結城昌治の『ゴメスの名はゴメス』を読む。著者の代表作というばかりでなく、日本を代表するスパイ小説である。
今回、管理人としてはン十年ぶりぐらいの再読になるのだが、当時はミステリといっても本格ばかりを読んでいた頃。正直、スパイものやハードボイルド、心理小説などの面白さはあまりピンときていなかったのだが、やはりこういうものはある程度、年を重ねないと、その本当の良さがわからないのかもしれない。
まあ予想していたことではあるが、本作をあらためて読み、その面白さに驚嘆した。これは文句なしの傑作である。若いときの自分はいったい本書の何を読んでいたのやら(恥)。
まずはストーリーから。
時はベトナム戦争がまだ勃発する前の1961年ごろ。南北に分断されたベトナムにはその覇権をめぐってフランスやアメリカ、共産国が暗躍し、内戦状態にあった時代である。
そんなベトナムのサイゴンに、日南貿易の社員・坂本が赴任した。それは通常の業務というだけではなく、失踪した前任者・香取の行方を捜すという目的も含まれていた。香取がベトナムに赴任している間、香取の妻・由紀子と不倫していた坂本は、複雑な思いを抱いてサイゴンを訪れる。
さっそく香取の捜索をはじめた坂本だが、香取の情報が集まるにつれ、かえって疑惑は増えるばかり。それどころか坂本の周囲にも不可解な出来事が発生し、ついには自身も命を狙われる……。

上にも書いたがもう一度書いておく。本作は間違いなく傑作である。
設定や結構こそ確かにスパイ小説であり、もちろんその意味でも素晴らしいのだが、語り口や味わいはハードボイルドのそれで、これがまた実にいい効果を生んでいる。
人捜しという前半の展開、失踪者の妻と浮気をしている主人公の複雑な心情、クセのある怪しげな登場人物たち……。それぞれの要素が実にハードボイルド的ではあるのだが、本作で特に注目したいのが、実はサイゴンという舞台である。
ハードボイルドといえばどうしても欧米の舞台、たとえばロサンゼルスやニューヨークといった都市のイメージが強い。もちろん様々な人種・階級・境遇などが混在する大都市のほうが、単純に小説の舞台として使いやすいということはあるだろうが、それだけでもないだろう。
ニューヨークであればクールな、サンフランシスコであればカラッとした、それぞれになんとなくだが自然風土や歴史も交えたイメージがあるわけで、それが時として作品全体のイメージになることまである。ここにサイゴンという街をもってきた著者は、スパイ小説を描きやすい舞台として選んだということだが、熱と湿気と猥雑さに包まれたサイゴンが、本作の混沌とした真相とも実にうまくマッチしている。
これが日本のどこかであれば何か物足りない部分もありそうなところなのだが、強制的に国際化されるという悲しき歴史をもった街サイゴンだからこそ、スパイ小説としてもハードボイルドとしても機能しているのである。
ただ、もちろんインターネットもなく、海外へも今ほど簡単に行けなかった時代である。著者は取材によってすべて描いたということだから、どうしても描写不足のところはあるのだが、そこは大目に見るべきだろう。むしろよくぞここまでという感じである。
で、その混沌とした街で起こる混沌とした事件がまたいい。いや、事件がいいというよりは、事件に巻き込まれた各人のドラマがこちらの胸を打つのだろう。
行方不明となった前任者・香取を調べる主人公は、香取に対して負い目を感じていることもあり、必要以上に事件にのめりこむ。ただ、所詮は一般市民なので主人公がどれだけ足掻ても限界があり、だんだんと苦しい立場に追い込まれてゆくが、それがさらに主人公を動かす力にもなる。こういう部分の積み重ねが著者はうまいのだよな。
主人公以外にも印象的な登場人物は多い。なんせ登場人物のほぼ全員が裏と表の顔を持っているわけだから(苦笑)。なかでもある人物の抱える虚無感というか、心の空洞化が辛くて、裏の主人公といっていいかもしれない。
ということで何度でも褒めるが、非常に満足ゆく一冊である。それほどのボリュームもないのに、これだけの満足感を与えてくれるのがすごくて、まさに無駄のない文章、磨き抜かれた文章の結果ともいえるだろう。そういった作家の技術を堪能するのも結城作品を読む楽しみのひとつといえる。