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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

ジム・トンプスン『失われた男』(扶桑社ミステリー)

 今さら土曜日の話ではあるが、玉川上水沿いにある「羽村の堰」というところで、桜を見物してくる。それほど広くないところにびっしりと桜および露店が出ているものだから、なかなかけっこうな熱気で悪くない。規模でいったらもっと派手な桜の名所はいくらでもあるが、こういう地元の隠れた名所もいいなぁ。


 本日の読了本はジム・トンプスンの『失われた男』。
 主人公はクリントン・ブラウンという地方紙の新聞記者。記事はもちろんコラムにも長け、詩作にもふける切れ者の男である。だが性格は極めてルーズで昼間から酒をくらい、同僚や上司をも罵倒するような、極めて退廃的な生活を送る男でもあった。だが、そんなブラウンに周囲の者はなぜか真っ向からぶつかることをせず、ブラウンはブラウンで何やら秘密を抱えている様子。そんな彼のもとに別れた妻が現れ……。

 失われた男

 本作はブラウンの一人称で語られる。それは正に、アル中患者が思いつくままに書き記した日々の記録のようでもある。彼の一挙手一投足がどのような悲劇を巻き起こしていくのか、読者は感情移入もできないまま、いずれ訪れるであろうカタストロフィを見届けるため、ただひたすらに読み続けなければならない。
 数あるトンプスンの著作の中でも、本書はミステリーからはいろいろな意味でかなり遠いところにきているわけだが、とりあえずそんな戯れ言は気にしなくていい。まずは予備知識なしで、ストレートにこの狂気と暴力の世界を味わってほしい。ああ、嫌だ嫌だなどと拒否反応を覚えつつもそこを頑張って読む。そしてラスト、この狂気の世界の在り様にぶちのめされてほしい。万人に、とは言い難いものの、結局はおすすめ。


ジム・トンプスン『鬼警部アイアンサイド』(ハヤカワミステリ)

 ここ最近の文芸関係のビッグニュースというとやはり芥川賞・直木賞の発表だが、個人的にはエドワード・D・ホックの訃報である。七十七歳ということだが、急死らしく詳しいことはまだわかってないようだ。不可能犯罪を追い求め、膨大な作品を作り続けてきた作家だっただけに、ミステリ界には実に大きな損失である。合掌。

 もうひとつニュース。東京創元社からのメールマガジンによると、フィリップ・マクドナルドの『ライノクス殺人事件』が文庫化されるとのこと。もちろんあの六興キャンドルミステリーズの一冊である。これ自体は評価したいが、長らくストップしたままになっている企画や自社の絶版物も頼んまっせ、ほんと。


鬼警部アイアンサイド

 読了本はジム・トンプスンの『鬼警部アイアンサイド』。あのノワールの巨匠がTVドラマ『鬼警部アイアンサイド』の設定を借りて書き下ろした、オリジナルのストーリーである。
 個人的にはリアルタイムでのTV放映を観てはいたが、初放映時か再放送かは定かでない。また、車椅子の警官という設定のせいか、当時の記憶ではかなり硬派な印象があり、コロンボなどのように熱中した覚えもない。
 したがって実は「アイアンサイド」に対してそれほど思い入れがあるわけではないのだが、気になるのはジム・トンプスンがその設定をどう料理したかである。トンプスンはもともと構成やプロットに優れた作家というわけではなく、文章やセンスが先行するタイプだ。オリジナルとはいえTVのイメージが確立しているからにはそこから大きく逸脱するわけにもいかず、ジム・トンプスンの長所が打ち消されるのではないかと危惧したのである。
 だが、それはまったくの杞憂であった。逆に多少の縛りがいい方向に流れたのではないかと思えるほど、物語としてきっちりまとまっている。よくよく考えれば小説では奔放な作品をものにしてきたトンプスンだが、同時に映画やテレビの脚本もこなしているわけであり、やはり一級の職人だったのである。
 作中で直接的に、あるいは比喩的に言及される正義と悪の概念。そしてTV版ではおそらくなかったろう激しい暴力シーン。ジム・トンプスンらしさも残しつつ、こうしてTVのノヴェライゼーションとして形になった作品だが、そこらのノヴェライゼーションとは明らかに一線を画す出来であり、トンプスンのファンならずとも読んで損はない一冊である。


ジム・トンプスン『取るに足りない殺人』(扶桑社)

 ジム・トンプスンの『取るに足りない殺人』を読む。トンプスンも好きな作家で、再評価されて着実に翻訳が続いているのは誠に喜ばしい限り。まだ『鬼警部アイアンサイド』や『失われた男』も未読なので、大事に読まなければ。

 主人公のジョー・ウィルモットはある田舎町の映画館オーナー。過去に傷を持つ身ではあったが、結婚した妻の経営していた映画館を引き継ぐや、持ち前の切れる頭を頼りにビジネスを伸ばしてきた。だが、その手口は犯罪まがいのことも多く、自然と敵も増えてきている。そんなジョーの前に、妻のエリザベスがキャロルという家政婦を連れてきた。不細工な女性ながら、なぜかジョーはキャロルと関係をもってしまい、それはたちまちエリザベスの知るところとなった。一方、巨大映画館グループが、ジョーの映画館を潰しにかかる動きを見せはじめていた。公私ともども追いつめられていくジョーが、起死回生に放った作戦とは?

 犯罪者が堕ちるべくして堕ちてゆくパターンは同じだが、いつもの破天荒な感じが影を潜め、意外にしっかり物語が構成されている印象。解説によると本書はトンプスンが乱作期に入る前に発表された小説であり、心の余裕がそうさせた、という説明がなされている。
 通常と逆のような気もしないではないが、トンプスンの場合は乱作によって花開いた部分が大きいので、どっちがいいとは一概にいえないのが難しいところだ。確かにキャラクターの造形はすでに高いレベルにあるし、後の作品に見られる無常観や不条理な要素もふんだんに盛り込まれているが、『内なる殺人者』や『ポップ1280』のような独特の緊張感には及ばない。人の好みも出るだろうが、どちらがトンプソンらしいかと言えば、やはり後者だろう。
 ある意味、トンプスンの入門書として、本書は最適なのかもしれない。


ジム・トンプスン『深夜のベルボーイ』(扶桑社)

 デザイナーの募集を行うことになり、面接の日々が始まる。すっかり手慣れた仕事になってしまったので以前ほどの負担はないが、それでも精神的に疲れることは変わらない。応募者もこちらも真剣だものなぁ。

 読了本はジム・トンプスンの『深夜のベルボーイ』。
 主人公は、父の失職によって大学をあきらめ、ホテルのベルボーイをして暮らすダスティ青年。彼の冴えない小さな世界にすらさまざまな人間模様がある。失職後にだらしない生活を送り続ける父、ホテルの常連のギャングのボス、父をだましているのではないかとダスティが疑る弁護士、ホテルに現れた謎の美女、最近口うるさくなってきた同僚の男……。生きることに疲れ始めたダスティを、彼らは放っておいてはくれず、ダスティをさらに暗黒のただ中へ落とし込もうとする……。

 絶品。トンプスンはもう絶対外れなし。
 ワンパターンと言えなくもない。『アフター・ダーク』や『死ぬほどいい女』など、これまで翻訳されたものに比べれば地味なのも確か。しかし、犯罪者の末路をこれだけ鮮やかに見せてくれれば他に何を望むべきか? ちんけな男がちんけな犯罪に手を染め、泥沼にはまるという、ただそれだけの話をトンプスンは実に見事に活写する。どう転ぶか予測できないストーリー、生き生きと描かれた登場人物たち、皮肉なラスト。トンプスンを読まない人は絶対、損をしている。普段ミステリを読まない人にもオススメ。


ジム・トンプスン『死ぬほどいい女』(扶桑社)

 やはり今ノワールと言われている作品とは全然別物という気がする。本日読了したジム・トンプスンの『死ぬほどいい女』の話である(といっても最近の新しい「ノワール」ってほとんど読んでないんだけど)。

 本作もこれまで訳された作品同様、とりたてて際だったストーリーがあるわけではない。冴えない訪問販売員の主人公が、死ぬほどいい女と知り合ったがために、転落の一途を辿る道筋を適当に綴っていく物語だ。いい加減な思想、行き当たりばったりの人生、雑な犯罪計画……その根っこにあるはずの欲望ですら筋が通っているわけではない。そんな男が読者にどんな感銘を与えられるというのか?
 しかし、これがそんじょそこらの小説など、束になっても叶わないほど強烈なインパクトを持って訴えてくるのだから痛快である。

 解説でも触れられているが、トンプスンの作品は特に大きな動きがあるわけではないのに、すごい疾走感がある。これが物語の展開による疾走感ではなく、主人公の脳内を描写する疾走感というのは言い得て妙。
 しかもその疾走感が徐々にコースを外れていく気持ち良さ&悪さ。主人公が行き場の無さから逃げ出すため、もがき苦しみ、ふと気がつくと犯罪に手を染める。そしてそれが雑な計画なのにもかかわらず、自分では夢を実現したと喜ぶ一瞬のはかなさ。そんな犯罪が上手くいくはずもなく、主人公は一気に地獄へ向けてスパートする。そして待ち受ける狂気。うまい。うますぎる。

 トンプスンがこの絶妙なバランスの上に立っている小説を、どこまで意識して書いていたのかは知るよしもない。もし、これが喰うために書き散らかしていたのだとすれば、もう彼は天才以外の何物でもない。あるいは?
 トンプスンの小説の欠点はただひとつ。この次に読む小説が、とてつもなく浅いものにしか感じられないことであろう。ほんと、明日はいったい何を読めばいいのだ?


ジム・トンプスン『アフター・ダーク』(扶桑社)

 ジム・トンプスン『アフター・ダーク』を読む。
 主人公のビル・コリンズはかつて一世を風靡したボクサーだった。しかし度重なる頭部への衝撃からか精神に障害をかかえており、今では収容所を脱走して放浪の身だ。そんなビルがあるとき立ち寄ったバーで、、魅力的な未亡人フェイと出会ってしまったことから、彼は危険な誘拐事件へと巻き込まれていく……。

 うううー、きたきたきたー!
 さすがトンプスン! さすが安物雑貨店のドストエフスキー!
 相も変わらず登場するのはいかれた奴ばかり。彼らは丁々発止と裏をかき合い、ときには小さな挫折や成功を噛みしめながら、結局はカタストロフィーへと向かって驀進する。
 人間の暗黒面を描かせたら、やはりこの作者の右に出る者は見あたらない。これが本当のノワールなのだ。暗いだけではない。残酷なだけではない。甘さも切なさも兼ね備えた主人公たちのなんと格好良いことか。特にラストの数頁に至っては、ノワールに興味がない人間をも驚かせ、考えさせるに違いない。無情はいつしか無常へと変化し、読後は何とも言えぬ余韻に包まれる。トンプスンを好きか嫌いか、このラストのインパクトが踏み絵になるだろう。

 なお、本書の巻頭にG・オブライエンのジム・トンプスン論が載っているのも嬉しいところだ。オブライエンはこう語っている。「《精神的安全ネットとして機能している》犯罪小説の安心感を、トンプスンは平然とつきくずす。ミステリ読者がもっとも望まないものをこの作家は体現しているのだ」と。ただ、昨今のミステリファンはその不安感をも楽しんでしまっているように思える。読者と手を取り合うことを拒否した作家、トンプスンだが、生きていたら世のノワールブームをどう思うだろうか?


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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