なんともはや強烈なものを読んでしまった。ジャン・ヴォートランの『グルーム』である。
足に障害を持つ中学校の美術教師、ハイム。しかし実は社会にまったく適応できない極度な引きこもりの青年でもあった。赴任先の学校では生徒に虐められ、 すぐに辞めてしまうことの繰り返し、ほとんどの日々を母とともに自宅で過ごしている。
ハイムの世界は常に空想とともにあった。そこでの彼は障害のない12歳の少年であり、ホテルで客室係を担当している。彼の仕事はただのボーイではなく、女性客に対するアチラの奉仕まで含まれ、その一方では所持金をなくした老人をかくまうという活躍ぶり。
ハイムの空想癖は母親をも巻き込み、従わないときには異常なまでの凶暴性を発揮する。リアルとアンリアルの境界は壊れ、さらにハイムの狂気が暴走を加速し始める……。
単独名義としては、本書が三冊目の翻訳になるヴォートラン(他に合作が一作出てます)だが、先の二冊、『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』、『鏡の中のブラッディ・マリー』もかなり狂気をはらんだ物語だった。本書ではそれがさらに強烈なものに昇華した印象を受ける。ただ前の二冊と違うのは、狂気の内容が意外にストレートだということか。
序盤では空想の世界と現実の世界の描き分けをかなり曖昧にしているため最初は戸惑うだろうが、読む進んでこの世界のルールが理解できるようになると、ハイムの暴走ぶりが納得できる。そして同時に作者のヴォートランが非常に計算してこの物語を書いていることもうかがえる。
リピドー、トラウマ、なんでもよいが、ハイムの心の奥底に澱むものが次第に波打ち、ダムを壊す様は読む人を選ぶほどの強烈さだ。しかし狂っているのはハイムだけではない。追う側の警察も、ハイムの母親も、すべての者がすでに狂気を孕んでいる。いったい僕らはこの狂気の世の中でどう生きればよいのか。僕らもすでに狂っているのか。そもそも社会の有り様がすでに狂っているのではないか。そう、作者に言わせれば、すべてがクソなのだ。
まともではないここから、別のまともではないどこかへ。尋常ではない物語の中だからこそ、ハイムの異常な行動はある種のわかりやすさを備え、ストレートにメッセージが伝わってくる。
『グルーム』は確かに強烈な作品で、ヴォートランのひとつの到達点のようにも思える。それは間違いのないところだ。
だが、実をいうと『パパはビリー〜』と『鏡の中の〜』の方が遙かにひねくれ、考えさせられる小説であった。もし、『グルーム』でなんらかのものを得られたと感じた人は、ぜひとも『パパはビリー〜』と『鏡の中の〜』にも手を出してほしい。