体調一向に回復せず、本日も休みをとる。ひきつづき家でごろごろしながら『刑事コロンボ/もう一つの鍵』。コロンボがひとつずつ状況証拠を固めていく件や、最終的に犯人と対決する部分は安定しており悪くはないのだが、犯人側に問題あり。犯行が雑だし、犯行後に慢心してゆく過程など、コロンボの相手としてはまだまだ物足りない。第一期の中ではもっとも落ちるかな。
読了本はもういっちょケストナーで『エーミールと探偵たち』。これまた名作中の名作。
ノイシュタットに美容師の母親と住むエーミールは、わんぱくだけれど勉強もできるうえに母親思いの少年。ベルリンに住むおばあさんの家へ遊びに行くことになったが、なんと列車の中でお金を盗まれてしまう。犯人の目星はついたが、いまや無一文で頼る者もいないエーミール。そんな彼をたまたま知りあったベルリンの少年たちが手助けすることになる。エーミールたちの活躍がここに始まった。
『エーミールと探偵たち』は『飛ぶ教室』ほど自伝的要素はないけれども、根っこの部分は共通。正義や友情、家族の愛などはケストナーが一番伝えたいところなのだろう。ただし『飛ぶ教室』よりは対象年齢層が低く設定されているせいか、説教臭さはあまり感じられず、とにかく楽しさを前面に押し出しているのがいい。
また、キャラクターの造形は相変わらず見事で、エーミールはもちろん教授君といった仲間の少年探偵が秀逸。ミステリーというほどではないが、最後の犯行の決め手となる証拠も鮮やか。大人がいま読んでも楽しめる傑作だ。
ここのところちょっと忙しない日が続いて読書が進まず。土日は少し固め読みでも、と思っていたが体調気分ともにすぐれず、なんだかダメダメな週末を過ごす。自分を元気づける意味で読んだのが、エーリヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』である。『飛ぶ教室』といえば児童文学の傑作として名高いが、恥ずかしながら『飛ぶ教室』どころかケストナーも初体験である。
物語はクリスマスを目前にした、ドイツのある寄宿舎付き高等学校(日本でいえば小学校高学年~高校までを合わせたようなイメージか)で幕を開ける。秀才で正義感の強いマルチン、芸術家肌のヨーニー、腕っ節の強いマチアス、臆病者のウリー、変人のセバスチアンという5人組は性格も容姿もバラバラなれど、厚い友情で結ばれていた。そんな彼らの目下のテーマは目前に控えた芝居の稽古と、クリスマスの帰省だった。そんなある日、同級生の一人がライバル校の連中に拉致されたとの情報が、同級生によってもたらされる。五人組はすぐに人質奪還の作戦を開始する……。
「おとなというものは、どうしてこうも、けろりと、自分の子どものころをわすれて、子どもだって、ときにはずいぶんかなしく、不幸なことだってあるのだということを、まるでわからなくなってしまうのでしょう?」
「自分をごまかしてはいけません。また、ごまかされてもいけません。不幸にあったら、それをまともに見つめることを学んでください」
「かしこさのともなわない勇気はらんぼうであり、勇気のともなわないかしこさなどは、くそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちがおくびょうだったような時代がいくらもあります。これは、正しいことではありませんでした」等々。
これはまえがきのほんの一部を抜粋したものだ。本書は児童文学なので、物語を普通に読んでいるだけで作者のテーマは非常にわかりやすく伝わってくる。だがケストナーはそれでも足りないとばかりにくどいくらい語るのだ。まえがきでここまで主題を述べる作家もそうそういまい。もちろん作中でもこれらに関連した名セリフが次から次へと飛び出し、ケストナーが正義について、人間の幸福について、いかに強く思い続けていたかがわかる。ケストナーはその思いを、実にピュアに物語に反映させている。
そもそもケストナーといえば、ナチス政権下のドイツにあってファシズムを非難し続けた結果、執筆をも禁じられ、ついには二度にわたって逮捕もされた男。しかもそれでも亡命を潔しとせず、ドイツに居座り続けた魂の作家である。『飛ぶ教室』はそんなケストナーのスピリッツが色濃く滲んだ作品なのだ。本書は児童書ではあるが、ケストナーは同時代を生きる大人たちにこそ本書を読ませたかったに違いない。
ただ、その結果として、やや説教臭が強く、エピソードを詰め込みすぎる結果になったのはご愛敬か。
しかし、それぐらいの欠点は『飛ぶ教室』の価値を何ら貶めるものではないだろう。『飛ぶ教室』が名作であることはまったくの疑いもない。とりわけ登場人物たちが魅力的で生き生きと描かれていることは、他の有名な児童書と比較しても群を抜いている。読者が登場人物たちとともに過ごす至福の数時間、本書はまさにそれを与えてくれる一冊なのだ。