読書力が低下しているため、本日は児童書でお茶を濁す。ものはメアリー・ノートンの『床下の小人たち』。
岩波少年文庫の一冊で英国ファンタジーの定番ともいえる作品だが、これがこの夏、ジブリで映画化されるというわけで(映画のタイトルは『借りぐらしのアリエッティ』)、ちょっと手を出してみた。
小人のアリエッティはお父さんのポッド、お母さんのホミリーとの三人暮らし。彼らは人間たちに見つからないよう、床下などに隠れ、人間の食べ物や道具をこっそり“借りて”暮らしを立てている。すなわち「借りぐらしや」。ところがそんなある日、アリエッティはその家の男の子に姿を見られてしまい……というお話。

ううむ、さすがジブリ。いい作品に目をつけたものだ。よくできたファンタジーがたいていそうであるように、本書もまた世界観がしっかりしている。
例えば小人たちは、小さな人間や妖精などではなく、あくまで「借りぐらしや」だ。だから人間はネズミや猫と同様にまったく別種の生き物。極端にいうと人間は「借りぐらしや」のためにある存在だと彼らは考えている。アリエッティは言う。
「そう、パンがバターのためにあるように」
このセリフ自体が、実に逆説に満ちているではないか。
「借りぐらしや」と人間は、大きさこそ違え、容姿は非常に似ている存在。だが、だからといってお互いを理解しているわけではなく、あくまで自分たち中心にしか物を見ようとはしない。そこに対立が生まれ、悲劇が起こる。結果として力に劣る「借りぐらしや」は、この物語以降、安住の地を求めて世界を彷徨うことになるのだ。
そこに民族や宗教、政治上の対立を読み取るのは決して難しいことではない。
対立の構造は、アリエッティと人間の男の子にも見られる。床下にずっと暮らしているアリエッティは自由を求め、病気で親戚の家に預けられている男の子は家族を求めている。この極めて人間らしい欲求が、今まで交わりを持つことなどなかった二つの種族の間に、友好的な関係を築きあげる。
もちろんそれは児童書にふさわしく、少年少女の成長物語として受け止めてもいいだろう。だがこの関係があくまで束の間の蜜月に過ぎないことを、作者は残酷にも知らしめてくれる。そう、これもまた極めて政治的な意図を含んでいるのだ。
こんなふうに書いていると、この物語がひどく辛い話に思えるかもしれない。だがそれは違う。そう思われたならそれはあくまでsugataの責任であって、著者はこの重いテーマを、非常に軽やかに、そしてユーモラスに描いている。また、「借りぐらしや」の世界を丁寧に丁寧に描写することで、読む者を惹きつけ、飽きさせない。
上で述べたことなど気にせず、単なる冒険ファンタジーとして読むのもそれはそれでOKだろう。
淡い余韻の残るラストも実によい。オススメの一冊。