早いもので今年もあと一ヶ月をきってしまった。年をとると一年もずいぶん短く感じるものだが、今年はとりわけ。
年末といえばミステリ業界でも恒例のベストテンがあちらこちらで発表されているようだ。管理人が見ているのは『ミステリマガジン』の「ミステリが読みたい!」、『週刊文春』の「ミステリベスト10」、『このミステリがすごい!』ぐらい、しかも国内篇には興味がないので海外篇のみ参考にしているぐらいだが、今年はビッグタイトルがちょうど対象期間のズレている部分にはさまったようで、すでに発表された「ミステリが読みたい!」と「ミステリベスト10」を見比べているとなんだか妙な具合である。まあ、『このミステリがすごい!』が出たら、ちょっとまとめてみよう。
本日の読了本はコリン・ワトスンの『愚者たちの棺』。
著者は主に1960~70年代にかけて活躍した英国の本格ミステリ作家。CWA(英国推理作家協会)のゴールドダガー最終候補にも二度ほど選ばれるなど、なかなかの実力派らしいが、わが国では短編が三作紹介されただけの、ほぼ無名の作家である。
そのコリン・ワトスンが長編で書き続けたのが、英国の架空の町フラックスボローを舞台としたシリーズ。探偵役は地元警察署のウォルター・パーブライト警部。『愚者たちの棺』はそのシリーズ一作目である。
まずはストーリー。
フラックスボローはイングランド東部の海岸に面した小さな港町。田舎ではあるが食品業やプラスチック産業などを中心に賑わい、過疎化に悩まされることなく、活気を見せる地でもある。
そんな町の名士、キャロブリート氏が亡くなった。町議会議員、治安判事などを兼任した男の葬儀としては非常につましいもので、ゴシップを求める住民もアテが外れた様子だった。
ところがそれから七ヶ月後。今度はキャロブリート氏の隣人であり、地元新聞社社主のグウィル氏が感電死するという事件が起こる。ウォルター・パーブライト警部は遺体にいくつかの不審な点があることから、他殺の線で捜査を開始するが……。

本を手にとってまず目を惹くのは、帯に書かれた“英国本格”と“D・M・ディヴァインに匹敵する巧手”という謳い文句だろう。好きな人にはこれだけで十分すぎるほどのアピールになるわけで、管理人も事前の予備知識はほとんどない状態で読み始めたのだが。
ううむ、 正直、思っていたほど折り目正しい英国本格ミステリという雰囲気ではなかった。まあ、それをいったらディヴァインだってかなりカスタマイズされた本格ではあるのだが、本作の場合は本格というより警察小説に近い印象だ。
警察小説といっても、北欧ミステリによく見られるような重いタイプではなく、チームプレイを主としながらも謎解き要素も強く、しかも適度なユーモアも入れ込んだ類。例えればR・D・ウィングフィールドのフロスト警部とか、ピーター・ラヴゼイのダイヤモンド警視とかを想像してもらえればよい。まあ、フロストやダイヤモンドを警察小説として括ってしまっていいのかというところはあるけれど、ニュアンスはご理解いただけるかと。
で、このユーモアの部分がなかなか曲者で、けっこうひねくれたブラックな笑いが多い印象。しかもそれは単なる小説の味付けというだけではなく、実はシリーズ全体がそもそも作者のある意図のもとに成立しており、それを補足する役目もある。
その意図とはずばり、善良な田舎町という、記号化された構図の否定である。
もともとは平和で善良な人々がのんびりと暮らす田舎町。そこへ禍々しい事件が起こるもののやがて事件は解決し、また元の善良な町に戻るというミステリにありがちな構図(これは神話や民話でも同様なのだが)。
作者はこのそもそもの前提となる、善良な田舎町というものを否定して、本シリーズを描いている。規模や量は都会に比べると小さいが、人の愚かさや不道徳、犯罪を起こす土壌は都会も田舎も本質は同じであり、善良な田舎町などというものはないのだと。
この辺、詳しくは本書の解説にあるのだけれど、そういう考えをベースとした上で、本シリーズの舞台となるフラックスボローが描かれている。だからこそ登場人物それぞれがいわゆるステレオタイプではなく、作者独特のシニカルな見方が混ざった個性的なキャラクターになっており、それゆえに面白いのである。
肝心のミステリ部分でいうと、注目はプロット作りの部分か。トリックなどは正直それほどのインパクトはないのだけれど、町に隠された醜聞自体の面白みがあり、それをうまく活かしている。
ただ、トータルでは傑作というところまではいたらず、悪くはないのだけれど、それほどプッシュしようという気が起きないのも事実。
ひとまずは次作『浴室には誰もいない』も読んでみて、その上での判断としよう。