クロフツの長篇で唯一、未訳だった『フレンチ警部と毒蛇の謎』が出たので、さっそく読んでみた。
ジョージ・サリッジは動物園の園長を務める男。仕事には満足しているものの、身分違いの結婚をしてしまったせいか、妻とは折り合いが悪い。しかも妻の浪費と自分のギャンブル癖も相まって、年中金欠に悩んでいた。そんな彼がこともあろうに愛人を作ってしまい、ますます金が必要になったところへ飛び込んできたのが、伯母の遺産相続。
これで万事解決かと思いきや、ある理由から遺産がまったく手に入らなくなってしまう。落ち込む彼の前に、差し出されたある儲け話。良心に悩みながらも、ついにジョージは……。

OK。まずは普通に楽しめる。
何年か前、これもクロフツの長篇としては久々の翻訳となった『フレンチ警部と漂う死体』があったが、本作もこのときと同様、まったく質的には問題ない。ケレン味には乏しいし、さすがに傑作とかいうほどのレベルではないけれど、クロフツの良さは十分出ているだろう。
これまで訳されなかった本当の理由は知らないが、少なくとも内容が日本人向きではないとか、作品の出来が悪いからといったわけではなさそうだ。
クロフツのミステリと言えばまず思い浮かべるのが、アリバイ崩しなどに代表されるような、地味な内容。それは裏返せば天才的なトリックや破天荒な物語とは無縁なリアリティのある物語である。捜査もいわば足を使った地道な警察捜査が主流で、どちらかといえば退屈な物語といった印象を持たれている方も多いと思う。
ま、確かに地味な作風ではあるが、描写の確かさがあるので退屈ということはまったくない。とりわけクロフツはお得意の倒叙スタイルを効果的に使うことで、犯罪者の心理や犯行の妙などを非常にうまく描いている。
例えば本作では、動物園の園長ジョージ・サリッジを主人公として犯行の様子が語られるが、実はジョージは実行犯ではない。直接犯罪に手を下す主犯は別にいて、彼はあくまで共犯である。したがって通常の倒叙ものの面白みをキープしつつ、ハウダニットの興味も加え(残念ながらそのトリックはそれほど面白いものではないけれど)、その結果ジョージを中心としたサスペンスも盛り上がるという趣向。何よりジョージの犯罪に手を染める過程が丁寧に描かれていて、それだけで十分面白いのだ。
クロフツもここが胆と心得ているから、本作ではジョージのパートが大部分を占めている。そのためフレンチ警部のパートが短い(つまり捜査パートが少ない)のはやや物足りないが、フレンチが捜査に乗り出すきっかけが、「本来、現場にあるべきはずのものがない」という理由であったり(この辺、ちょいとコロンボっぽい)、要所はしっかり効いているのであまり気にするほどでもないだろう。むしろフレンチが乗り出した後が意外と盛り上がらず、その方がマイナス点か。
実は本作でもっとも気になるのは主人公の行方であろう。
確かに責めを負うべきジョージではあるが、その人柄や境遇からか、憎めない人物なのである。その足の踏み外し方も、何となく日本の中間管理職っぽいイメージもあり、読んでいる途中では、悲劇的なラストが待っているかと思うとある種の悲哀を感じないではない。
ところが、ここでクロフツがつける落とし前。いや、さすがである。単に後味がいいというだけでは収まらない、クロフツの思想や人生観が表れているラストだ。
本書は地味な作品ではあるのだが、同時に滋味に富んだ作品でもあるのだ。