フランシス・ディドロの『七人目の陪審員』を読む。
論創海外ミステリからの一冊だが、著者は我が国ではほとんど馴染みのない作家である。一応、過去にポケミスから『月あかりの殺人者』というタイトルが一冊出ており、植草甚一の『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』や森英俊編著『世界ミステリ作家事典 本格派篇』で紹介されてはいるのだが、まあ、この辺りをちゃんと押さえているのは翻訳ミステリマニアぐらいだから、一般的にはほぼ無名の部類だろう。
そんな状態ではあるが、実は前述の『雨降りだから~』等では傑作と紹介されていた作品が長らく未訳の状態で残っていた。それがようやく陽の目を見ることになったのが、本書『七人目の陪審員』である。
これがまた、なかなか奇妙な作品で、ブラックユーモアに満ちた味わい深い逸品であった。
こんな話。フランスのとある小さな町で薬局を営む男、グレゴワール・デュバル。奧さんにはときどききついことも言われるが、息子と娘の四人で、まずは平凡ながら平和に暮らしていた。
そんなある日。家族とレストランで昼食をとりにいったときのこと。食事のあとに軽く川べりを散歩していたグレゴワールは、町一番のビッチと名高い女ローラと出くわす。彼女はちょうど素っ裸で水浴びの真っ最中、思わず悲鳴をあげたのだが、それに動転したグレゴワールは彼女を絞め殺し、その場から逃走してしまう。
だがその後、グレゴワールに嫌疑がかかることはなかった。ローラの恋人で、よそ者でもあるチンピラのソートラルが真っ先に疑われ逮捕されてしまったからだ。グレゴワールは自分が捕まる気持ちはないけれども、ソートラルが逮捕されるのは気の毒だと思い、なんとか彼の容疑を晴らそうとするが……。

設定がまず興味深くて、これはいわゆる倒叙ミステリのアレンジになるのかもしれない。
犯人が主人公というのは倒叙ミステリの必須事項だけれども、普通の倒叙では、犯人が自分の犯行と疑われないよう完全犯罪を目論む様子を描いていくのが主流である。ところが本作では自分はまったく最初から容疑の外で、誤って逮捕された第三者の容疑を晴らすため、犯人が行動する様子を描いていく。
ミステリでは往々にして、ある人の容疑を晴らすために真犯人を見つける、という展開をよく見るが、本作では主人公自らが犯人なので、自首でもしないかぎり絶対に真犯人を見つけ出すことはできない。そんな状況のなか、容疑者の無実を証明するというのはなかなか設定としてはふるっており、本格ミステリの裏返しみたいな雰囲気もあって面白い。
ただ、法廷でのやりとりなどもあるし一応はミステリなのだけれど、実は肝心の主人公の行動がそこまでミステリ的ではないのが惜しい。単純に主人公が右往左往するドタバタの要素が強くて、だから倒叙ミステリのアレンジとは書いてみたものの、本質としてはユーモアミステリという範疇になるのかもしれない(ちなみに帯には“法廷ミステリ”と謳っているが、法廷ミステリの要素も極めて低い)。
もうひとつ本作で興味深いのが、主人公グレゴワールというキャラクターである。
他人の冤罪を晴らそうとする彼の行動は、一見、正義感が強いようにも思えるが、その実、人を殺したのは自分であって、しかも冤罪を晴らすために自首する気はさらさらない。というか罪を犯したという意識すらないのだ。
このモラルや倫理観の極端なバランスの悪さが肝で、主人公グレゴワールが直面するさまざまな状況において、彼がどのように考え、行動するかに読者は惹かれていくのである。
そして、気がつくと、町の人々の倫理観もまた、非常に表面的なものであることが浮き彫りになり、ひいては自分たちのよしとしているモラルや倫理感は本当にこれで良いのかという気にもなってくる。
実際、今の世の中には、立場が変われば倫理観がガラッと変わるような、そういう様々な出来事がいくつもあるわけで、当時よりもむしろ今読むからこそ面白かったのかもしれない。
ラストのオチも意外性があり、読んで損はない作品である。