アン・ホッキングの『看護婦への墓碑銘』を読む。
著者は英国の本格ミステリ作家。日本では無名の存在だが、本国では1930~1960年代にかけて四十作あまりの作品を発表しているから、それなりの人気と力はあったのだろう。初期にはサスペンスや非ミステリが中心だったが、1939年以降はウィリアム・オーステン警部を探偵役とするシリーズものに移行した。本作もオーステン警部ものの一作で、1958年に発表されている。
セント・ヒラリー病院は決して大きい病院ではないけれど、町の発達に合わせ、それなりに規模を拡大してきた。入院施設も立派なもので、これまでも様々な人たちが入院しては健康を取り戻し、そして退院していった。
だが、中にはついていない者もいる。健康は取り戻せたが、主任看護婦ジェシカ・ビッグズに個人の秘密を握られ、それをネタに恐喝された者たちだ。ジェシカにはある理由から莫大な結婚資金が必要だった。一人、そしてまた一人。ジェシカは入院患者を次々と強請ってゆく。だが、恨みを買いすぎたジェシカに、とうとう最期の時がやってきた……。

渋いな、っていうかほんと地味。英国本格ミステリといえば、昔から「渋い」とか「地味」という表現が代名詞のようになっているけれど、こういう作品ばかりならそりゃ言われても仕方ない。同じ英国でもクリスティがなぜあれだけ世界中で売れたかわかる。本書などに比べたらはるかにケレン味だらけで見栄えがいい。
でも、だからといって本作がつまらないというわけではない。確かに事件自体は地味で、派手なトリックもない。探偵役のオーステン警部だって印象が薄い。けれども十分読者を引っ張っていく筆力と構成力がある。
本作は大きく二つのパートに分けられる。看護師のジェシカが強請を働く前半と、ジェシカが殺されて警察が捜査する後半である。この前半が巧い。
最初はジェシカに強請られる被害者たちの物語という風に受け取ることができる。と同時に、ジェシカがなぜ強請屋に転落していくのかという犯罪者の物語でもある。ところがさらに裏を返せば、これはジェシカ殺害事件の容疑者たちの物語でもあるわけで、この二重三重の構造を理解しているといっそう楽しめる。特別な語り手を設けず、かといってジェシカを中心に語ることもせず、作者は人間ドラマを読ませるふりをしながら、ちょこちょこ仕掛けてくる。いやいや、これで後半のサプライズをより追求してくれれば十分傑作になったろうになと思う。
必読とは言えないが、英国の本格ミステリが好きな人は読んで損はない。もう少し他のオーステン警部ものも読んでみたいけれど、セールス的には難しいかな、やっぱり。