久々に春陽文庫の<探偵CLUB>から一冊読んでみた。ものは佐左木俊郎の『恐怖城』。個人的にはこれが「探偵CLUB」最後の読み残しだったので、ちょっと感慨深いものがある。
ところで<探偵CLUB>って何?という人も今ではけっこういると思われるので、一応補足しておく。これは春陽堂書店がかつて刊行していた戦前の探偵小説を文庫化したシリーズ。全18巻で、乱歩や正史といったビッグネームはもちろんだが、大下宇陀児や甲賀三郎、木々高太郎、角田喜久雄といったセカンドグループ、果ては松本泰や森下雨村、水谷準といった今でもおいそれとは読めないようなマイナー作家までとりそろえた、非常にレア感満載のシリーズだったのだ(
ちなみに詳しいラインナップはこちら)。
スタートしたのはおよそ15年ほど前。ちょっと紛らわしいけれど、その二、三年ほど前には国書刊行会がほぼ同名の「探偵クラブ」というシリーズを立ち上げており、これまたレアな探偵作家の傑作選を発表していた。というわけで、春陽文庫のそれはやや二番煎じ的な印象もあったけれど(笑)、最終的には乱歩の代作物や正史の翻案物といった相当な珍味も収録され、インパクトは十分なものがあった。
で、そのレアな面子の中でもひときわ異色なのが、この佐左木俊郎である。
まずは収録作を。表題作の『恐怖城』のみ長篇、他五作品はすべて短編である。
『恐怖城』
「街頭の偽映鏡」
「錯覚の拷問室」
「猟奇の街」
「或る嬰児殺しの動機」
「仮装観桜会」

ぶっちゃけ佐左木俊郎という名前は、この本に出会うまで聞いたこともなかった。元々は農民文学の書き手で、その分野ではけっこう知られた作家だったらしい。解説によると、昭和八年に三十二歳という若さで亡くなったらしく、実質的な活躍時期は大正後期から昭和にかけてのおよそ十年ほどと非常に短い。
しかも昭和四年頃からは、農民文学から探偵小説へ路線変更しているわけで、実際に探偵小説に接している時期は相当短かった。日本の探偵小説界そのものが黎明期だったことも考慮すると、佐左木俊郎がどの程度まで探偵小説を理解していたかは判断に悩むところだ。
というのも、本書に収められた作品は、実際、探偵小説というには非常に無理のあるものばかりなのだ。
農民文学というと、主に農民の視線に立って生活や習俗、自然を描きつつ、人間性を追求したり、あるいは農業従事者をとりまく構造を掘り下げる文学、といった認識でよいだろう。佐左木俊郎の場合はなかでも小作農民と地主の社会的関係に注力しており、要はプロレタリア文学というイメージがより強いのでる。
本書でもほとんどの作品が、農民と地主、もしくは労働者と資本家の対立をテーマとしており、探偵小説味は極めて薄く、犯罪小説というのも憚られるくらいである。一応、殺人や犯罪は描かれてはいるものの、著者の目は謎の解明より専らその動機や問題提議に向けられている。終始、その語り口は重く、カタルシスも少ない。そりゃそうだ。そもそもエンターテインメントではないのだから。
では何故ゆえ、わざわざ探偵小説に着手したのか。解説では借金返済のため、人気のあるジャンルに手を染めた旨が紹介されているが、より好意的に見れば、当時、流行の兆しを見せていた探偵小説の衣を借りて、より幅広く啓蒙する機会を伺っていたとも考えられる。
ただ、探偵小説を書いたことは決して当時の純文学サイドからは好意的に思われていなかったようだ。とはいえ探偵小説として見た場合もベクトルが異なるのは明らかで、となるとこの人が探偵小説を書く意味はどこにあったのか、という悲しい疑問だけが残る。
そういうわけで、普通の探偵小説を期待して読むと、本書に関しては大いに裏切られる。
とりわけ長篇『恐怖城』は辛かった。登場人物の行動原理があまりにシンプルで、いちいち言動に納得できないことが多いのが難点。特にヒロインは二昔昔ほど前の連続ドラマの主人公を見ているかのようで最悪である。
それに比べると、短篇の方はいくつか読ませるものがある。珍しくどんでん返しを重ねたミステリ的趣向が強い「錯覚の拷問室」。読み進むうちに混沌の度合いが増してゆくシュールさが魅力の「猟奇の街」。花見会場のもと、同じ仮装をしたたくさんの労働者に締め殺される資本家、というビジュアルイメージが鮮烈な「仮装観桜会」あたりはまずまず。
総じて古臭さは否めないけれども、とにかく当時の探偵小説なら何でも読んでおきたい、という人にはおすすめ>ってこれじゃ勧めてないって(笑)。