ファンタジーかつ児童文学ながら、ずいぶんミステリ界隈の方々にも評判が良いようなので、本日はフランシス・ハーディングの『嘘の木』を読んでみる。
ミステリ界隈の方々に評判が良いということは、つまりは何らかのミステリ的な仕掛けが施されているからと推測できるが、さて、本作の出来は果たしてどうか?
まずはストーリー。
牧師ながら博物学者としても有名なサンダース師。しかし、彼の正規の大発見が捏造ではないかと噂され、ほとぼりをさますために一家はロンドンを後にし、ヴェイン島へ移住する。だが噂は島でも広まり、一家が不自由な思いをするなか、サンダース師が謎の死を遂げてしまう。
やがて事件は自殺として処理されようとしたが、その死に疑問を抱いたのがサンダースの娘、十四歳になるフェイスだった。フェイスは父の資料を調べるうち、不思議な植物の存在を知る。それは嘘を養分に育ち、その実を食べた者に真実を示す不思議な木であった……。

なるほど。評判のよい理由がよくわかる。
「嘘を養分に育ち、その実を食べた者に真実を示す」という“嘘の木”の存在自体がまず魅力的だ。人はこの木をもって何をなしうるのか、その力は容易に想像できることだが、それゆえに多くの悲劇を招いてしまうのである。
サンダース師はその被害者の一人でもあるのだが、フェイスは父サンダース師を殺した犯人を捜すため、“嘘の木”の力を借りるという展開がうまい。
ミステリの一部にファンタジー的な小道具を取り入れているといった感じだろうか。ファンタジー要素がありながらもそのテイストは圧倒的にミステリのそれであり、伏線の張り方なども巧みで、最後にはすべてが論理的に解決されるという、いや実にまっとうな本格探偵小説になっているのだ。
ミステリとファンタジーは一見、水と油の関係のようにも思えるが、これも作者の腕次第。ファンタジーがもつ奔放な想像の世界の部分がきちんと構築されていれば、つまりルール付けされた世界であるならば、ミステリとの親和性も決して低くはない。ただ、あまりにファンタジー色が強すぎると、結局納得しているのは著者だけということにもなりかねないし、かといって現実世界寄りにしすぎると今度は何のためにファンタジー要素をもってきたかがわからない。
そのあたりのバランスをうまくとって成功した例が、ランドル・ギャレット『魔術師が多すぎる』とかマイク・レズニック『一角獣をさがせ!』、ピーター・ディキンスン『キングとジョーカー』、エリック・ガルシア『さらば、愛しき鉤爪』といったあたりだろう。全体にいえるのは、世界観は概ねファンタジーのそれでまとめ、骨子の部分がミステリ的であるということか。だから表面的にはファンタジー色が強く、ミステリファンには好き嫌いもかなり出そうだ。
その点、本書は世界観自体もほぼミステリであり、ファンタジー要素は“嘘の木”の存在ぐらいといってよい。そういう意味では上で挙げた例よりはるかにミステリ寄りであり、ファンタジーを期待する人は逆に拍子抜けかもしれない。
しかし、もともと決して低くないハードルをきちんと越えて見せるあたり、この作者は相当達者である。
そして何より大事なところだが、本作は児童文学として優れている。女性がまだまだ低く見られている時代、そんな時代にあって多感な年頃の主人公フェイスが、悩み、苦しみながら、困難を乗り越えて成長してゆく過程が活きいきと描かれている。
十九世紀後半の英国においては、女性が自分の好きな人生を自由に歩めるような時代ではなかった。父を尊敬するフェイスは、自分も博物学者の道を志してはいるが、まず優先されるのは一家の体面、親の意思である。彼女の自我の目覚めと常に相反する家族の利益——しかし事件を通してフェイスは成長し、その関係性も変化してゆく。まだ100%わかりあえたわけではないだろうが、家族との関係も含めて希望を感じさせるラストに救われる。