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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

松本清張『黒い樹海』(講談社文庫)

 昭和の作家をぼちぼちと読み進めているが、本日の読了本は久々に松本清張から。ものは『黒い樹海』。
 『ゼロの焦点』に続く六作目の長篇であり、1960年の刊行だが、作品自体は雑誌『婦人倶楽部』で1958〜1960年にかけて連載されたものだ。実はこの時期、清張は本作以外に『蒼い描点』、『小説帝銀事件』、『ゼロの焦点』、『波の塔』あたりを同時に連載させている。恐ろしいことに五冊すべてが重複した時期も三ヶ月ほどあったようだ。
 『点と線が』が成功し、作家として大事な時期だったのはわかるが、それにしてもそのエネルギーには恐れ入るばかりである。

 それはともかく『黒い樹海』である。
 アパートで同居する姉妹、笠原信子とその妹の祥子。信子は新聞記者、祥子は貿易会社に勤務していたが、活発で深夜までバリバリ働き、しかも美人の信子を、祥子はいつも尊敬し、誇らしく感じていた。
 あるとき久しぶりにまとまった休暇をとれた信子は、一人で仙台へ旅行に出かけていく。しかし、その数日後、祥子は信子が浜松付近のバス事故で死亡したという連絡を受ける。姉がなぜ浜松に? そんな疑問と悲しみを胸に抱きながら現地へ向かう祥子。
 だが、遺品のスーツケースをきっかけに、祥子に新たな疑問が浮かぶ。姉の旅行には連れがいたのではないか、そしてその連れは姉を見捨てて事故から立ち去ったのではないか?
 祥子は信子のいた新聞社に転職し、密かに信子の交友関係を調べ始めるが、事件はそれだけでは終わらなかった……。

 黒い樹海

 『蒼い描点』と同じタイプ。サスペンスを主軸にしたトラベルミステリといってよいだろう。
 基本的なストーリーラインは、主人公の祥子が姉の交友関係をもとに六人の容疑者を見つけ、社会部の若手記者・吉井とともに犯人を突き止めてゆくというもの。愛する姉の敵を討つという構図は読者の共感を呼ぶだろうし、その過程で上流階級の人間の浅ましさを暴きつつ、サスペンスや旅情を盛り込んでおり、味つけも十分。ミステリとしてはライトだが、先ほど書いたように掲載誌が一般女性誌ということもあるし、その狙い自体は悪くない。

 ただ、意外と欠点も多く、最初は快調に読み進めたものの、途中でいろいろ気にかかってしまったのも事実。
 本作は主人公・祥子を中心に、ほぼ一本道で物語を進めているのだが、その結果、非常に多くの役割を彼女に託してしまい、ここかしこに無理がきている。
 たとえば彼女は特別な才女ではないのに、推理のひらめきは探偵顔負け。その割には不用意に容疑者と二人きりになる思慮の無さも随所に見せる。そうかと思えばアパートの部屋の外に聞こえる足音に怯え、そのくせ危機に何度か直面しても、なぜか警察には頼らない。
 聡明な探偵役と浅はかなヒロイン、強い女性とか弱き乙女など、そういった役割をすべて一人に任せているので、彼女のとる行動がどうにもちぐはぐで腑に落ちないのである。

 犯人の行動も負けず劣らず説得力に欠ける。最終的には連続殺人に発展する事件なのだが、連続殺人を犯す動機が弱いうえ、そもそも祥子さえ排除すれば、犯人は何の心配もないはず。祥子の調査で浮かび上がる関係者を次々と殺して回る展開は、非常に不思議である。

 さらには、ストーリー展開も少々いただけない。六人の容疑者を強く打ち出し、最初はこの六人に対して一人ずつ対峙するような流れもあるのだが、結局、顔見せの段階をすぎるとあっという間に決めうちのような展開になってしまう。せっかくのストーリーの膨らみを著者自ら潰してしまっているようで実にもったいない。

 『蒼い描点』もそうだったが、清張はごく普通の女性が困難を克服するという絵を見せたいあまり、他のいろいろな部分を犠牲にしている節はある。だから登場人物や表面的なストーリーだけ見れば、一見リアルに見えるのだが、意外とご都合主義なところも少なくないのだ。トータルでそれを帳消しにするような長所があればよし。なければ本作のようにごく普通のサスペンスドラマにとどまってしまう。
 本作は映像化もかなりされているし、旅情ミステリとして初期の代表作にもあげられているようだが、これを代表作といってしまうと、清張の真価は伝わらないのではないか。駄作とまではいわないが、個人的にはちょっと期待はずれの一冊であった。


松本清張『ゼロの焦点』(新潮文庫)

 松本清張の五作目の長編『ゼロの焦点』を読む。ン十年ぶりの再読となる。
 管理人は言うほど清張作品を読んできたわけではないが、そんな乏しい清張読書歴においても『ゼロの焦点』は別格。ミステリとしては『点と線』に軍配を上げたいが、単に好きな作品であれば、間違いなく『ゼロの焦点』である。
 まあ、管理人がわざわざプッシュしなくても、本作は過去、幾度も映画化やテレビ化された清張の代表作であり、清張自身もお気に入りの作品として知られている。

 さて、ストーリー。
 広告代理店に勤める鵜原憲一と見合い結婚をした板根禎子。憲一は石川県金沢市の北陸出張所に所属していたが、結婚を機に東京本社へ戻ることも決まり、仕事の引き継ぎのため、金沢へと出発した。しかし、予定を過ぎてもなぜか憲一は戻ってこない。
 やがて憲一の勤め先から、彼が北陸で行方不明になったという連絡が入る。彼女は兄夫婦や憲一の勤め先とも相談し、金沢へ向かうことにした。金沢で憲一の後任となった本多とともに、憲一の足取りを追う禎子だったが、やがてこれまで知らなかった夫の過去に直面することになる……。

 ゼロの焦点

 いやあ、上でも書いたとおり久々の再読なのだが、やはり『ゼロの焦点』はいい。
 本作の魅力は著者のメッセージ=テーマがストーリーとしてきっちり昇華されている点にある。主人公の禎子が失踪した夫の足取りを追う過程で、夫の隠された過去を知り、そこから戦後日本の抱える闇、その闇に囚われている人々の悲劇に触れていく。このストーリーラインが見事で、徐々に浮かび上がってくる真実が何とも切ない。
 犯人が分かりやすいとか、推理小説としては雑に済ませているという欠点もあるけれど(これは清張の悪い癖)、それを補って余りある豊かなドラマが素晴らしいのである。
 また、雑とは言ってもそれは本格ミステリの観点からであって、本作のスタイルはいわゆる巻き込まれ型のサスペンスに近く、そこまでケチをつけるのは野暮というもの。むしろ禎子の協力者が次々と死んでゆく展開など、読者をグイグ引っ張っていく力は大したものだ。

 主人公・禎子の設定もなかなか考えられている。
 失踪した夫を探す役どころながら、彼女にはそこまで悲劇のヒロインというイメージがない。ある程度金銭的には恵まれた生活をしているようだし、人妻ながら今なお無垢なイメージ、しかも今回の事件でも悲嘆にくれるというより、あくまで理性的、理知的に対処する様が描かれている。もちろん夫を探すヒロインの不安な心理は克明に描かれてはいるものの、事件に対しては意外なほど客観的に見つめているのが特徴的なのだ。
 これはおそらく本作の真の主人公が禎子ではないからである。
 極端なことを言えば、彼女は被害者の一人というより、ワトソンとホームズを兼ね備えた人物であり、狂言回しなのだ。真の主人公を明らかにし、際立たせるための役目として、禎子は成り立っているのである。ここに清張の巧さがある。

 なお、本作を気に入っている個人的な理由もあって、それは管理人にとってのご当地ミステリであるということ。舞台に出てくる石川県各所や東京の立川市など、ことごとく馴染みのあるところばかりで、”地元あるある”という楽しみができるのである。
 清張がしっかり取材して書いていることがうかがえ、そんなことを確認できたのも再読の収穫と言えるかもしれない。


松本清張『小説帝銀事件』(角川文庫)

 松本清張の『小説帝銀事件』を読む。実際に起こった大量毒殺事件をモデルにした清張の長篇四作目。ただ、小説とは謳っているが、中身はほぼノンフィクションである。

 帝銀事件は日本の犯罪史でも非常に有名な事件の一つだ。
 戦後、日本がまだGHQの占領下にあった昭和二十三年。豊島区の帝国銀行(今の三井住友銀行)椎名町支店に厚生省技官を名乗る一人の男が現れた。近所で赤痢が発生したため、男は行員に予防薬を飲んでもらいたいと偽り、在席していた十六人に青酸化合物を飲ませたのである。結果、十二人が死亡するに至ったが、やがて画家の平沢貞通が容疑者として浮上し、小樽で逮捕された。
 裁判の結果、平沢貞通は死刑を宣告されたが、最終的に法務大臣も死刑執行命令にサインしないまま、平沢は肺炎がもとで刑務所で病死している。

 小説帝銀事件

 この事件が広く知られているのは、多くの犠牲者を出したことはもちろんだが、有罪の決め手となる決定的な証拠がなく、事件には今もなお多くの謎が残されており、冤罪の可能性が高いからである。
 清張はその謎を解明しようとできるかぎり客観的に事実を積み重ね、事件を再構築しようとする。その徹底した姿勢はさすがのひと言。それまでも史実の真相に関心を寄せた作品は多かったが、『点と線』で社会派ミステリとしてそのスタンスを明確にし、さらに本作では小説という衣すらほとんど脱ぎ捨て、あたかもドキュメンタリーを見ているかのように真実を追っていく。

 興味深かったのは、いわゆる冤罪の怖ろしさを語った類のノンフィクションとは少し趣が異なり、本作はあくまで平沢が有罪なのか無罪なのか、その一点にのみ興味が集中していることだ。結果的に冤罪を生み出す構図も炙り出されるけれども、そういう観点よりは、あくまで真実を追究するジャーナリスティックな観点を強く感じた。
 本作は小説というよりほぼノンフィクションであると上で書いたが、つまりそういうことである。いくらでもドラマティックにできる素材ではあるが、清張はあえてそれを抑えた。ノンフィクション的にまとめることで作家として次のステップを上ろうとしていたように感じるのだが、それはちと穿ちすぎか。

 ただ残念ながら、清張も本書で最終的な結論を出すには至っていない。数々の疑問を呈し、平沢は無罪であるとの主張は強く感じられるが明言はしていない。あくまで可能性として他に考えられる真犯人の説を紹介するに止めている。これが惜しい。
 実は清張自身もこのまとめ方には納得していなかったようで、翌年、こちらは正真正銘のノンフィクション『日本の黒い霧』で再び帝銀事件に挑戦し、ひとつの答えを導き出している。ま、こちらもそのうち読まなければなるまい。


松本清張『蒼い描点』(新潮文庫)

 松本清張の『蒼い描点』を読む。
 1958年に刊行された『点と線』、『眼の壁』で大ブレイクした清張は、ここぞとばかりに多数の雑誌で連載を開始するが、『蒼い描点』もそんな時期に発表された一作。

 まずはストーリーから。
 文芸誌の新米編集者、椎原典子は、箱根宮ノ下にやってきた。現地の旅館に滞在している新進作家、村谷阿沙子の原稿を受け取るためであった。
 宿へ向かう途中のこと、典子は何かと評判のよくないライターの田倉義三と出会う。なぜか村谷阿沙子がいることを知っていた田倉に、典子は妙なものを感じるが、その翌朝、田倉と阿沙子らしき二人が会っているところを目撃し、思わず声をかけそびれてしまう。
 やがて、阿沙子から原稿を受け取った典子だったが、帰る直前になんと田倉の転落死という知らせが飛び込んでくる。さらには阿沙子の夫が失踪し、そして阿沙子までもが行方不明となる事件が連発する。
 典子は真相を突き止めるべく、先輩編集者の崎野竜夫とともに調査を開始した。

 蒼い描点

 本書がちょっと面白いのは、『点と線』、『眼の壁』のようないわゆる社会派ではなく、旅情を活かした軽めのサスペンスに仕上げられていることだ。いってみれば二時間ドラマやトラベルミステリーといった趣きである。
 それもそのはず、本書は雑誌「週刊明星」に連載されていた作品なのである。まあ、今の若い人に「週刊明星」といってもピンとこないかも知れないが、これは当時の若者向け総合誌(後には芸能雑誌となる)なのである。
 清張もそういった雑誌購読層を考えて、重めの社会派ではなく、若者に好まれそうなライトな作風にしたのであろうが、清張がこういう作品を残していたことにまず驚いた。

 しかし、さすがは清張である。たんに雰囲気作りのためだけに箱根を舞台にしたトラベルミステリーにしたのではない。やはりこの地でなければならない必然性がちゃんと準備されている。
 また、二時間ドラマというと安っぽいイメージがあるが、清張のそれは一筋縄ではいかない人間模様や背景が用意されているので、なるほど確かに雰囲気は軽いけれども、ミステリとしての手抜きはまったく感じられない。
 昭和の香りが感じられる個所が多々あるけれど(長距離電話や電報、タバコの描写など)、作品そのものは古さを感じさせないのも見事である。

 惜しいのはミステリとしての仕掛けがそれほどでもないことだ。偶然などの要素、簡単に人の秘密をべらべら話す聞き込みの証人たち、真相を最後の遺書に頼ったりするところなど、物足りない面もちらほら。
 まずまず楽しめる作品ではあるけれど、この時期の清張の作品としては、やはり一枚も二枚も落ちるのは否めないところだろう。


松本清張『眼の壁』(新潮文庫)

 松本清張の長篇第二作『眼の壁』を読む。『点と線』同様に、こちらもン十年ぶりの再読である。まずはストーリー。

 電機製品メーカーの会計課長を務める関野は、給与の金策に奔走していた。ところがパクリ屋のグループに騙され、白昼の銀行で三千万円の手形を搾取されてしまう。評判を気にした会社は事件を公にしなかったが、責任を感じた関野は山中で首吊り自殺を図る。
 関野の残した遺書の中に、彼が信頼を置いていた会計課の部下、萩崎宛てのものがあった。それは事件の概要をつぶさに記したもので、萩崎は関野の無念をかみしめる。そして会社が事を公にせず、警察にも捜査を頼まないのであれば、自ら真相を究明しようと決意した。友人の新聞記者、田村の力を借りて調査を開始する萩野。やがて彼の前に闇に蠢く巨大組織の存在が浮かび上がった……。

 眼の壁

 本作が「週刊読売」に連載されていたのは1957年。既に清張は「張込み」「殺意」「顔」「声」といった傑作短編を発表しており、推理作家としても一定の評価は得られていた時期である。そこに満を持して連載を始めたのが『点と線』、そしてこの『眼の壁』であった。
 いまもなお代表作として知られるこの二作を同時進行していたわけだから、清張の充実ぶり、気合いの入れ方が理解できるところだが、そういえばかの横溝正史も戦後すぐに『本陣殺人事件』と『蝶々殺人事件』を平行して書いていたわけだから、ここぞというときの一流作家の創作意欲というかエネルギーは、我々のような凡人には到底真似できないところであろう。
 まあ、それでも清張ですら『点と線』ではかなり煮詰まったらしく、編集者に何も告げず行方をくらましたこともあったらしいが(笑)。

 それはともかく『眼の壁』である。
 本作も今では枠組みとして社会派ミステリとして読まれることが多いのだが、『点と線』同様、まずはミステリとして評価できる作品であり、あまり社会派云々にこだわる必要はないのではないか。組織犯罪を扱うことで、どうしても社会派のイメージは強くなるのだが、この時点ではまだ後の作品ほどにはテーマが消化されていないようにも感じた。

 本作はサスペンスとしての面白さが普通に勝っている。あまり本格の要素は強くないけれども、主人公たちの地道な調査で少しずつ真相が紐解かれる展開は十分に楽しめる。
 なんせ相手が巨大組織ゆえにどうしても素人調査の限界はあるのだが、そこは警察に先を進ませて情報を与えたり、ときには友人の新聞社という組織的バックアップも交えたりして、できるだけ素人捜査にリアリティを持たせようとしているのは清張ならではの巧さだろう。
 逆にリアリティという部分で失敗していると思うのが、萩崎の事件関係者の女性に寄せる恋心。それほど直接的な関わりのない間柄なのに(要は外見だけの一目惚れである)、これを最後まで引っ張っていくのが何とも不可解。恋愛要素を入れるなら入れるでもう少し膨らませないと、萩崎の行動に説得力が生まれない。本作で最も惜しまれる点である。

 本格という衣は着ていないけれど、随所にその片鱗がうかがえるのも本作の見どころである。冒頭の手形詐欺やメインの死体処理のあたりは、今となってはさすがにシンプルだが、ミステリとして十分に折り目正しいのが高ポイント。
 ストーリーに沿ったうえで、決して奇をてらうわけではなく、それでも最後はやっぱり読者に驚いてもらう。著者の中でミステリとして仕上げる意義、ミステリとして成立させる意識は間違いなくあったはずで、社会派とかリアリティというキーワーばかりが目立つが、ミステリとしての胆を忘れなかったからこそ清張はあそこまで成功したのではないだろうか。


 実はン十年前の初読時、けっこう退屈した記憶しかなかったのだが、いやいや人間変わるものですなぁ。


松本清張『点と線』(新潮文庫)

 光文社文庫の『松本清張短編全集』をすべて読み終えたのが昨年の五月。しばらく時間が空いたけれど、そろそろ長篇も手を出すことにした。
 ミステリの読書ブログと謳っておきながら、正直、管理人はこれまで清張の長篇は数作しか読んでいない。理由は明白。若いときから社会派ミステリというジャンルに浪漫を感じられず、ほぼ読まず嫌いで来ただけである。確かに数作は読んだけれど、これまた若いときはそれほど面白みを感じられなかったこともある。
 ところが人間変わるもので、『松本清張短編全集』が文庫化されたのを機に試してみたところ、これがまあ面白いのなんの。結局足かけ三年ほどかけて読み終え、ようやく長篇の順番がきたというわけである。


 で、最初の一冊はもちろん長篇第一作の『点と線』。ン十年ぶりの再読である。
 今さら感はすごいものがあるけれど(笑)、一応ストーリーから。

 機械工具商を営む安田辰郎は、行きつけの料亭「小雪」の仲居2人に見送られ、東京駅の13番線ホームに立っていた。そのとき三人は向かいの15番線ホームに、同じく「小雪」で働くお時が男性と特急列車「あさかぜ」に乗り込むところを目にする。
 それから数日後。お時と男性が福岡県香椎の海岸で死体となって発見される。男性の名は佐山。世間を賑わす汚職事件の関係者であったことから、それを苦にした心中事件に思われた。
 しかし、ベテラン刑事の鳥飼はどこか納得がいかなかった。列車食堂の受取証が気にかかり、一人で捜査を開始する。一方、汚職事件を追っていた東京の刑事、三原は心中事件を追って九州へ向かった……。

 点と線

 若い頃に読んだときはあまり面白みを感じられなかったと書いたばかりだが、これだけは当時も別格。十分に楽しく読めた記憶があり、今回あらためて読んでみて、さらにその意を強くした。
 本作は松本清張の長篇第一作というばかりでなく、社会派ミステリの幕開けを告げる記念すべき作品でもあるわけだが、そんな冠をつけるまでもなく、まずミステリとして十分に面白いのである。

 ポイントはいくつかあろうが、何といってもクロフツばりのアリバイ崩しがあげられるだろう。さすがにメイントリックは今となっては驚きも少ないが、警察の地道な捜査によって少しずつ真相が紐解かれていく様は実にスリリング。しかも読者の少しだけ先をゆく展開が非常に巧みで、ぐいぐい引き込まれてゆく。冒頭の東京駅のホームのシーンが、四分間の空白として、後半に生きてくるプロットもさすがだ。
 完璧に思われた犯罪が、その完璧さによって逆に作為的だと鳥飼刑事が着目するという流れも楽しい。このあたりはコロンボとも共通する部分で、どちらかというと鵜飼は脇役ではあるのだが、キャラクター的には主役の三原刑事を上回る存在感を見せつけるのもなかなか。
 褒めついでにもうひとつ挙げると、動機や犯人像もなかなかよいのだ。動機については社会派ミステリと呼ばれる所以でもあるので今さら述べるまでもないが、犯人像は軽く衝撃を受けるぐらいの仕掛けが施されている。

 そういった数々のポイントがカチッとまとまった本作、つまらないわけがないのである。ちょっとした傷もないわけではないし、ラストはできれば書簡というスタイルにしてほしくなかったと思うのだが、それはこの際、目をつぶる。
 社会派なんて、と食わず嫌いの方にもぜひおすすめしたい傑作。


松本清張『松本清張短編全集11共犯者』(光文社文庫)

 光文社文庫の『松本清張短編全集11共犯者』を読む。これにてようやく「松本清張短編全集」全巻読了である。とりあえずは収録作から。

「共犯者」
「部分」
「小さな旅館」
「鴉」
「万葉翡翠」
「偶数」
「距離の女囚」
「典雅な姉弟」

 松本清張短編全集11共犯者

 本シリーズはもともとカッパ・ノベルスで1963~1965年にかけて刊行された短編選集だ。デビュー作「西郷札」が書かれた1951年から、この企画がスタートした1962年頃、そのおよそ十年間に書かれた清張の全短篇から、著者自身がセレクトしたという恰好になっている。
 だから当時はともかく、現在「松本清張短編全集」というにはあまりに不備なわけだが、この十年にド級の傑作が集中してることもあって清張の短篇の本質を理解するには十分な助けとなるし、読み応えや面白さということだけでいえばまったくノープロブレム。それぐらい濃密な十一冊なのである。

 これまでの感想でも度々、書いてきたのだが、清張の短篇はとにかく情念が凄まじい。素材として社会悪や誤った社会構造に対する告発がベースになることは多いのだが、読者に迫ってくるのは社会悪もさることながら、それらに翻弄される者たちの悲痛な叫びなのである。
 基本は弱者。弱者を苦しめるそういったシステムに疑問を抱きつつ、彼らは逆にそれらを利用し、這い上がろうとする。だが、そこで彼らを待っているのは……といった構成が、短篇では手を変え品を変え繰り返し語られる。ミステリであろうが歴史物であろうが、ぶっちゃけテーマは同じ。この点において清張は一片のブレもないのである。
 そしてその根底に流れているものが、清張自身が抱えていたコンプレックスや苦難にあることも、よく言われていることである。これに触れずして清張を体験したとは言えないだろう。それを感じるための十一冊といってもいい。

 ただ、さすがに後年の作品ともなると、ものによっては技巧が先に立つこともあるわけで、本書の収録作にもその傾向は感じられる。
 例えば巻頭の「共犯者」などは、今や家具店の社長として成り上がった主人公が、実は過去に犯した犯罪の影に悩まされるという話。その犯罪にはただ一人の共犯者がおり、その男が商売に失敗すればやがて自分を脅迫しにくるのではないかという疑惑に苛まれる。よし、ならばそうなる前に何か手を打って……しかし、これが墓穴への第一歩となるのである。この主人公の落ちていく描写が正に清張の独壇場であり読みどころなのだが、ラストでオチをきれいにつけすぎるのが初期作品と大きく異なるところか。
 本書には他にも、いかにもミステリ的にオチを決める作品が多く収められている。巧いことは別段かまわないのだが、そちらの面の印象が強くなって、清張の本来もつ魅力がやや薄められる嫌いはなきにしもあらず。さすがの清張もこの頃には心境の変化があったのかと推察する次第である。

 とにかく、そんな気になる部分も含め、本シリーズは松本清張の魅力を知るに最適のアイテムである。一気に読むのはそれなりに堪えるのだけれど(苦笑)、古くさい社会派なんて、などと食わず嫌いせず、ぜひ一度お試しあれ。


松本清張『松本清張短編全集10空白の意匠』(光文社文庫)

 『松本清張短編全集10空白の意匠』を読む。昭和三十四年から三十六年にかけて書かれたものが中心である。まずは収録作。

「空白の意匠」
「潜在光景」
「剥製」
「駅路」
「厭戦」
「支払い過ぎた縁談」
「愛と空白の共謀」
「老春」

 松本清張短編全集10空白の意匠

 珍しいことに歴史物や社会派は少なめ。強いていえば恋愛や老いをテーマにしたものが多く、ある意味ではいつも以上に松本清張の情念が爆発しているように感じられた。以下、印象に残った作品の感想など。

 表題作でもある「空白の意匠」は地方新聞広告部長の末路を描いた、いわば企業小説。様々な軋轢のなかで苦しみもがく主人公の姿は、洒落にならないぐらいの真実味をもって迫り、権力構造や中間管理職の悲哀云々という紋切り型の表現では、なかなかこの息苦しさは伝えられない。

 続く「潜在光景」は、平凡なサラリーマンの不倫話。もちろんただの痴情のもつれといった程度で終わるはずもなく、不倫相手の子供が自分に懐かない苛立ちが徐々にクローズアップされ……だが実は、という一席。捻りも語りも一級、本書のイチ押し。

 「剥製」は人生の終焉をテーマにした作品。ぶっちゃけそれほど成功しているとは思えないアンバランスな構成だが、清張流の奇妙な味とでもいおうか。

 以上、「空白の意匠」「潜在光景」「剥製」の三作を読めるだけで十分元は取れるのだが、ちょっと面白いところでは「支払い過ぎた縁談」も挙げておきたい。著者自らO・ヘンリイを意識したという作品だが、確かに清張には珍しく、オチで読ませる。ただ、文章はいつもの清張独特のねちっこい語りなので、いうほどの爽快感はない(苦笑)。


松本清張『松本清張短編全集09誤差』(光文社文庫)

 『ぴあ』の最終号を買ってきた。管理人のようなおっさん世代が若い頃には、もうなくてはならぬ情報誌だったのだが、ご多分に漏れずインターネットに押されて部数を落とし、とうとうこの度休刊とあいなった。ひとつの時代の象徴であり、そして使命を終えたということになるのだろう。
 映画、コンサート、演劇、スポーツ。『ぴあ』なくして当時のイベント毎や遊びは成り立たなかったのではないか、個人的にはそれぐらい依存していた。主な目的は名画座と芝居の上映情報。就職で上京してきた人間にとって、東京のそういう文化は地方では決して体験できないものであった。もちろんゼロではないが、その量が圧倒的に違う。『ぴあ』片手に劇場のはしごをしたことも懐かしい思い出である。当時は一日に映画三本とかまったく苦にならなかったんだな。今ではとてもそんな体力ないけど(苦笑)。
 思えば『ぴあ』は、今のインターネットでのポータルサイトの役目をしっかり果たしていたのだ。記事としての情報だけでなく、ページの隅っこには「チケット譲ります」みたいなコーナーもあったりして、メディアは変われど根っこは同じなんだな。
 ちなみにこの最終号には「創刊号復刻版」が付録でついていて、これがまた郷愁を誘う。

 しかし、こうして感慨に耽っている度合いで年齢がわかるな。いろんな方がネット上で『ぴあ』休刊の記事を書いているが、やはり世代の違いがもろ温度差となって表れているのがいとおかし。



 読了本は光文社文庫の『松本清張短編全集09誤差』。
 相変わらずのアベレージの高さが驚異的な、松本清張短編全集の第九巻目。本書では昭和三十二年から三十五年にかけての作品が七編収録されている。

「装飾評伝」
「氷雨」
「誤差」
「紙の牙」
「発作」
「真贋の森」
「千利休」

 松本清張短編全集09誤差

 もう何度も書いてきたことだが、清張の短篇でよく描かれるのは、社会悪の告発であり、それに翻弄される人間の運命である。ただ、それだけに留まらず、それらの物語を通じて渦中にある市井の人々の情念をねっとり炙り出していくところが凄い。
 とはいえ清張も本書に収録された作品を書いている頃は、齢五十に届こうかというあたり。そろそろ丸くなるかと思いきや、いやあ清張自身が抱えていた「何か」は一向に治まる気配がないのが素晴らしい(苦笑)。

 それでも頭の「装飾評伝」「氷雨」「誤差」あたりは意外にも抑えた筆致で、もちろん清張作品だから決してハッピーな物語やラストでないとはいえ、「氷雨」などは珍しく小粋な感じすら漂い、作風が変わったのかと錯覚したほどだ。
 しかし「紙の牙」「発作」に至っては、いつもどおりの清張節が本領発揮。悪い選択肢ばかりを選び、一歩ずつ転落の道を歩んでゆくしがないサラリーマンや小役人の姿が執拗に描かれる。言ってみれば読者の予想どおりに主人公が転落してゆく「紙の牙」、反対に読者の意表をつく形で主人公の破滅を描く「発作」と、対比したパターンなのも面白い。
 「真贋の森」は中編並のボリューム。清張がときおり扱う美術テーマの作品だが、アカデミズムの虚飾や犯罪の動機といったキモはもちろん外していない。むしろ長いだけあって掘り下げはいつも以上。「おれ」という一人称も効いている。
 歴史物は珍しく「千利休」の一編のみ。利休と秀吉の確執を描いたものだが、こちらはちょっとボリューム不足か、物足りなさが目立つ。

 結論。今回も全体としては十分楽しめる作品集であった。これといった強烈な作品はないけれど、強いて言えば「発作」のイヤーな感じは味わっておいて損はないかも(笑)。


松本清張『松本清張短編全集08遠くからの声』(光文社文庫)

 久々に光文社文庫の「松本清張短編全集」から一冊、第8巻の『遠くからの声』を読む。まずは収録作から。

「遠くからの声」
「カルネアデスの舟板」
「左の腕」
「いびき」
「一年半待て」
「写楽」
「秀頼走路」
「恐喝者」

 松本清張短編全集08遠くからの声

 昨年の二月頃「松本清張短編全集」に手をつけ、もう一年半以上にわたってちんたらと読み進めているわけだが、とにかく驚くべきはそのアベレージの高さだ。構成的にバランスの悪いものもないではないが、いわゆる駄作というものがほとんどない。第8巻の本書では、主に昭和29~33年にかけて書かれた短編を収録しており、デビューから八年ほど経った計算だが、これだけ安定したレベルで書き続けているというのは驚異としかいいようがない。
 しかも、その間、テーマがぶれることがないのも素晴らしい。社会派ミステリから歴史物、心理小説的なものまで、清張の書く物は一見すると幅広い。だが表面的には多彩でも、その根底に流れているものは常に一貫している。それは社会の矛盾や闇によって翻弄される人の運命であり、滲み出る情念である。

 本書でも時代やジャンルはバラバラながら、追い求めるところはそこに尽きる。出来映えも申し分なく、粒揃いの作品集といえるだろうが、しいて優劣をつけるなら、まずは「カルネアデスの舟板」を推したい。学問の世界に生きる者ならではの屈折した心理が妙味。
 「一年半待て」は一事不再理がテーマながら、その根底にあるのは、やはり女性の心の奥底にある闇である。その闇の淵から社会制度を冷ややかに見返すような皮肉さも効いている。
 時代物もいい。「左の腕」は珍しく爽快感抜群の一篇。逆に「写楽」はあまりに切ない物語。
 ちょっとアレ?だったのが、表題作の「遠くからの声」。姉妹と、姉の夫による三角関係を想起させる辺りまではじわじわくるが、ラストで夫の視点に転ぶのがちょっと? 傑作の誉れ高い作品だが、個人的にはピンとこなかった。

 総じて爆発力みたいなものには少し欠けるが、まずは十分な面白さである。7巻の『鬼畜』があまりに凄すぎたので少し心配だったのだが、それもまったくの杞憂。読んで期待を裏切られることはないだろう。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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