短編集『犯罪』で鮮烈なデビューを果たしたフェルディナント・フォン・シーラッハ。簡潔で研ぎ澄まされた文体、そして犯罪をまったく別のアングルから見ることで真実を追究し、独特の人間ドラマを見せてくれるのが魅力である。
ただ、最近の『禁忌』あたりになると、個人的には少々あざとさが気になっているのも事実。では最新作の『テロ』はどうよ?というのが本日のテーマである。
まずはストーリー。
ドイツ上空で発生したハイジャック事件。テロリストがサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、七万人の観客を殺害しようとしたとき、発進した空軍少佐の操る戦闘機が独断で旅客機を撃墜する。スタジアムの観客は救われたが、旅客機の乗客164人の命は犠牲になったのだ。
この空軍少佐の行った行為は果たして正義なのか、それとも罪なのか。結論は一般人が審議に参加する参審裁判所に委ねられたが……。

非常にシンプルで奥深いテーマ。
これは実に倫理的に難しい問題である。被害の大きさを考えたとき、客観的に見れば少佐の行為は賞賛にも値するように思える。いやまあ賞賛はないにしても、ほぼ常識的な判断として甚大な被害が結果として見えているなら、より小さな被害を選択することを責めるのは酷ではないかという気持ちはわかる。
だが、そこに落とし穴がある。
まず、命の重みは同等としても、それを積み重ねて単に数量で判断してよいのかという是非が問われる。
さらには、それが緊急判断だったとしても、個人の判断で人の命を奪ってしまってもよいのかという疑問がある。
この二つの問題は異なるようで実は根本的には共通であり、要は命の重さや量を合理的に解釈してもよいのかということに他ならない。
命を数量として見ることの危惧は計り知れないわけで、この見方が正当化されるなら、例えば戦争を終わらす手段として原爆が許されるということにもつながりかねない。また、どのような事情があっても私的判断で命を奪う行為は結局テロと変わらないのではないかという懸念。
被害の大きさ=罪の大きさとするならば、それこそ極端な話、裁判所はいらない。そこに様々な事情があるからこそ、それらを加味して判断する裁判という制度があるわけである。すべてを合理的に処理することの恐怖、ましてや個人で判断することの危険を決して見過ごしてはいけないと思う。
この議論は簡単に答えが出るようなものではないが、そういうわけで、管理人としてはひとまず”有罪”を選択しておきたい。
さて、本作は問題提議の書としては傑作に値するのだが、実は小説としては少々、問題がある。
というのも、実は本作では裁判の結果が、「有罪」「無罪」両方のパターンを収録しているからである。小説である以上は作者のメッセージとして、「有罪」なのか「無罪」なのか、きっちり主張してほしかったところであり、そういう結末を取りたかったのなら、本作はエッセイやノンフィクションという形でもよかったはず。
十分な実力のある人なのだから、こういう演出過多の部分はもう少し抑えたほうが、より迫るものがあると思うのだが。惜しい。