仕事が緩やかに忙しくなっていく。徐々に体も頭も重くなる。こういう感覚は久しぶりだ。私の仕事の場合、だいたい一気に忙しくなるのが普通なのだが、仕事の性質がここ一年でだいぶ変わってしまったため、最近は磨り減る感じで疲れていくことが多い。なんだか嫌な疲れ方ではあるな。あんまり鬱にならないよう気をつけねば。
そんなわけで読書もあまり派手で疲れそうなのは避け、本日はグレアム・グリーンの『情事の終り』を読む。
グリーンの分身ともいえる主人公の作家の不倫物語。お得意の冒険小説的、サスペンス小説的なアプローチではなく、静かな私小説といった趣。『ことの終わり』というタイトルで映画にもなっている有名な作品である。
とまあ、こんな紹介をすると軽い内容に思えるかもしれないが、実はグリーン自身の宗教観や人生観が色濃く反映された極めて重厚な小説である。表面的には恋愛を扱うが、ちょっと読み進めただけで、これがただの恋愛ではなく、人間愛や神への愛を描いていることに気づく。特に終盤、ヒロインであるサラの死後はボルテージがいっそう高まり、主要な三人の男の生き方や考え方が交差して、愛の本質を探ってゆく。
正直、わかりにくい小説ではある。難解というよりは、ピンとこない、といった方が適切か。頭ではなんとか理解できるものの、やはりしっかりした宗教観なり信仰をもっていないと、本書に触れたとは言い難い。こういう恋愛論になると、ある意味死生観を語るより難しいのではないだろうか。
だからといって敬遠するにはあまりにもったいないのも確か。中盤までの展開はエンターテインメント以上に面白いし、描写も唸るほど巧い。特に脇役として登場する探偵とその息子の使い方などは、さすがグリーン。エピソードそのものが面白い上に主人公との対比としても効果を上げている。
普段、恋愛小説なんて、と仰る人も、一度だまされたと思って読んでみるのが吉かと。
またまた仕事が忙しくなってきた。3月が期末というクライアントが多いため、その時期までに納品しなければいけない仕事がどんどん入ってくる。会社的にも個人的に少々キャパオーバー気味で、体調がやや不安だが、それでも仕事はこなさなければならない。ハードボイルドやなぁ。
グレアム・グリーンがマイブームになりつつある。本日の読了本は、圧倒的に映画の方が有名な『第三の男』。しかし、それには当然とも言える訳があって、もともと本書は映画のためにグリーンが書き起こしたものなのだ。本来なら直接シナリオを書けばよいものの、グリーンは小説を元にしなければシナリオを書くことができない質だったらしく、わざわざシナリオの前にこの小説を書いたわけである。
内容は今さらな気もするが一応紹介しておくと……。
舞台は第二次大戦後のウィーン。米ソ英仏の四国による占領管理下に置かれた混迷の街。イギリスの西部劇作家ロロ・マーティンズは、旧友ハリー・ライムに招待されてウィーンを訪れたのだが、なんとハリーは自動車事故でこの世を去ったばかりだった。しかもマーティンズは国際警察のキャロウェイ大佐から、実はハリーがペニシリンを売買する闇組織のボスであったと聞かされ、愕然とする。ハリーの死に疑問を抱いたマーティンズは、真相を突き止めるべく一人調査を開始した……。
映画はもちろん傑作だが、さすがに原作も負けてはいない。ハリーの持つ悪の魅力や元恋人のアンナの存在、そして何より当時のウィーンという街が持つ雰囲気がイキイキと活写されている。だが、かなり重要な部分で異なる点や印象の違う部分もあることに驚いた(もうお気づきだろうが、名前も微妙に違っていたりするわけだ)。
もっとも大きいのが、原作ではキャロウェイ大佐の一人称ですべてが語られているということではないか。映画ではあくまでマーティンズが進行役的な役割を持つため、ついつい彼の視点でものを考えてしまいがちである。だがキャロウェイは事実の記録者というかなり客観的な見方をするため、人々の行動がより鮮明に浮かび上がる。その代表が何といってもマーティンズ。映画では凡庸な男の印象がある彼だが、原作ではもう少しドンファン的なところもある酒飲みの三流作家として描かれ、映画よりアクが強い。したがって彼がハリーの死に疑問をもったり、調査にこだわるところが非常に納得でき、それがなかなか魅力的なのである。アンナやハリーに振り回される役どころも実にはまっていると言えるだろう。
また、映画史上、最も有名なシーンのひとつと言ってよいラストシーン。マーティンズに目もくれず、しっかりと前を見て並木道を歩み去って行くアンナ、あのシーンだ。これが何と原作は微妙に違うのである。楽しみを奪うのもあれなのでここでは書かないが、序文でグリーン自身がこれについて言及しているのも面白い。
というわけで短いながらも見どころ満載の『第三の男』。映画だけではもったいない。原作も一読の価値はあります、いやホント。
グレアム・グリーンと言えば、文句なしにイギリスを代表する偉大な作家の一人。思想と取材によって裏づけされたその作品群は、純文学とエンターテインメントの狭間を自由に泳いでいるという印象が強い。
「印象が強い」と書いたのは、私がグリーンの作品を一冊も読んだことがなく、雑誌やガイドブック等の伝聞でしかグリーンの作品を知らないからである。一応ミステリ歴三十年、マニアと言えるぐらいはミステリを読んできた身である。こんなことでは恥ずかしい。巨匠グリーンの作品を読まずしてミステリを語るなど、ましてや英文学を語るなどもってのほか、実におこがましいではないか。というわけで読んだのが『スタンブール特急』だ。<嘘です。適当に積ん読から選んだだけです。
パリからイスタンブールまでを走るオリエント急行。そこにたまたま乗り合わせることになった乗客たちが引き起こす人間ドラマ。終点に待つのは夢か、それとも苦い涙か。
本作には物語のはっきりした縦軸というものがない。いや、ないというわけではないな。複数の主人公たちがそれぞれのドラマを抱え、ときにはそれぞれのドラマが交錯し、それがさらなるドラマを紡いでゆくのだ。複数の縦軸が同時に進行する、といった方が適切だろう。
今では珍しくもないが、当時としてはなかなか新鮮な映画のカットバック的手法によって、それらの縦軸が断片的に展開してゆく。
おそらく読者は自然と思い入れの強い登場人物を持つようになるだろう。それによって人それぞれの読後感が生まれる。恋愛、女性のキャリア指向、差別、政治、国際問題、上昇志向、犯罪……キーになる言葉もさまざまである。あなたがたまたま乗り合わせた客室に誰が座っているのか、運命は列車とともに走り出す。
あるいは別段、感情移入などする必要はないのかもしれない。ただただ作者の操るままに車窓の景色を楽しむという手もある。ただし、あなたが楽しむ景色は車窓の外側ではなく、内側の人間ドラマだ。
本作はまさしく上質のエンターテインメントである。この「エンターテインメント」という言葉も、現在はごく普通に小説の形容として使われているが、実は本書の副題としてグリーンが初めて使ったらしい。恐るべし、グレアム・グリーン。
お次は映画でも有名な『第三の男』にでもしようか。