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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(東京創元社)

 ラーラ・プレスコットの『あの本は読まれているか』を読む。今年の春頃、コロナ禍の真っ只中に東京創元社から発売された本だが、ミステリ好きのみならず、本好き・小説好きなら思わず気になるような内容で、けっこう話題になった一冊だ。

 冷戦下のアメリカでCIAのタイピストとして雇われたロシア移民の娘イリーナ。平凡な娘に見えた彼女だが、スパイとしての才能を見込まれ、先輩スパイであるサリーからさまざまな技術を仕込まれていく。
 一方、冷戦下のソ連ではスターリン体制下で恐怖政治がはびこっており、国民は厳しい言論統制や検閲などによって弾圧されていた。そんななかで作家ボリス・パステルナークは反政府的な作品や活動によって、常に当局に狙われている存在だった。それは周囲にいる協力者に対しても同様で、ボリスの愛人オリガは、まだ完成前の小説『ドクトル・ジバゴ』について、その内容を教えるよう警察に尋問される。だがオリガはボリスを守るために黙秘し、収容所送りとなってしまう。
 やがて『ドクトル・ジバゴ』は完成するが、反体制的な内容からソ連での発行は不可能だった。そこに目をつけたのがCIAである。母国で発行できない『ドクトル・ジバゴ』を国外で製作し、逆にソ連へ送り込んで、言論統制や検閲、弾圧といったソ連の現状を国民に知らしめようと考えたのだ……。

 あの本は読まれているか

 まあ、なんと盛り沢山。ノーベル賞まで受賞した、あの傑作『ドクトル・ジバゴ』を使ったプロパガンダ作戦(これ自体は事実らしい)、CIAで働く女性たちの生活、戦後間もない頃の同性愛というマイノリティに関する問題、何よりソ連時代の恐怖政治。これらが渾然一体となって物語が流れ、読者をまったく飽きさせないのはさすが。評判になったのもむべなるかな。

 素材はもちろんいいのだが、これがデビュー作とは思えない丁寧な描写もいい。特に人物描写が素晴らしい。
 芸術と政治の間で翻弄され、弱みを度々見せてしまうボリスの人間臭さ。
 ときに仲間や家族を軽んじてしまうボリスに複雑な感情を抱き、それでもボリスを誇りに思い、愛するオリガ。
 あどけない素朴な娘というイメージを自覚しつつ、自分はいったい何者なのか、少しずつ成長し、その答を見つけようとするイリーナ。
 スーパーレディのように思われながら、マイノリティとしての自分と折り合いをつけかねているサリー。
 とりわけオリガとイリーナは、同じロシア人女性ながらことごとく対比される形で描かれ興味深い。その生い立ちもさることながら、家族や恋愛、思想などに対するスタンスも大きく異なり、唯一、共通するのが大きな秘密を抱えて生きてきたということ。その秘密を守るための原動力になったものを考えると、やはり人間賛歌の物語なのだろう。

 惜しむらくは、『ドクトル・ジバゴ』が国外に流出し、それがソ連に再度送り込まれるまでの経緯が、いまひとつ淡泊で盛り上がらないことだ。事実の部分をそれほど脚色したくなかったのかもしれないが、一番のヤマ場がそれほど緊張することもなく片付けられたのが残念。
 また、『ドクトル・ジバゴ』によって、実際にはソ連にどういう影響があったのか、最後にさらりとでもいいから触れるべきではなかったか。一冊の本によって運命や人生を変えられた人々の物語であるからには、彼らの努力がどのように報われたのか知りたいし、あるいは報われなかったら報われなかったで、それはまた考える縁になるのだし。
 ついでにもうひとつ書いておくと、盛り沢山の内容はけっこうだが、やはりテーマは少し多すぎたきらいはある。特にサリーとイリーナのドラマが入ることで、少し焦点がぼやけてしまう感じを受けた。他のドラマはなんだかんだで冷戦に紐づくものだけに、ここはやはり冷戦に絞ってもらったほうがよかったかも。

 以上の三点が個人的にはかなり引っかかってしまったこともあり、力作ではあるが、傑作とまでは思えなかった。純粋なスパイ小説のほうがよかったとまでは言わないが、実際、その興味でストーリーを牽引していることは間違いないので、期待が途中で大きくなりすぎたかもしれない。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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