ユーディト・W・タシュラー『国語教師』を読む。昨年のベストテン等でいくつかランクインした作品で、構成が面白そうだったので遅まきながら手に取ってみた。

まずはストーリー。
オーストリアのとある自治体が、作家を高校に派遣して、一週間、創作のワークショップを行うという授業を計画した。そこで講師として選ばれた一人の作家、クサヴァー・ザント。彼が指定された高校へメールを送ると、その担当教師はかつての恋人マティルダであった。
すでに二人とも五十を超えていたが、懐かしさから舞い上がるクサヴァー。矢継ぎ早にメールを送って近況を尋ねるが、マティルダの反応は冷たい。それもそのはず。十六年前、クサヴァーは何の連絡もなく、いきなりマティルダの前から姿を消していたのだ。やがて二人は再会するが……。
というふうに粗筋を書いてみると、実はこの小説の面白味がまったく伝わらない。実は本作、ざっくりいうと、「再開前のメールのやりとり」、「二人の過去」、「脚本スタイルによる再会時の会話」、「二人の創作」という四つのパートに分けることができ、しかもそれらが時系列バラバラで書かれているのである。
冒頭ではつれないマティルダだが、再会時には気を許した様子もあり、と思うと、過去のきな臭い事件の存在も匂わされたり、全体像をぼやかすことで興味を引っ張っていく。
ミステリとして読むとおそらく期待外れに終わるだろう。事件はあるが謎というほどのものではなく、正しくはミステリ的要素を盛り込んだ、あるいはミステリ的な手法を使った恋愛小説として読むほうがしっくりくる。
最高にマッチした相手のはずだったのに、なぜ結婚に至らなかったのか。なぜクサヴァーは突然マティルダの前から消え失せたのか。「なぜこんなにややこしく考えるのか、気持ちに正直に生きればいいだけなのに」という意見もあるだろう。しかし、残念ながら人生は、そして人間は、そこまでシンプルではない。往々にして抗いようのない波に呑まれることもある。二人にとって、その波は家族によって起こされ、そんな波に呑まれた二人の心の弱さ、そして愚かさをじっくり描くことで、幸せをつかむことの難しさや人生における選択の難しさを伝えてくれるのだ。
ただ、本作は確かによくできているとは思うけれど、個人的にはこの構成やラストの展開など、あざとすぎるところが随所に感じられて、それほど好みではない。基本プロットは悪くないし、上手くいかないからこそ人生というメッセージも染みるのだが、ここまで技巧に走る必要はあったのかなというのが、正直なところ。もっとミステリに寄せるなら、そこまで気にならなかったのだろうけれど。