相変わらず読書時間がなかなかとれず、ようやく一週間ほどかけて大岡昇平の『事件』を読了。日本の法廷ものとして忘れてはいけない一冊だが、恥ずかしながらこれまで積ん読。創元から刊行されたのを機にようやく読んでみようという気になった次第。
なんせ映画化もされたベストセラーだし、簡単に古書でも入手できる作品だから、何を今さら創元で出すのか不思議だったが、こういうタイミングで買う管理人のような読者もいるのだろう。
こんな話。時は昭和三十六年。神奈川県高座郡において若い女性の刺殺死体が道路下から発見された。被害者は厚木市で飲み屋をやっていた坂井ハツ子。まもなく容疑者としてハツ子の妹、ヨシ子の恋人である上田宏が逮捕される。宏はヨシ子との結婚をハツ子に反対され、カッとなってナイフで刺してしまったと供述し、事件は非常に単純なものに思われた。
だが、いざ裁判が始まると、召喚された証人からは意外な事実が浮かびあがる……。

管理人がこれまで本作を読まなかった理由は単純なもので、ノンフィクションあるいは社会派っぽい内容だという先入観のためだ。
通常の法廷ものといえば、ペリー・メイスンの昔から法廷での検事と弁護士の丁々発止のやりとりが魅力である。ある意味、知的遊戯たるミステリのもっとも先鋭的なジャンルともいえるわけだ。
だが、本作は映画化された際の宣伝の影響もあったせいか、そういうミステリ的な面白さはなく、裁判制度の矛盾や問題をテーマにし、制度と真実の間で翻弄される若者を主人公とした人間ドラマ、しかもかなり辛気臭い筆致で……と勝手に思いこんでいたのである。
まあ、本作にはそういう面ももちろんある。夢や希望といったものから遠く離れたところに暮らす若者たちの姿は考えさせられるものがあるし、裁判制度の矛盾や問題点(もちろん昭和三十年代当時の)もわかりやすく解説しており、非常に面白いし参考になる。
大岡昇平の描きたかったのはやはりそちらだろうとは思うのだが、しかし、ここが大事なところだが、本作はそれらの要素がなくとも法廷ミステリとしては十分に面白いのである。というか傑作だ、これは。
法廷シーンでの駆け引き、証人たちの話から綻びに気づき、そこから真実を炙り出そうとする菊池弁護士の姿は、紛れもなく名探偵であり、古今東西の傑作に勝るとも劣らない。
また、法廷もののプロパーが自分の読者を想定して、省略できるところは省略するのに対し、大岡昇平はもとが新聞連載ということもあって、誰にでも理解できるよう解説を加えながら進めるのもよい。余計な説明というよりは作品をより深く理解するために必要な情報であり、むしろ法廷ものとしての完成度を高めているといえる。当時の裁判官や検事、弁護士の生活や仕事へのスタンスなどの描写もスパイスとしていい味を出している。
ちなみに作品自他の雰囲気もシリアスだけれど決して辛気臭くはなく、適度にユーモアも交えて予想以上に読みやすく好印象だった。
ということで大満足の一冊。おそらく管理人のように食わず嫌いの読者はけっこういるかもしれないだろうから、ここはぜひ「おすすめ」と声を大にして言っておこう。
ちなみに1977年に始まった「週刊文春ミステリーベスト10」の記念すべき第一回において、本作は八位にランクインしている。当時は海外国内の区別なしという事情もあるのだが、それでも『野性の証明』や『透明な季節』あたりに負けているのはちょっと理解に苦しむ。いや、そちらの作品がだめといっているわけではないけれど(苦笑)。