レオ・ペルッツの『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』を読む。
数々の幻想的な歴史小説を残し、今ではカルト的な人気を誇るペルッツだが、本作は幻想要素一切なしの冒険小説的な一冊。
まずはストーリー。
時は第一次世界大戦も終盤に近い頃。オーストリアの陸軍少尉ヴィトーリンはロシアの捕虜収容所から仲間とともに解放された。しかし、収容所の司令官セリュコフから収監中に受けた屈辱を忘れることができず、ヴィトーリンは仲間と復讐計画を企て、ロシアへ舞い戻ることを決意する。
しかし、日常に舞い戻った仲間たちは今更ロシアへ戻ることなど考えるはずもなく、ヴィトーリンは一人でロシアを目指す。だが、ロシアも革命後の混乱した時期であり、ヴィトーリンは仇敵を求めて果てしない旅を続けることになってしまう……。

かのイアン・フレミングが「天才的」と大絶賛したという作品だが、確かに普通の冒険小説とは違った面白さに満ちている。幻想要素一切なしとは書いたが、コロコロと変わる当時の政情、それに振り回される主人公の運命……とにかくこの先がどうなるかわからない冒険譚はワクワクもするが、同時に奇妙な味にも包まれていて独特の味わいがある。
切実に伝わってくるのは、やはり国家と個人の関係の脆さだろう。当時のロシアをはじめとしたヨーロッパでは国家の在り方ばかりでなく政治思想なども含めて急激な変化がある。まさに明日はどうなるかわからない状況。
タイトルの「どこに転がっていくの、林檎ちゃん」は、主人公の数奇な運命を指していると同時に、そういう危うい国家の情勢をも示している。個人の意思や信条などはほとんど意味をなすことなく、一般人はもとより軍人、テロリストに至るまでが運命に翻弄される過酷な現実を教えてくれる。
そんな状況において、主人公ヴィトーリンのドンキホーテ的生き方は異常である。ヴィトーリンこそがそういった政情にもっとも振り回されているはずなのだが、どんな苦難に直面しようとも、彼の復讐の念はまったくぶれることがない。
それは決して賞賛されるようなことではない。復讐したい気持ちはわかるし、同情する気持ちも起きるが、その異様な熱量の高さが、読む者にかえって薄ら寒さを感じさせるのだ。
ヴィトーリンの周囲の人間も、それは同様である。収容所から解放された直後こそ仲間も復讐を口にするが、いったん取り戻した平和を捨ててまで、誰も戦場へと戻りたくはない。前線で活動する者たちですら、個人で行動を起こすヴィトーリンが理解できないでいる。挙句、彼に関わったがために不幸に陥ってしまう人々。ヴィトーリンは果たしてどこまで転がっていくのか。
ヴィトーリンをそうさせた大きな要因が、結局、時の国家や政情にあると考えるのも、あながち間違いではないだろう。そういう意味では収容所の司令官はスケープゴートであり、たまたまヴィトーリンの身近にいた生け贄なのだ。だからヴィトーリンが最後に得るものは無常感でしかなく、個人と国家の関係が変わらなければ、ヴィトーリンに真の安らぎは戻ってこない。
そう考えると決してヴィトーリンの物語は単なる歴史物語ではなく、現代に生きる我々にとっても人ごとではないのである。静かなラストがむしろ怖い。