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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

G・K・チェスタトン『法螺吹き友の会』(論創海外ミステリ)

 G・K・チェスタトンの『法螺吹き友の会』を読む。
 連作短編集のようでもあり長篇のようでもある『法螺吹き友の会』を筆頭に、ノンシリーズの短編二作、ブラウン神父ものの短編一作という、なかなか盛り沢山の内容である。収録作は以下のとおり。

『法螺吹き友の会』
The Unpresentable Appearance of Colonel Crane「クレイン大佐のみっともない見た目」
The Improbable Success of Mr. Owen Hood「オーウェン・フッド氏の信じがたい成功」
The Unobtrusive Traffic of Captain Pierce「ピアース大尉の控えめな道行き」
The Elusive Companion of Parson White「ホワイト牧師の捉えどころなき相棒」
The Exclusive Luxury of Enoch Oates「イノック・オーツだけのぜいたく品」
The Unthinkable Theory of Professor Green「グリーン教授の考えもつかぬ理論」
The Unprecedented Architecture of Commander Blair「ブレア司令官の比べる物なき建物」
The Ultimate Ultimatum of the League of the Long Bow「〈法螺吹き友の会〉の究極的根本原理」

The Man Who Shot the Fox「キツネを撃った男」
The White Pillars Murder「白柱宗の殺人」
The Mask of Midas「ミダスの仮面」

 法螺吹き友の会

 本作は「法螺吹き友の会」を標榜するメンバーたちの物語。頭にキャベツをかぶる退職軍人のクレイン大佐、テムズ川に火を放つ弁護士のオーウェン・フッド、豚の群れを宙に浮かべる若きパイロットのピアース等々、彼らの奇行が一話ごとに描かれている。その奇行がどのように為されたのか、なぜ為されなければならなかったかが、ユーモラスに綴られていくといった按配だ。
 もちろんチェスタトンのことなので、ただのユーモア小説などではない。この奇行が、実は英語の慣用句をそのまま実行しているのがミソ。
 こういう言葉遊びは他にもいろいろ入っているのだが、加えて著者独特の逆説的な言い回しもふんだんに織り込まれているので、ある程度は英語と英国の文化に親しんでいない限り、この面白さはなかなかダイレクトに理解できないだろう。恥ずかしながら管理人もその一人(笑)。

 また、文章だけでなく、ストーリー展開もかなり特殊である。メンバーの奇行で話が完結するのは実は中盤まで。多少はミステリっぽいエピソードもあるものの、途中からは「法螺吹き友の会」によるイングランド内乱というところまで話が膨らんでゆく。このあたり、ちょっとした仮想歴史SF並の展開だが、もちろんそこには社会風刺や著者の政治的主張がふんだんに込められている。ここまでひねくれた設定を重ねていくテクニックには素直に脱帽。
 しかしながら、つなぎ方も強引だし、このねじれた世界を心から楽しめたかと聞かれれば、残念ながら……というのが正直なところである。


 その点、他の短編はまだ素直に楽しめる(チェスタトンにしては、だが)。
 まず「キツネを撃った男」だが、ある殺人事件の構図を、見方を変えることによってがらっと構図をひっくり返すのが鮮やか。

 「白柱荘の殺人」は、ある男がハイド博士を訪れ、兄が殺された事件を依頼するという幕開け。ハイド博士はホームズばりの推理で男の身上を明らかにし、二人の弟子に事件を担当させるが……。
 これは探偵小説のパロディといっていい作品。探偵の存在や捜査や推理の方法、探偵小説の在り方にまでメスを入れるのが面白い。

 「ミダスの仮面」。警察本部長のグライムズはあるガラクタ屋を訪れ、これから捜査令状を取って店をくまなく調べると通告するが……。出来はやや落ちるけれど、これまで単行本未収録だったブラウン神父ものを入れてくれたのはありがたい。


 最初に書いたように内容は盛り沢山。これだけでチェスタトンのファンなら間違いなく買いなのだが、トータルでみると以上のように読み手を選ぶのは間違いなく、一見さんにはやや辛い内容かもしれない。ブラウン神父などの短編集を多少こなした上でとりかかるのがよろしいかと。


G・K・チェスタトン『知りすぎた男 ホーン・フィッシャーの事件簿』(論創海外ミステリ)

 最近、短編集を読む比率が非常に高くなってきた。まったく意識はしていない。単にそれだけ読みたくなるような短編集が増えている、ということだろう。河出をはじめとして、あちらこちらの出版社から面白い叢書も出ているし、クラシックとはまた別のところでムーブメントが続いている感じである。一昔前だと、短編集は売れないというのが定説だっただけに、時代が変わったというほかない。ただ、個人的には短編の場合ひとつふたつ読むだけで、けっこうお腹がいっぱいになってしまい、読書ペースが上がらないのが悩みの種である。

 さて、本日の読了本『知りすぎた男 ホーン・フィッシャーの事件簿』も短編集だが、これがまた手強かった。
 なんせ作者はG・K・チェスタトン。ミステリをミステリとして終わらせるようなことは決して無い。常に批評家としての眼で事件や物語のなかから真理を導きだそうとする書き方だけに、それこそ噛みしめるようにして読まないと、意味がわからないことも多い。
 それでもブラウン神父ものなどはいい。お得意の逆説などは出てくるが全然理解しやすい範囲だし、何よりミステリとしての収穫が非常に大きく、その愉悦にどっぷり浸ることができる。ところが本書の場合は違った。

 知りすぎた男

The Face in the Target「標的の顔」
The Vanishing Prince「消えたプリンス」
The Soul of the Schoolboy「少年の心」
The Bottomless Well「底なしの井戸」
The Hole in the Wall「塀の穴」
The Fad of the Fisherman「釣り人のこだわり」
The Fool of the Family (The Temple of Silence)「一家の馬鹿息」
The Vengeance of the Statue「像の復讐」
The Garden of Smoke「煙の庭」(ノン・シリーズもの)
The Five of Swords「剣の五」(ノン・シリーズもの)

 収録作は以上。最初の八編、「標的の顔」から「像の復讐」までがホーン・フィッシャーを探偵役とする連作である。
 ホーン・フィッシャーは政治から趣味に至るまで非常に幅広い教養と知識をもつ“知りすぎた男”だ。生まれもよく知人や親類縁者には大臣や政府関係者も多い。だが、世の中の仕組みや裏を知り尽くすゆえか、その言動にはどこか倦怠感が漂い、常に苦悩の影が落ちている。
 そんな彼が巻き込まれるのは決まって国際情勢や政治、あるいは政治家に絡む事件ばかり。だが、その事件の性質ゆえに、真相が公になることはない。個の犯罪という事実は、国家の未来の前には二の次三の次なのである。フィッシャーは真相を解き明かすけれども、それをすべて司法に委ねるわけではない。この事件は英国にとってどういう意味があるのか、それを受けてどう行動すべきなのか、最終的な判断はそのバランスの中で生まれてくるのである。

 そういうわけで、本書のミステリとしての出来はまずまずといったところで、それほど驚くようなものではない。上で書いたように、政治的な解決や政治的な真実というものについてチェスタトンは語りたいわけで、ブラウン神父のレベルを期待すると、かなり裏切られる羽目になる。ミステリの体裁は整えてはいるものの、設定やら事件の背景やら、すべてがチェスタトンの唱えるテーゼのために構築されているのだから、これは当然だろう。
 結局、ここを理解して楽しめるかどうかで、本書の価値は変わってくる。管理人のような単なるミステリファンには、正直この政治的蘊蓄部分が退屈なだけであった。
 ただ実はこの連作、始めから大きな狙いのもとに書かれており、八編通して読んだとき初めてその価値がわかる構成になっている。最初の数作でわかった気になっていると、最後の二作あたり、「一家の馬鹿息」や「像の復讐」でかなりの衝撃を受けるはずだ。
 ううむ、やはりチェスタトンは侮れない。


G・K・チェスタトン『マンアライヴ』(論創海外ミステリ)

 あのG・K・チェスタトンの『マンアライヴ』にとうとう手を出してしまった。

 ご存じの方も多いと思うが、論創社の海外ミステリ・シリーズは以前から翻訳のレベルの低さが指摘されていた。これは経験の浅い翻訳者ばかりを多く起用しているためで、そのかわり版元にとっては、コストを抑えることができたり、進行を滞らせることなく矢継ぎ早の刊行ができたりというメリットがあったわけだ。これは読者の都合を無視しているかのようにも思えるが、クラシック・ミステリの需要や売れ行きを考えると、ああやって五十作以上の刊行が続くだけでも奇跡的なことであり、版元が安定してこの企画を続けられるのなら、多少の翻訳のまずさなどはこの際我慢すべきであろう。

 そこで『マンアライヴ』だが、どうやら本作の翻訳については、そんなに悠長なことも言っていられないぐらいひどい状況にあるらしい。ただ問題は翻訳だけにあるのではなく、注釈のミスや、何より日本語としての文章そのものにあったりするのだ。まあ、どれぐらいのものかは、読み始めればすぐにわかることなので、いちいち例はあげない。それでも知りたいという人は、Amazonのレビューや「マンアライヴ 翻訳 つづみ綾」等で検索すれば、いくつか記事がひっかかるはずだ。
 しかしながら、もともとチェスタトンの原文自体が厄介な代物らしいことはわかる。入り組んだ文章、わかりにくい比喩、登場人物たちの抽象的な議論、哲学やら宗教やら文学やらの衒学趣味等、これらを消化して平易に翻訳するには、さぞや苦労したことだろう。訳者の悲劇は、このチェスタトンの原文の持つ雰囲気を、できるだけ日本語でも再現しようとしたところにあるのではないか(あるいは逆に原文が手に負えなくなり、ほぼ直訳でいってしまったという線も捨てがたいが)。
 ただ、同じ業界にいる者として一言いわせてもらうなら、これは訳者が悪いというより、その訳者を選び、原稿チェックをやっているはずの編集者が一番悪い。普通は気づくべきだろう。とにかく結果として、せっかくのチェスタトンの小説が、このように読みにくい形で世に出たのは実に残念である。



 まあ、翻訳の話ばかりでもしょうがないので、そろそろ中身の話に移ろう。

 ロンドンの下宿屋ビーコンハウスに住む三人の男と二人の女。そこへ現れたのが突拍子のない言動を繰り広げる、その名もイノセント・スミス。唖然とする周囲をよそに、スミスは知り合って数時間しかたたないというのに、ビーコンハウスに来ていたメアリという女性に結婚を申しみ、さらにはやはりビーコンハウスに客人としてきていた医師に発砲してしまう。下宿人たちはスミスの行動に感化されたか、下宿を法廷に見立て、施設裁判を開くことにしたが……。

 一見ミステリ仕立てではあるが、これはやはり似て非なるものだろう。チェスタトンお得意の逆説的論理が、極端に劇画化された登場人物たちによって延々と繰り返し展開される。
 最初は当時の裁判制度を諧謔化したものかとも思ったが、さすがに表面だけをとらえて云々する小説でもないだろう。もちろん、タイトルにある「マンアライヴ」=「生きている男」というテーマはあるだろうが、これは突き詰めてしまうと、人間の存在についての考察となるため、当たり前すぎてあまり面白くもない。
 で、ちょっと思ったのは、本書で登場人物たちによって延々と繰り返される議論のシーンである。論考する場面がこれだけあるからには、論考すること自体がテーマでもまったく問題はないはずで、これはもしかすると「逆説」や「論理」そのものについて書かれた小説といえないだろうか。逆説を小説内で手段として用いるチェスタトンだから、それをさらに小説のど真ん中に据えても何らおかしいことはないはず。登場人物の多くはそれを描写するための道具であり、その最たる者が、まるで逆説が生きて歩いているかのような存在、スミスなのだ。

 と、ここまで書いてみたが、どうも怪しいな(苦笑)。少なくとももう二、三度は読まないと、頭に入ってくる話ではないので(いろんな意味で)、いずれ新訳が出れば(笑)再チャレンジしてみたいものである。


G・K・チェスタトン『四人の申し分なき重罪人』(国書刊行会)

 無事、予定日に愛犬が出産。まずまず安産で一安心。チビ犬二匹とその世話をする母犬を見ていると感動しますなぁ。なーんにも子育てなど習ったことがないはずなのに、本能だけで一生懸命に子供の面倒を見る姿は立派なもんです。

 本日の読了本はG・K・チェスタトンの『四人の申し分なき重罪人』。
 本作は四つの作品を集めた連作中編集である。特ダネを追う新聞記者が、ロンドンで出会った四人の奇妙な男たちー<誤解された男のクラブ>の面々から聞いた不可思議な話のコレクション。すなわち「穏和な殺人者」「頼もしい藪医者」「不注意な泥棒」「忠義な反逆者」。ひねくれたタイトルからもわかるように、チェスタトンお得意の逆説が炸裂する。

 チェスタトンを読むのはずいぶん久しぶりで、『詩人と狂人たち』(それとも『ポンド氏の逆説』だったか)を五、六年前に読んで以来のはず。お馴染みのブラウン神父ものももちろん良いのだが、後期に書かれた『詩人と狂人たち』や『ポンド氏の逆説』は他のミステリにはない独特の満足感があって大変好みである。そして本書もそれらの作品と同じテイストを備え、かつ勝るとも劣らぬできばえの、実に満足できる一冊だった。
 ミステリを読んだときの満足感といってもいろいろあって、本格なら謎解きの楽しさやだまされる快感というのがまず挙げられる。ハードボイルドや冒険小説なら、ある種の感動や共感を得るために読むこともあるだろう。しかし今回読んだ『四人の申し分なき重罪人』はそれらのどのタイプとも異なる。ロジックを楽しむとでも言えばいいのだろうか、推理することが楽しいのではなく、考えることそのものを楽しむ小説なのである。日常からはみ出したある状況に対し、まったく異なるアングルから考察された論理は、読み手を知的興奮の迷宮に誘い込む。その逆説に隠されたテーマが明らかになる様は、ひとつの思想の具現化ですらある。
 古典の復刊ブームの今こそ、チェスタトンの絶版作品もぜひ復刊してほしい。そう願わずにはいられない。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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