昭和の作家をぼちぼちと読み進めているが、本日の読了本は久々に松本清張から。ものは『黒い樹海』。
『ゼロの焦点』に続く六作目の長篇であり、1960年の刊行だが、作品自体は雑誌『婦人倶楽部』で1958〜1960年にかけて連載されたものだ。実はこの時期、清張は本作以外に『蒼い描点』、『小説帝銀事件』、『ゼロの焦点』、『波の塔』あたりを同時に連載させている。恐ろしいことに五冊すべてが重複した時期も三ヶ月ほどあったようだ。
『点と線が』が成功し、作家として大事な時期だったのはわかるが、それにしてもそのエネルギーには恐れ入るばかりである。
それはともかく『黒い樹海』である。
アパートで同居する姉妹、笠原信子とその妹の祥子。信子は新聞記者、祥子は貿易会社に勤務していたが、活発で深夜までバリバリ働き、しかも美人の信子を、祥子はいつも尊敬し、誇らしく感じていた。
あるとき久しぶりにまとまった休暇をとれた信子は、一人で仙台へ旅行に出かけていく。しかし、その数日後、祥子は信子が浜松付近のバス事故で死亡したという連絡を受ける。姉がなぜ浜松に? そんな疑問と悲しみを胸に抱きながら現地へ向かう祥子。
だが、遺品のスーツケースをきっかけに、祥子に新たな疑問が浮かぶ。姉の旅行には連れがいたのではないか、そしてその連れは姉を見捨てて事故から立ち去ったのではないか?
祥子は信子のいた新聞社に転職し、密かに信子の交友関係を調べ始めるが、事件はそれだけでは終わらなかった……。

『蒼い描点』と同じタイプ。サスペンスを主軸にしたトラベルミステリといってよいだろう。
基本的なストーリーラインは、主人公の祥子が姉の交友関係をもとに六人の容疑者を見つけ、社会部の若手記者・吉井とともに犯人を突き止めてゆくというもの。愛する姉の敵を討つという構図は読者の共感を呼ぶだろうし、その過程で上流階級の人間の浅ましさを暴きつつ、サスペンスや旅情を盛り込んでおり、味つけも十分。ミステリとしてはライトだが、先ほど書いたように掲載誌が一般女性誌ということもあるし、その狙い自体は悪くない。
ただ、意外と欠点も多く、最初は快調に読み進めたものの、途中でいろいろ気にかかってしまったのも事実。
本作は主人公・祥子を中心に、ほぼ一本道で物語を進めているのだが、その結果、非常に多くの役割を彼女に託してしまい、ここかしこに無理がきている。
たとえば彼女は特別な才女ではないのに、推理のひらめきは探偵顔負け。その割には不用意に容疑者と二人きりになる思慮の無さも随所に見せる。そうかと思えばアパートの部屋の外に聞こえる足音に怯え、そのくせ危機に何度か直面しても、なぜか警察には頼らない。
聡明な探偵役と浅はかなヒロイン、強い女性とか弱き乙女など、そういった役割をすべて一人に任せているので、彼女のとる行動がどうにもちぐはぐで腑に落ちないのである。
犯人の行動も負けず劣らず説得力に欠ける。最終的には連続殺人に発展する事件なのだが、連続殺人を犯す動機が弱いうえ、そもそも祥子さえ排除すれば、犯人は何の心配もないはず。祥子の調査で浮かび上がる関係者を次々と殺して回る展開は、非常に不思議である。
さらには、ストーリー展開も少々いただけない。六人の容疑者を強く打ち出し、最初はこの六人に対して一人ずつ対峙するような流れもあるのだが、結局、顔見せの段階をすぎるとあっという間に決めうちのような展開になってしまう。せっかくのストーリーの膨らみを著者自ら潰してしまっているようで実にもったいない。
『蒼い描点』もそうだったが、清張はごく普通の女性が困難を克服するという絵を見せたいあまり、他のいろいろな部分を犠牲にしている節はある。だから登場人物や表面的なストーリーだけ見れば、一見リアルに見えるのだが、意外とご都合主義なところも少なくないのだ。トータルでそれを帳消しにするような長所があればよし。なければ本作のようにごく普通のサスペンスドラマにとどまってしまう。
本作は映像化もかなりされているし、旅情ミステリとして初期の代表作にもあげられているようだが、これを代表作といってしまうと、清張の真価は伝わらないのではないか。駄作とまではいわないが、個人的にはちょっと期待はずれの一冊であった。