オーストラリアのディクスン・カーと異名をとるマックス・アフォードの処女長編『百年祭の殺人』を読む。先ごろ、同じ論創海外ミステリから『静謐と闇』も出てしまったので、そろそろ消化どきかなということで。
こんな話。マートン判事がアパートメントの一室で刺殺され、右耳が切り取られるという事件が起こる。
その猟奇的な犯行もさることながら、現場が密室であることもまた警察を悩ませた。捜査に当たったリード主席警視は若き数学者ジェフリー・ブラックバーンに捜査の協力を依頼するが、さらに第二の事件が発生。またしても密室殺人、またしても体の一部が切り取られているという状況に……。

日本での長編初紹介は国書刊行会から〈世界探偵小説全集〉の一冊として刊行された『魔法人形』だが、ロジックを前面に押し出した作風で、オカルト趣味に彩られてはいるがカーよりははるかにスマートな印象を受けた。その分、アクも少ないというか、ミステリとしての弱さも感じたのだが、果たして本作はどうか。
結論からいうと、これはなかなかの秀作である。著者のデビュー長編に当たるが、この時点で既に著者のスタイルはほぼ確立しており、しかもレベルが高い。
ただ、スタイルが確立していると言っても、じつはカーと比べるのはやはりお門違いだろう。確かにホラー小説を想起させるようなプロローグ、本編での猟奇的犯罪&不可能趣味へのアプローチはなるほどカーの領域である。
だが、それらはけっこう表面的な部分で、例えば密室を二種類も使ってはいるが、それは密室そのものの面白さではなく、フーダニットを際立たせるためのテクニックなのである。そういう密室がなぜ成立しなければいけなかったのか、それが解明される瞬間と真相が楽しいわけである。本書の解説ではそんな辺りを踏まえて、マックス・アフォードはカーよりもむしろクイーンに近いと書かれていたけれども、これには非常に同意である。
もちろん密室だけではない。被害者の体が切断される意味、過去の事件など、いろいろキーになる要素はあるのだが、様々なロジックを積み重ね、最後にそれらすべての要素が繋がって合理的な解決が導き出されるこの快感。本作の魅力は正にその点にある。
マックス・アフォードは本業が脚本家なので、おそらくミステリについては余技だと思うのだが、それだけに変にバランスを考えず、自分が思うミステリを真っ向から追求したからこそ生まれた作品なのではないだろうか。
デビュー作ということもあって、少々謎解きミステリを追求しすぎ、あるいは詰め込みすぎの嫌いもないではない。それが中盤の展開のリズムの悪さ、説明不足の部分、シリーズ探偵の個性不足とかに表れているのが惜しい。
まあ、本作の評価を貶めるようなものでもないし、今時クラシックでこのレベルの作品が楽しめるという事実が嬉しいではないか。これは『静謐と闇』も期待できそうだ。