったが、やはりクイーンやクリスティのようなメジャー作家ではないため、そもそも取り上げられること自体が少ないのが残念。
 というわけで今回は宣伝も兼ね、版元の了承を得て、解説を転載させていただくことにした。

※本稿では『クラヴァートンの謎』のトリックに言及した箇所がありますので、未読の方はご注意ください。

 クラヴァートンの謎

「ジョン・ロード再評価の機運を高める傑作」

 本作の刊行を待ち望んでいたクラシックミステリのファンも多いのではないだろうか。一昨年に〈論創海外ミステリ〉から刊行された『代診医の死』が、実に素晴らしい傑作であったことはまだ記憶に新しいが、さらには立て続けにマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』も刊行され、これまた悪くない一作で、著者の株が一気に上がったことは間違いない。我が国でもこの二作から紹介されていれば、その後の翻訳事情もまたずいぶん変わっただろうにと思わずにはいられない。
 『クラヴァートンの謎』(原題:The Claverton Mystery)はジョン・ロードが一九三三年に発表した長編本格ミステリである。数学者ランスロット・プリーストリー博士を探偵役にしたシリーズの一作。

 四十代後半以上の方なら同感していただけるかと思うが、インターネットが発達していなかった昭和の時代、海外ミステリに関する情報は本当に少なかった。
 英米から原書を取り寄せるようなディープかつ語学堪能なマニアならいざ知らず、一般のミステリファンはせいぜいが「ミステリマガジン」や「EQ」(光文社が一九七八年~一九九九年に発行したミステリ総合誌)といった雑誌を読むぐらいである。しかもいかんせんそれほどの需要もなかったのだろう、都会の大書店でもないかぎり入手は難しく、地方ではその存在すら知らない人も多かった。
 そんな状況で、唯一、頼りになったのがミステリの入門書やガイドブックの類である。これが当時はけっこういろいろな出版社から刊行されており、これを参考にミステリを読み進めていった人も多かったのではないだろうか。ざっと思い出すだけでも『世界の推理小説・総解説』中島河太郎・権田萬治(自由国民社)、『推理小説入門』九鬼紫郎(金園社)、『探偵小説百科』九鬼紫郎(金園社)、『世界の名探偵50人』藤原宰太郎(KKベストセラーズ)、『推理小説の整理学』各務三郎(かんき出版)などが挙げられる(余談だが、普段はミステリと縁のなさそうな版元ばかりというのが面白い)。
 紹介されている作品はまさに定番中の定番ばかりだったが、それでも当時田舎に住んでいた少年(筆者)には、これらの入門書が実に参考になり、ヴァン・ダインを皮切りにエラリー・クイーン、F・W・クロフツ、アガサ・クリスティ、コーネル・ウールリッチ、ダシール・ハメット等々、クラシックの代表作を読むことができた。また、内外のミステリ史、ジャンルの違い、トリックなど、ミステリに関する一般教養もこれらの本で身につけていった。なかには藤原宰太郎の入門書などのようにネタバレ満載のものまであって、呆然としたこともあったけれど。

 こんな感じで振り返ったのも、もちろん本書の話と無関係ではない。これらの入門書は代表作ばかり紹介されているので、その後、ほとんどの本は読むことができたのだが、なかにはどうしても読めない作家や作品があった。
 単純に邦訳が少ないとか、絶版で入手が困難だったせいだが、そういった作家の一人に本書の著者ジョン・ロードがいた。
 当時の紹介でも、英国のミステリ黄金時代を代表する本格ミステリの書き手だとか、プロットやトリックにも工夫を凝らしているとか、しかも著作は八十作あまりもあるとか、おまけに英国ミステリ作家の親睦団体〈ディテクション・クラブ〉を設立した中心的メンバーでもあるとか、まあとにかく華々しいかぎりである。そのような素晴らしい作家の作品がなぜ日本で読めないのか、当時は本当に不思議であった。
 ちなみに英米文学の評論家・植草甚一氏は東京創元社〈現代推理小説全集〉第6巻『吸殻とパナマ帽』(一九五八年刊)の解説で、ジョン・ロードの翻訳が進まなかった理由を挙げていて興味深い。それによると、当時、日本における海外作品の紹介者たちはポケット版に頼っていることが多かったが、当時ポケット版といえばアメリカの出版社によるものが中心で、そのポケット版でジョン・ロードが出ていなかったことが大きいという。また、本国イギリスの出版社にしても、そもそも日本との取引が少なかったことも影響したらしい。これはE・C・R・ロラックなど、他の英国作家も同様だったという。

 ともあれ時代は変わった。本書を買うような読者の方々なら先刻ご承知だとは思うが、クラシックミステリの復権というムーヴメントが起こり、多くの幻の作家、作品が紹介される時代になったことは誠に慶賀の至りである。ロードの作品もぼちぼちと刊行されはじめ、品切れだった作品も復刊されるようになる。
 ただし、そこで新たな問題が起こる。

「ジョン・ロードって、面白くないよね?」

 なんということか。
 確かにジョン・ロードの作品は非常にわかりやすい弱点がある。英国のミステリ作家であり評論家でもあるジュリアン・シモンズが「退屈派」というレッテルを貼ったことはよく知られているが、これらは主にストーリーの単調さや地味さ、人物描写の平坦さを指し、早い話が小説として面白くないといったわけだ。
 人によってはトリックの古さ、あるいは素人が推理できないような専門的知識を必要とするトリックを使うことを欠点として指摘する人もいるだろうが、物理的トリックに関しては経年劣化はある程度やむを得ないところがあるだろう。専門的知識が必要なトリックもケース・バイ・ケース。要は使い方次第である。そもそもすべての作品に共通した課題というわけでもないので(まあ多いのは確かだが)、トリック方面についての指摘はちょっと脇に置いておくとして、やはり一番の問題はストーリーなのだ。
 本書の訳者であり海外ミステリの研究家でもある渕上痩平氏によると、特に後期の作品ほどその傾向が強いようで、【事件発生~警察の捜査~推理と議論~新たな手がかり~さらに繰り返される推理と議論】という展開がそれほど起伏もなく続くパターンは、既訳の作品でも目立つところだ。
 ただ、本当にロードの作品は退屈なのか? 筆者も実はロードを読み始めた頃はそういう印象を持っていたのだが、この数年に刊行された『代診医の死』や『ラリーレースの惨劇』、『ハーレー街の死』、あるいはマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』、古いものでは評価の低い『電話の声』や『吸い殻とパナマ帽』をひととおり読んでみて、その認識はずいぶん変わってきた。
 そもそもロードの作品を退屈とする人は、何をもって退屈というのだろう。「退屈」とは対象への関心を失った状態であり、逆に関心を持った状態は「熱中」と表現することができる。では何故に熱中できないかといえば、ミステリに期待する興味や刺激の欠如があるから、と考えることができるだろう。
 では、ミステリに期待する興味や刺激とは何か、ということになる。
 ここが難しい。昨今のミステリともなれば、その価値観は非常に多様化しており、人が求める刺激もまた多様化する。とはいえミステリはミステリ。かつて江戸川乱歩が定義した「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」(『幻影城』より)というのは、現代のミステリに照らすとやや狭く感じはするが、エッセンスはそこに集約されるといってもいいだろう。
 そしてジョン・ロードの作品は、そういうミステリとして要のポイントを押さえた、まさに王道のミステリなのである。余計な虚飾を排して、冒頭の謎をあまりこねくり回すことなく、その謎が解かれる過程を楽しむことにこそ興味が置かれる。ロードの工夫や努力もそこに向けられている。ただ、その結果として物語の余裕とか潤いとでもいうものをかなり犠牲にしている感はあり、それが退屈派と呼ばれた原因にもなっているのだろう。
 だから、そういう欠点が多少なりとも目立たない作品、あるいはそういう欠点を踏まえつつもよりインパクトのある要素を備えた作品は決してつまらなくはない。むしろ本格ミステリ本来の愉しみをゆったりと味わえる作品となっているのである。

 さて、そこで『クラヴァートンの謎』である。
 本作は『代診医の死』も翻訳した渕上痩平氏が『代診医の死』、『ハーレー街の死』と並び、ジョン・ロードのベストスリーに推すほどの作品ということだったので、余計に期待が高まったが、確かにそれに値する傑作といえるだろう。

 プリーストリー博士は体調がすぐれないという旧友クラヴァートンの屋敷を訪れるが、そこにはクラヴァートンの世話をする姪、その母親でクラヴァートンの妹、そしてときおりクラヴァートンを見舞う甥の三人がいた。歓迎ムードからは程遠いなか、クラヴァートンとようやく話ができたものの彼もまた様子がおかしい。当惑したまま主治医のオールドランド医師とともに暇を告げたプリーストリー博士だったが、家に立ち寄ったオールドランド医師から思いもよらない話を聞かされる羽目になる。なんとクラヴァートンは六週間ほど前に砒素を飲まされたというのだ。
 状況からして怪しいのは当然、三人の親族。あらためて翌週にクラヴァートンを訪ねたプリーストリー博士だったが時すでに遅し。クラヴァートンは容態が急変し、死亡してしまったのだ。だが検死の結果、砒素はおろか何の毒物も検出することはできなかった。死因は胃潰瘍の突然の悪化による胃の穿孔だというのだ。
 やがてクラヴァートンの遺言が発表されるが、それは遺族の思いも寄らない内容であった……。
 
 先に挙げたロードの弱点がほぼ払拭されており、「退屈派」などとは決して呼ばせない読み応えのある作品である。
 メインとなる謎は、どうやってクラヴァートンを殺害することができたのか。ひと言でいえばハウダニットものの毒殺ミステリなのだが、そこに遺産相続に関連する疑惑、砒素による殺人未遂、さらには後半で起こる銃撃事件を絡めて、少ない人数ながらなかなか真犯人を絞らせない工夫が見事である。プロットにはもともと定評あるロードの本領が発揮されているところだ。
 また、そういった事件を複数用意したことで、他の作品で顕著だったストーリーの平坦さが完全に解消され、とにかく物語が快適に進んでいく。とりわけ第十二章の展開は盛りだくさんで、そこからラストの降霊会のシーンまでは一気。推理や議論も他の作品ほどくどくはなく、いつになくサービス満点である。後期に目立つパターン化された展開とはまったく無縁なのだ。
 もうひとつ他の作品との大きな違いをあげると、登場人物の描写にも注目したい。そもそもプリーストリー博士のシリーズとはいえ、博士の登場シーンが土曜の例会や、終盤の謎解きシーンだけだったりということも少なくはない。事実上の主人公は捜査を担当する刑事が務めていたりするため、プリーストリー博士に対する読者の熱量もそれなりにしかならない(脇役扱いでも癖のあるキャラクターであれば話は別だが)。ところが本作ではプリーストリー博士が出ずっぱりである。友の仇を討つべく殺害方法を見破りたいのだが、なかなかその答えが見つからず、考え、悩み、動き回る。そういう喜怒哀楽を見せるプリーストリー博士の姿は実に新鮮で、それだけでも本作は読む価値がある。
 プリーストリー博士だけではない。のちに土曜例会のメンバーとなるオールドランド医師ががっつりと事件の当事者となっているのも興味深い。単にクラヴァートンの主治医というポジションかと思っていると、序盤での怪しげな行動、そして語られざる過去のエピソードなど、これまた目が離せない。どんな内容かは本書でご確認いただくとして、ここではワトスン以上の役割だと書いておこう。

 もちろん百点満点というわけではない。思わせぶりすぎる描写やネタバラシが早いかなと思う箇所もあったりするし、メイントリックにも専門性が入ってしまい、普通の人が見抜くのは正直難しいと思う。
 ただ、伏線はきちんと貼るし、可能性について何度も推理して掘り下げるのはロードならでは。そのため(実際にはロジックの詰め切れていないところもあるのだけれど)、真っ当な本格を読んだという満足感のほうがはるかに大きく、十分にお釣りのくるところではないだろうか。
 ジョン・ロードの未訳作品はまだ百作以上残っているわけだが、全部とは言わないけれど、さらなる傑作の紹介が進むことを祈るばかりである。

※論創海外ミステリ『クラヴァートンの謎』より転載


ジョン・ロード『吸殻とパナマ帽』(東京創元社)

 ジョン・ロードの『吸殻とパナマ帽』を読む。
 本書は東京創元社の〈現代推理小説全集〉の一冊として刊行されたもの。先日の『電話の声』同様、ひとりジョン・ロード祭りの一環だが、とりあえずこれで手持ちの邦訳ジョン・ロードは打ち止め。新生堂〈世界名作探偵小説集〉からクロフツ等との併録で出た『トンネルの秘密』が唯一未所持だが、ページ数から予想するに抄訳っぽいし、これはそのうち縁があれば、というところか。

 さて『吸い殻とパナマ帽』だが、こんな話。
 英国はアスターウィッチ市のはずれ、テムプル農場へと続く道の途中で一人の男性が死体となって発見された。遺体の様子から男は殺害されたことが判明し、所持していた免許証から菓子工場で運転手を務めるダンスタブルであると判明する。さっそくロンドン警視庁からジミー・ワグホーン警視が駆けつけ、地元警察のヒックリング警部と協力して捜査が行われることになった。
 手がかりは二つ。現場で見つかった煙草の吸い殻、逆に当日ダンスタブルがかぶっていたはずのパナマ帽が見当たらないという事実である。この二つの手がかりの追跡、そして関係者への聞き込みを中心となって捜査が進む。するとダンスタブルの娘と菓子工場主ロジャーの養子でるケネスが密かに婚約していたものの、それが最近破談になったという事実が明らかになる。どうやらダンスタブルはそれをネタにケネスを強請っていたようで……。

 吸殻とパナマ帽

 相当な駄作を覚悟していたのだが、ううむ、確かにいろいろ弱点はあるのだけれど、けっこう面白いではないか。
 本作では二つの殺人事件が扱われており、仰天するほどではないけれども、その真相はまずまず意表をつくものとなっており、やはりジョン・ロードのプロット作りの巧さは見直すべきであろう。
 被害者ダンスタブルの強請り屋という裏の顔、そこから容疑者が広がっていくのかと思いきや、早々に最重要容疑者が殺害されるという展開は予想外で、この二つの事件の関連性が面白い。これが単独の事件だとかなり平凡な作品に終わってしまう可能性は大きかったと思うが、それを組み合わせることで魅力的なプロットにまで持っていっている。

 ただ、その魅力的なプロットを、例によって面白いストーリーに仕立てるのが下手というか(泣)。特に前半はかなり辛くて、特に警察がダンスタブル殺害事件での聞き込みの最中に、ロジャーとケネスの過去について知る件はあまりに唐突すぎる。
 捜査のこの時点でこの膨大な情報を入手するという不自然さ、しかもダンスタブル殺害事件にそこまで深く関わるわけではない。むしろ第二の事件との関わりのほうが強くて、明らかに著者がこの情報を盛り込む箇所を間違えた感がある。
 ロードの弱点の退屈さというのは、もちろん刺激やインパクトの不足という面もあるが、どちらかというとこういう重要なネタのストーリーへの落とし込みの適当さが起因しているのではないだろうか。

 あと、これまで退屈さの要因のひとつとして思っていた、執拗な推理の繰り返しの部分だが、続けてロード作品を読んでいると正直それほど気にならなくなってきた。もちろんもう少しコンパクトにまとめたほうがよりいいとは思うが、それでも要素としてみれば本格探偵小説として無くてはならぬ部分であり、そう意味ではこれは欠点ではなく個性と見たほうがよいだろう。

 ということで欠点はあるものの『吸い殻とパナマ帽』が意外な拾いものだったことは大きな収穫。もしかすると『見えない凶器』や『エレヴェーター殺人事件』も再読するとその評価も変わるかもしれないが、ううむ、どうなんだろう(苦笑)。


ジョン・ロード『電話の声』(東京創元社)

 ジョン・ロードの『電話の声』を読む。論創海外ミステリから出た『代診医の死』、同じくマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』の二冊でかなりジョン・ロードを見直したこともあって、この勢いでついでにロードの長年の積ん読を消化しようと考えた次第。
 『電話の声』は東京創元社の〈世界推理小説全集〉の第六十巻として1959年に刊行されたもの。この1950年代、ロードの邦訳は本書に加え、『エレヴェーター殺人事件』、『プレード街の殺人』『吸殻とパナマ帽』と計四冊が刊行されているが、それらが軒並みイマイチの作品ばかりだったために、その後の紹介が進まなくなったと言われている。
 ということでほぼ期待せずに読み始めた『電話の声』だったが、果たしてその出来やいかに?

 まずはストーリー。
 舞台はイギリスの地方都市ミンチングトン。娯楽の少ない小さな町ではあるが、とあるバーでは週に一度、ビリヤードの大会が開催され、地元の仲間で賑わっていた。そんなある日、店にある男から電話があり、大会に出場するリッジウェル氏に伝言が残される。仕事の話をしたいので、指定した日時に自分の家に来てほしいというものだった。
 さっそく男を訪ねたみたものの、なぜかそんな住所はなく、不思議に思いながら帰宅するリッジウェル。しかも帰ってみると妻のジュリアが殺されていた。事件後の態度に不審を抱いた地元警察はリッジウェルを容疑者とみなすが、ロンドン警視庁から派遣されたジミイ・ワグホーン警視は外部の犯行と考え、捜査を進めてゆく……。

 電話の声

 ううむ、これは確かに微妙な感じ。例によってプロットは悪くないのだけれど、ストーリー展開が恐ろしいほど地味で大変損をしている。ストーリーの地味さではこれまで読んだロード作品のなかでもトップクラスかもしれない。

 最初にひとつ書いておくと、本作は実際に起きた事件をロードが解釈したという触れ込みの作品で、その意義が理解されないままに読まれたため、評価が下がってしまった云々という記事をどこかで拝見したことがある。だがなぁ、ううむ、それは免罪符にならないだろう。
 実際の事件がそれほどセンセーショナルなものではなく、いたって地味な事件なので、そこをどうこう言われても困るというのならわかるが、別に本作はノンフィクションではなく、れっきとしたフィクション。事件が起きてから以降の出来事や真相に関しては著者の創作だから、必要以上に実話云々を打ち出す必要があるとは思えない。

 先に書いたとおり、とにかくストーリーは厳しい。事件はすぐに発生するが、その後の展開は捜査→推理→聞き込み等で新たな手がかり→新たな推理→聞き込み等で新たな手がかり→新たな推理……という具合に、推理のやり直しが延々と続くのである。
 これも上で書いたがプロットは悪くないのだ。トリックがガツンと出るタイプではなく、ホワイダニットとフーダニットで読ませる作品であり、真相だけ取ってみれば意外性もまずまずある。
 だから事件発生までの雰囲気作りなどをもう少しボリュームアップさせ、かつ、延々と繰り返される推理場面を反対にもう少し絞れば、それなりに悪くない作品になったはずだ。
 延々と繰り返される推理場面は、単にストーリーが冗長になるという欠点だけではない。あらゆる可能性を考慮し、疑問を挙げては潰していくため、読者に対してかなり真相がばれやすくなるというデメリットまで発生する。本作など登場人物が少ないため、よけいにその点が辛いところだ。

 ただ、確かにストーリーは退屈だし、派手なトリックもないのだけれど、本格探偵小説としてみた場合、足と推理だけで真相にたどりつくというスタイルはある意味王道ではある。
 犯人は夫のリッジウェイなのか、それともそれ以外の人物なのか、容疑者は一人+αという状況の中、非常に限られたピースをどうはめこむかという面白さである。シンプルな犯罪なのに、そのピースがほとんど埋められないのだ。
 犯行動機もそんな埋まらないピースのひとつ。この動機を見つけることこそが犯人へつながる道なのだが、リッジウェイであっても外部の犯行であっても、その動機が不明なのである。
 結局は細部が不明のまま、ジミイ警視は状況証拠だけを頼りにバクチに打って出るのだが、最後の最後でロジックを詰め切れなかった印象がするのは惜しいところである。まあ、それでも犯人を指摘する場面は、それまでの退屈さがあるだけにかなりインパクトではあった。

 嬉しい誤算としては登場人物の面白さ。人物描写が平板であるというのもロード作品にいわれる欠点だが、これは本作にはあてはまらない。といっても、これはリッジウェルという一人の人物に頼るところが大きい。
 真面目で勤勉、感情をあまり出さず、独自のポリシーを貫いて暮らすリッジウェイはかなりの変わり者で、彼がもっと凡庸な人物だったら、より退屈な物語になっていた可能性は大いにあるだろう。

 ということで、決して言われているほどつまらない作品ではないというのが最終的な感想。ただ、ストーリーの退屈さだけはかなりのものなので、わざわざ高い古書価を払ってまで買うようなものではないだろう。


マイルズ・バートン『素性を明かさぬ死』(論創海外ミステリ)

 マイルズ・バートンの『素性を明かさぬ死』を読む。先日読んだ『代診医の死』の著者、ジョン・ロードの別名義作品である。まずはストーリー。

 英国の片田舎、テンタリッジ村で別荘を構え、農園を楽しむために週末を過ごすジェフリー・メープルウッド。あるとき地主でもある甥のバジルが訪ねてきたが、翌朝、バジルは密室状態のバスルームで死亡したところを発見される。
 事故、自殺、それとも他殺? 判別がつかないため、事件はロンドン警視庁のアーノルド警部に委ねられる。捜査を進めるアーノルドは遺産などの状況から犯人の目処はつきつつも、どのような犯行手段を使ったかがわからず……。

 素性を明かさぬ死

 別名義とはいえ、シリーズ探偵がプリーストリー博士から犯罪研究家メリオン氏&アーノルド警部に変わったぐらいで、その作風はほぼ同一と思ってよいだろう。十分に練られたプロット、推理合戦を中心にししつつも展開としてはいたって地味なストーリー、紋切り型の登場人物、ハウダニットにこだわってはいるが感動を与えない機械的トリック……認識としてはそんなところか。
 加えてバートン名義の方が田舎の情景描写などがより光っており、トラベルミステリ的な楽しみもできるという見方もあるようだが、まあ、ジョン・ロードを今頃読む人がその点を期待しているとはさすがに思えないけれど(苦笑)。

 ただ、一応は長所短所が入り混じっているとはいえ、これまでは圧倒的に短所の印象が強く、退屈派とまで揶揄されたジョン・ロード。それが昨年の夏に刊行された『代診医の死』の紹介によって、ずいぶんと我が国での株も上がったことは間違いないだろう。
 そして、そこからあまり間をおかずに出版されたバートン名義の『素性を明かさぬ死』だが、これもさらにロードの株をあげるに十分な一冊であった。

 先にも書いたが、これまでのロード作品とそれほど作風が変わるわけではない。特にストーリーを引っ張るのがハウダニット、すなわち機械的な密室トリックであり、その仕掛けもまあ悪くはないけれど凄くもないというレベル。それをアーノルド警部がコツコツと調べていく過程はまずまず楽しめるけれども、それだけではもちろん満足するわけにはいかない。
 本作が光っているのは、その機械的密室トリックをとりまく状況であり、著者は自らの短所を逆手に取るかのような真相をもってくる。あまり詳しく書くとネタバレになるけれど、密室トリックそれ自体も大きな伏線なのである。
 ごく限られた条件と登場人物、そのなかで本格を成立させるのはもちろん難しいのだが、それをロードがこういうサプライズでまとめてくるとはまったく予想外であった。
 これらの作品でジョン・ロードの作品が見直され、続々と刊行されるようになると面白いのだけれど、問題はこのレベルの作品があといくつ残っているかだろうなぁ。


ジョン・ロード『代診医の死』(論創海外ミステリ)

 ジョン・ロードの『代診医の死』を読む。ジョン・ロードといえば百冊以上のミステリを残した黄金時代を代表する本格探偵小説作家の一人。ただし、その地味な作風が災いして没後には“退屈派”というありがたくない異名をつけられ、日本でもまったく人気のない作家である。その膨大な著作数に比べると翻訳された数はあまりに少なく、そもそも作品がいまいちなので稀に新刊が出てもそのあとが続かない。
 著者の最高傑作として紹介された『ハーレー街の死』にしても、確かにそれまで紹介されたなかではいい方だったが、「ロードにしては」という但し書きは必要であろう。せっかく派手な題材を扱った『ラリーレースの惨劇』にしても、なぜここまで盛り上がりに欠けるストーリーにするのか理解できないほどであった。
 そこに本作『代診医の死』の登場である。実はこれが以前から傑作であるとは聞いていたのだが、さてその結果やいかに。

 こんな話。パタムという小さな田舎町で開業医を営むグッドウッド医師。妻と二人で毎年恒例の長期休暇をとることになり、その期間の代診医としてロンドンからソーンヒルという医師を雇うことになる。現れたソーンヒルは真面目そうな好青年で、安心したグッドウッド医師は引き継ぎを終えて旅立ってゆく。
 残されたソーンヒルもさっそく診療や往診にあたるが、グッドウッドの友人でもある資産家トム・ウィルスデンの往診に出かけると、その病状がグッドウッドから聞いていたより遥かに悪いと判断する。しかし、頑固なウィルスデンは急ぎの治療を拒み、なんと翌日には体調を崩して死亡してしまうのだった。
 気落ちするソーンヒルだったが、目の前の業務は消化しなければならない。その日も往診にでかけたが、今度はそのソーンヒルが行方不明となる。さらには付近の森で火事が発生し、焼けた車からは遺体が発見される。しかも死因は火事ではなく、頭蓋骨への殴打であることが判明。いったいこの小さな町で何が起こっているのか……。

 代診医の死

 ロードが退屈派と言われる原因は、主にストーリーの単調さとルーティンのような構成、登場人物の平板な描き方にあると思うのだが、正直いうとそれらの弱点は本作でもそれほど変わらない。これはロードの後期作品では特に顕著な特徴らしいのだが、とりわけ中盤以降の推理合戦はそのボリュームゆえ、人によってはかなりだるいと感じる部分だろう。
 だがよく考えてみると、ミステリことに本格探偵小説を読むのであるから、推理合戦を退屈だというのは非常に矛盾した意見ではある。推理するという部分が退屈なら端から本格探偵小説など読むなという話だ。他の作家がキャラクターの魅力や破天荒なトリック、ワクワクするストーリーで味付けするところを、ロードは推理合戦という実に真っ当な味付けで勝負しているわけで、むしろミステリ読みは歓迎すべきところであろう。
 と、フォローしておいて何だが、そうはいっても推理合戦をもう少し面白く描けないロードの責任はもちろんある(笑)。アシモフなど黒後家蜘蛛の会シリーズで同じようなことをやっているのに、あれを退屈だという人はいないものなぁ。
 
 ただ、そんな弱点を孕みつつ、本作がこれまで紹介されてきた作品と決定的に違うのは、秀逸なプロットとメイントリック、そしてその結果としてのサプライズである。
 何といってもメイントリックが素晴らしい。ネタバレ等、差し障りがあるので詳しくは書けないけれど、理屈は通るがつまらない従来の物理的トリックではなく、アンフェアぎりぎりのところで勝負する心理的トリック一本で勝負しているのが素晴らしい。
 また、プロット絡みでいうと、グッドウッドの死とソーンヒルの死の関連、さらにはそれぞれの事件での動機をなかなか明らかにしないあたりも巧みである。こういった真相を踏まえると、少々退屈に思える推理合戦がまた生きてくるから面白いではないか。

 というわけで本作はこれまで読んできたロード作品のなかでは文句なしにベスト。これだけの作品があるのなら、さっさとこれから翻訳してくれれば、ロードの評価もけっこう変わっていただろうになぁ。まあ、ときの関係者もすべてのロードの作品を読むのは難しいだろうから仕方ないのかな。


ジョン・ロード『ラリーレースの惨劇』(論創海外ミステリ)

 ジョン・ロードの『ラリーレースの惨劇』を読む。おなじみ論創海外ミステリからの一冊。

 まずはストーリー。王位自動車クラブが主宰する英国ラリー大会。ロバートは友人のリチャード、さらにはナビゲーターとしてプリーストリー博士の秘書ハロルドとチームを組み、上位入賞を狙っていた。
 ところが霧のせいでチェックポイント通過は大幅に遅れ、挙句に溝に脱輪したラリーカーを発見する三人。おまけにその事故現場では死体まで発見し、とうとうレースを中断する羽目になる。
 しかし、厄介事はそれだけでは終わらなかった。当初はレース中の単純な事故と思われた一件だったが、不審な点が浮かび上がってきて……。

 ラリーレースの惨劇

 ジョン・ロードといえば英国の本格探偵小説を代表する一人ながら、作風の地味さや物語の単調なところが勝ちすぎて、日本では人気・評価ともいまひとつの作家である。
 しかしながら本作はなんとカーラリーをネタにした作品。素材としてはなかなか派手なので、「もしかするとこれは今まで読んだものとは異なるかも」とは思っていたが、まあ、結論からするとそれほど大きな違いはなかった(苦笑)。
 序盤こそラリーを舞台にしており動きもあるので、掴みとしては悪くない。ところが二十ページあまりで事件が発覚すると、あっという間にいつものロード、すなわち地道な捜査や推理の積み重ねに逆戻りである。トリックや犯人の意外性なども含め、甘くつけてもせいぜい六十点ぐらいであり、決して期待して読むような作品ではないだろう。

 ただ、『ハーレー街の死』や『プレード街の殺人』などに比べると、多少は読ませる感じは受けた。その理由を聞かれても、実ははっきり答えるのが難しいのだが、強いて言えばストーリーのテンポの良さか。
 いつものパターンだと推理による試行錯誤がストーリーの流れまで止めたり分断したりするところがあるのだが、本作では探偵役こそいつものプリーストリー博士ながら、実際に捜査を進めるのは警察のハンスリット警視や秘書のハロルド。彼らの捜査がまずまず良いテンポで、それを受けてのプリーストリー博士の推理という展開が、地味ながらストーリーに一定のリズムを作ったのではないだろうか。まあ、あくまで印象なので断言はできないけれど。

 まあ、管理人などはクラシックなミステリであれば、とりあえず読んでみたいと考える人間なので、今後も質がどうあれロードの作品は読みたいのだが、ううむ、どこまで続けてくれるのやら。

 なお、蛇足ながら本作の邦題にある「ラリーレース」という用語は気になる。確かに厳密にいうとラリ−はレースの一種なのだが、通常、モータースポーツではレースとラリーは別物である。
 つまりサーキットで走行タイムを競うのがレース、一方のラリーは一般公道を用い、決められたタイムにしたがって走るというものである(これ以外にもラリーにはいろんな勝敗ルールがあるけれど)。
 だから邦題をつけるならラリーとレースの並記は明らかにおかしい。邦題を活かすならそのまま『ラリーの惨劇』、語呂が悪ければ『カーラリーの惨劇』あたりだろう。まあ、個人的には「惨劇」というのも少々大げさな感じはするのだが。


ジョン・ロード『ハーレー街の死』(論創海外ミステリ)

 本格探偵小説の黄金時代を代表するわりには、長らくいまいちの評価しかされていないジョン・ロード。その理由の大部分は「話が退屈」「トリックがぱっとしない」「キャラクターも地味」といったところだろう。
 そんな作者にとっては不本意な評判が、この新刊で覆るのか。帯のキャッチ「最高傑作ついに翻訳なる!」はどこまで信じられるのか。
 本日の読了本は、その『ハーレー街の死』だ。(今回ややネタバレあり)

 タイトルどおり、事件はロンドンのハーレー街で起こった。変死体の主は診療所を営むモーズリー医師。死因はストリキニーネによる毒死。しかし、目撃者の証言や動機の問題などから、検死審問では事故死との評決が下る。
 だがそれでも納得できないいくつかの謎。プリーストリー博士の家に集まったメンバーが各自の推理を披露するなか、博士は事故でもなく、自殺でもなく、他殺でもない第四の可能性を示唆する……。

 ポイントはもちろん、上で挙げた「第四の可能性」とはどういうものか、ということであろう。本書の出来云々だけではなく、ミステリの本質にも関わるテーマである。普通に考えるとこれは期待大のはず。ただ、もしそんな驚くべきネタがあったのなら、とっくに本書はミステリ史上で燦然と輝いているはずなので、この辺は眉唾でかかるほうがよろしい。
 案の定、「第四の可能性」という表現に関しては誇大広告であり、なるほど確かに面白い種明かしを提示してくれているものの、「第四の可能性」はやはり言い過ぎ。第一から第三の可能性のひとつに含めても全然OKのレベルではある。
 なお、そのほかの要素については、他の作品同様のロードである。ストーリーや演出、謎解きなどは極めて地味。個人的にはそれほど気にならないものの、地の文まで使ってだらだらと推理されるとさすがに辛い。せめて会話に組み込むなどの演出はできないものか。しかも事件のトリックは一般人には思いつかないレベルのものだから、人によってはそれまでの推理すらむなしく感じるかもしれない(苦笑)。

 結論。確かに今までに読んだロードの作品のなかでは最も楽しめたが(といっても『プレード街の殺人』『見えない凶器』『エレヴェーター殺人事件』の三作しかないのだが)、クラシックファン以外にはおすすめできるものではないだろう。これがロードの最高傑作であるとすれば、少し寂しいかも。


ジョン・ロード『プレード街の殺人』(ハヤカワミステリ)

 神保町交叉点で古本青空市用の土台を組み始めているようだ。来週はいよいよ古本祭りか。でも相変わらずといえば相変わらずだが、仕事がけっこう立て込んでいて、果たして見て回る余裕があるかどうか。

 ミステリ黄金期を代表する作家として有名なジョン・ロード。しかし日本ではもうひとつ評価が低く、百冊以上の作品があるというのに邦訳で読める作品はほとんどなく、現在でも容易に入手できるのは『プレード街の殺人』(ハヤカワミステリ)と『見えない凶器』(国書刊行会)ぐらいのものであろう。
 本日の読了本はその数少ない邦訳の中から『プレード街の殺人』。

 突如、プレード街を襲った連続殺人事件。そのひとつひとつは一見、何の関連性もないように思えたが、ただ一つ共通していたのは、被害者が受け取った殺人を予告するカードだった。しかし、それ以外に何の手がかりもなく、また一人、そしてまた一人、被害者が倒れていった……。

(ネタバレあり)
 連続殺人の隠されたつながりを探すという、いわゆるミッシング・リンクもの。クリスティの『ABC殺人事件』やデアンドリアの『ホッグ連続殺人』が有名だが、個人的にこのテーマが好きなこともあって比較的楽しめた。ただし、出来自体は微妙である。

 巧いのは構成だろう。中盤までは被害者の周辺や、一種、狂言回しにも思える煙草屋と薬草屋というお隣さん同士のやりとりが中心となって進められ、探偵や警察の捜査はほとんど語られない。
 ところが後半に入って探偵が登場するや、物語は大きなうねりを見せ、探偵対犯人という構図をはっきりと提示してくるのである。しかし、そこに物語の破綻といったものはなく、いいレベルでのサスペンスを持続しているように感じられた。特に煙草屋と薬草屋の使い方は見事。また、犯人の動機が現代でも十分に通用するもので、その動機があればこそ本書が成立する要因にもなっており、説得力が非常に高い。

 惜しむらくは、本格作品というにはその要素が意外なほど希薄であるということ。極端なことをいえば『そして誰もいなくなった』みたいなものといえばよいか。一応、本格としての体裁はとっているが、真っ向から推理や論理する作品ではないということだ。
 だが、『そして誰もいなくなった』が最後に強烈なオチをもってくるのに対し、本書は謎解きが後半でなしくずし的に明らかにされ、大変もったいない。まあ、作者の方でそのように読まれることを拒否しているような感もあるので、それは狙いだったのかもしれない。実際、作中でも探偵役のプリーストレイ博士はあまり鋭さを見せず、どちらかといえば迷える羊の一人として描かれ、あまつさえミッシング・リンクの一部と化している。

 事件や背景が魅力的なだけに、これにアッと驚く謎解きを加えておけば大傑作になっただろうに。そう思わせる一冊。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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