『金来成探偵小説選』を読む。論創ミステリ叢書の中でもかなり異色の部類に入るのだろうか。金来成(キム・ネソン)は名前からもわかるように韓国人作家であり、韓国ミステリの父祖とも言われる作家だ。
その作品集が論創海外ミステリではなく、論創ミステリ叢書から出た理由は、本書の解説に詳しい。まあ早い話が、金来成は日本での留学経験があり、その期間中に日本語で探偵小説を書いたというのが大元である。日本留学は五年に及び、その間に三作の日本語による短編を残している。

「楕円形の鏡」※
「探偵小説家の殺人」※
「思想の薔薇」
「奇譚・恋文往来」※
「恋文奇譚」
収録作は以上。※のついているのが日本語で書かれ、日本で発表されたすべての短編である。
注目作品は「思想の薔薇」で、これは金来成が韓国に帰ってから、日本語で書いた長編。だが、本作については発表するあてがなかったようで、結局、韓国語で書き直した後、韓国の雑誌に発表されている。本書に収録されているのは、この韓国語版を翻訳したものである。
「恋文奇譚」は「奇譚・恋文往来」をベースに韓国語で書き直した作品。ほぼ同一の内容なので、参考として収録したということだ。
ということで、本書の意味合いとしては、金来成が日本語で書いた作品をすべて網羅した初期作品集ということになるのだろう。
肝心の中身だが、長編「思想の薔薇」の序文にあるように、金来成自身は探偵小説と純文学の融合を目指していたようだ。どちらが主でもなく、探偵小説のスリルや興味を損ねることなく、人間についても考えさせるもの、そのようなところである。
長編「思想の薔薇」はまさにそれに挑戦した作品。
主人公は先代からの宿命や幼少からのトラウマに苦しみながら、売れない作家として生きる白秀(ペクス)。彼が犯したかもしれない殺人事件を探る、気の弱い親友の司法官試補・劉準(ユジュン)の二人である。ある夜のこと、劉準は白秀に呼び出され、女優の秋薔薇(チュチャンミ)殺しを告白されるが、その真偽や意図ははぐらかされてしまい……という一席。
金来成の意気は買いたいが、やはり探偵小説と文学の両立はなかなか難しい。本作でとにかく引っかかったのは白秀の言動である。シニカルな面と激情家の面を併せもつ(これがそもそも理解&納得しにくいところなのだが)白秀は、“信頼できない語り手”どころではない。彼の行動や記憶、思考などを含め、さまざまな事実関係が嘘かもしれないという前提で読み進めなければならず、本格探偵小説としては早い段階で破綻している。
そういった混乱が人間を描くことに奉仕していればよいのだが、基本的には劉準含めて主人公たちの言動が誇張されすぎなのだろう。その大仰なセリフや行動からは、文学的な感動や面白みはあまり伝わってこないのが残念だ。
二作の短編「楕円形の鏡」と「探偵小説家の殺人」は、どちらも演劇や映画という要素を重要なギミックとして取り込み、狙いは面白い。
ただ「楕円形の鏡」は雑誌の誌面という構成をとったのがむしろ逆効果か。途中からは誌面という体裁もなし崩しになっており、この構成で得られるべきメリットがあまり感じられない。
「探偵小説家の殺人」は「楕円形の鏡」を踏まえたような作品だが、これも凝りすぎて自滅の感は否めない。
ただ、全体的な熱気というか迫力は注目すべきところで、トータルでは本作中で一番気に入った作品。
「奇譚・恋文往来」と「恋文奇譚」は同一のネタを使った元作品(日本語で書かれたもの)とアレンジ後の作品(韓国語からの翻訳)。他の収録作品とは異なり、コミカルな味わいが悪くない。ただ、ネタはちょっと無理矢理な感は強い。
ということで金来成の作品を初めてまとめて読んだが、探偵小説を単なる謎解きに終わらせたくないという著者の熱意は実に強く感じられた。文学との融合であったり、特殊な構成をつくってみたり、この時代のチャレンジ精神はときとして変な方向に向かったりもするが、それがまた味になったりもする。
本書の収録作も、残念ながらチャレンジがすべて成功しているとは言い難いが、金来成という作家を知る上ではこれもまたよしである。
ちなみに論創海外ミステリでは本書刊行後に『魔人』や『白仮面』が出ており、これらは通俗作品のようなので、金来成のまた異なる面を楽しめそうだ。こちらの感想もいずれまた。