勁文社が民事再生法の適用を申請したらしい。出版社としては中堅どころ、かつては翻訳ミステリもいくつか出していただけに(まあ、ミステリというよりはゲーム攻略本の方が印象は強いのだが)、まさかそこまで台所事情が苦しいとは知らず、けっこうビックリした。
決して人ごとではなく、出版業界がこの先どうなるのか大変心許ない。管理人が務める会社なんて小さなもんだけど、今のところはそれなりに仕事がまわっていて、ありがたいことである。クライアントさん、もっと仕事くれ。
そんな鬱な気分を吹き飛ばすどころか、いっそう闇の淵に引きずり込もうとしたのがデイヴィッド・グターソンの『死よ光よ』だ。
闇の淵と書いたが、これは癌による死を目前にした老医師が、死に場所を求めて彷徨うロードノベルだ。旅の中で医師はさらに傷つくことにもなるが、新たな出会いや生の誕生にも立ち会い、魂を再生してゆく物語となっている。決して沈みっぱなしではないので念のため(笑)。
作者のグターソンといえば、前作の『殺人容疑』が大評判となったのはまだ記憶に新しい。あれはミステリではなく文学だよという話もあちこちに出たが、そういう話が出たのも殺人を扱っているからで、表面的には強引にミステリという縛りがあっても、まあ、許せるところだろう。しかし、今回は完全にミステリのミの字も出ない。グターソンはもともとミステリなど書いているつもりもないだろうし、ますます飾りを取り払って、真っ向から生と死について語っている。
『死よ光よ』についていえば、さんざっぱら言われていることなので今さらなのだが、やはり描写がいい。自然の描写なんて、正直たいていのミステリでは流して読むことも多いのだが、心象風景にもなっているのでついつい丹念に活字を追ってしまう。ましてや主人公が半生で出会ってきた人たちの思い出、旅先での出会いは、なにをか言わんやである。とにかくもう読んでいて涙腺が緩みっぱなし。
先にあるのは死のみ。その状況のなかで、主人公の老医師は心の平穏をつかむために自殺を選ぶ。しかし、それが本当に平穏なのか。潔いことなのか。
しかし読者は深く考えなくともよい。自分の心へ静かに染みこんできたものに対し、ただ感じ入ればよいのだ。そして感じ入るだけの力が、この本にはある。人に看取られて死ぬことの意味と尊さが、この年にしてわかった気がする。