渡辺温の『アンドロギュノスの裔』を読む。
著者は探偵作家の渡辺啓助の実弟。学生時代に映画の筋(小説やシナリオではなく、あくまで筋だったらしい)を募集する懸賞があり、それに見事入選。映画だけでなくさまざまな芸術活動を続けるうち、時の『新青年』編集長、横溝正史に誘われて博文館に入社。創作を続けながら編集を務めていたが、谷崎潤一郎への原稿依頼の帰り、乗っていたタクシーが貨物列車と衝突してその生涯を閉じる。1930年2月のことであった。享年わずか二十七歳。

渡辺温の著書は薔薇十字社の『アンドロギュノスの裔』と博文館新社の『渡辺温-嘘吐きの彗星』の二冊がすべてである。ただし、いわゆる決定版の『アンドロギュノスの裔』はなんせ古書でしか入手できないうえ、しかもお高い。そうそう気軽に読める状況ではなかったわけだ。だから、そんなところへ東京創元社から出るという話を聞いても、書店で実物を見るまでは信じることができなかった。なんせこれまでもそういう噂は出ていたのだが、創元はけっこう出す出す詐欺の前科があるし(笑)。
で、この夏ようやくそれが現実のものとなった。
待ちに待った一冊というのは、こういうのを言うのだろう。創元推理文庫版『アンドロギュノスの裔』は期待に違わぬ素晴らしい短編集、いや、全集であった。小説はもちろん脚本や翻訳、随筆にいたるまでを執筆年代順にほぼ網羅。正に温の軌跡を辿った完璧な一冊である。
その作風をひと言でいうと、実にモダニズムにあふれ叙情的であるということ。ときにはロマンティックに、ときにはメランコリックに。温の備えている資質というかセンスというか、それが作品世界に満ちあふれている。
探偵小説的なアイデア自体は他愛ない。もともとトリッキーな作家ではないし、それは問題ではない。特筆すべきはそのアイデアが物語世界ときれいにマッチングしていて、おそろしく無駄のない物語に昇華されているということ。作品が短いものばかりなだけに、その印象はより鮮烈である。一作読む度にしばし余韻に浸ることも度々で、まるで上等のシングルモルトを飲んでいるかのような感じ。続けて読むとほどよい酔いがまわるところもそっくりだ。
「アンドロギュノスの裔」や「可哀相な姉」があまりに有名なのでそれだけの作家だと思われがちだが、その他の作品も素晴らしい。探偵小説好きだけでなく、もっともっと幅広く読まれてもいい作家である。
最後に収録作品を記す(随筆は省略)。
■小説
「影 Ein Märchen」
「少女」
「象牙の牌」
「嘘」
「赤い煙突」
「父を失う話」
「恋」
「可哀相な姉」
「イワンとイワンの兄」
「シルクハット」
「風船美人」
「勝敗」
「ああ華族様だよと私は嘘を吐くのであった」
「遺書(かきおき)に就て」
「アンドロギュノスの裔(ちすじ)」
「花嫁の訂正 夫婦哲学」
「或る母の話」
「男爵令嬢ストリートガール」
「浪漫趣味者(ロマンテイスト)として」
「巷説「街の天使」」
「悲しきピストル」
「指環」
「モダン夫婦抄」
「モダン夫婦抄 赤いレイン・コートの巻」
「四月馬鹿(エプリル・フール)」
「夏の夜語」
■掌篇
「春ノ夜ノ海辺」
「夕の馬車」
「小さな聖人達に与う」
「淋しく生きて」
「若き兵士」
「森のニムラ」
「足 素人製作者のための短篇喜劇」
「兵隊の死」
「子供を泣かしたお巡りさん」
■脚本
「氷れる花嫁 他三篇」
「どぶ鼠」
「山」
「縛られた夫」
■翻訳・翻案
「新薬加速素」
「絵姿」
「外科医の傑作」
「王様の耳は馬の耳」
「島の娘」
「矮人の指輪※」
■映画関係の随筆ほか