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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

谷崎潤一郎『谷崎潤一郎犯罪小説集』(集英社文庫)

 『武州公秘話』に続いて、本日も谷崎潤一郎。ものは集英社文庫版の『谷崎潤一郎犯罪小説集』である。
 谷崎潤一郎は乱歩や正史に先駆けて探偵小説や犯罪小説の類を書き、彼らにも大きな影響を与えたとされている。ただ、谷崎自身は探偵小説と言われることをあまり好ましく思っていなかったようだし、その作品の狙いはあくまで一般的な意味での探偵小説とは別のところにあるのだが、それでも結果的に彼の作品のいくつかは、日本の探偵小説を語る上で決して忘れられないものとなった。
 本書はそんな谷崎潤一郎の代表的な探偵小説・犯罪小説を集めたものだ。

 谷崎潤一郎犯罪小説集

「柳湯の事件」
「途上」
「私」
「白昼鬼語」

 収録作は以上。
 ガチガチの本格はないし、書かれた時代は多少考慮しなければならないとしても、その出来は相当によい。すべて既読の作品ばかりだが、「途上」や「私」などはとりわけ何度読んでも楽しめる。

 「柳湯の事件」は、妻を殺したかもしれないと信じる貧乏画家の話。妻との激しい喧嘩の後、銭湯へ向かった彼は、湯気とあまりの混雑で前もよく見えないなか、湯船のなかで足元に女の死体があるのではないかと感じるのである。
 混雑する湯船の中、主人公の画家だけが足で死体と触れ合う状況がやばい。この湯船の中の死体の感触を「ぬめぬめぬめぬめ」と表し、執拗に繰り返すのが本作のすべて。お得意のフェチシズムが炸裂する異常心理ものであり、当然ながらその真祖は……。

 「途上」は探偵小説における”探偵”という存在を我が国で初めてクローズアップした作品としても知られている。犯人と探偵の一対一で繰り広げられる心理戦とその緊張感は何度読んでも堪能できるが、最終的に印象に残るのは、探偵のえげつなさというか(苦笑)。そういう意味でも”探偵”小説の傑作である。

 「私」は「途上」同様に有名な作品。ミステリ史上でも有名なあるトリックを、それに先駆けて使っているのだが、主人公のキャラクター造形などをみると、こちらの方がトータルでは上ではないかと思えるほどだ。
 ミステリでは得てしてトリックの必然性が疑問視されることがあるが、本作ではトリックの意義を異常心理ものと融合させて答えとしているのが素晴らしい(まあ作者の意図は別にあるのだけれど)。

 「白昼鬼語」も異常心理者の一編。というか基本的には異常心理ものばかりなのだけれど(苦笑)、これはポオの『黄金虫』を導入として用い、そこから得た情報によって殺人現場を見物にいく男の末路を描いている。ホームズ役(この場合はデュパン役といったほうがいいかも)と思われた人物が、己の倒錯的欲望によって転落していく様がなんとも。
 ミステリファンなら事件の真相は予想できるだろうが、結末の予想は難しいのでは。ここが谷崎潤一郎ならではのセンスであろう。

 まとめ。今回、谷崎潤一郎の犯罪小説をまとめて読んであらためて感じたのは、戦前の探偵小説としてまったく違和感なく読めるということである。
 凡百の作家と比べて語るレベルが一枚も二枚も違うというのは当たり前にしても、それでも”文豪が書いた探偵小説”というフィルターがどうしても入ってしまうものだが、読んでいる間、そういう気持ちがまったく起きなかった。
 これは谷崎潤一郎という作家が、意識しているにせよ無意識にせよ、探偵小説を(変格ではあるけれど)しっかり自家薬籠中のものとしていたということではないか。やや贔屓目の感想ではあるが、大正時代においてこれを普通に実践したことが谷崎潤一郎という作家の凄さ・センスなのだろう。堪能しました。


谷崎潤一郎『武州公秘話』(中公文庫)

 谷崎潤一郎の『武州公秘話』を読む。
 「途上」や「私」、「柳湯の事件」といった探偵小説や犯罪小説を発表し、乱歩や正史にも大きな影響を与えたことで知られる谷崎純一郎。そもそも谷崎が追求した耽美主義や「筋の面白さ」といったものが、非常に探偵小説とも相性がよいわけで、極端な話、「秘密」や「刺青」「卍」あたりもみんなその類に入れてOKじゃないかという気もするぐらいだ。
 まあ、さすがにそれは乱暴だろうけれど、大衆小説あたりまで絞ってみても、探偵小説好きが注目したい作品は少なくない。その代表格に挙げられるのが、本日の読了本『武州公秘話』だろう。

 ジャンル的には時代小説であり、伝奇小説であり、あるいは冒険小説といってもよい。谷崎作品のなかではややマイナーな印象もあるが、耽美的なファクターを中心にすえつつも物語の面白さを全面的に押し出した読み物である。
  とりわけ探偵小説好きが注目しておきたいのは、本作があの『新青年』に連載された作品であるということ。また、その昔、九鬼紫郎が書いたミステリのガイドブック『探偵小説百科』でも、探偵小説の先駆けとなる傑作云々といった感じで紹介されていたこともある。
 まあ、後者については管理人の記憶がちょっと怪しくて、もしかすると違う本だった可能性もあるのだが、それらしい主旨の記事を読んだことは確かで、以来ずっと気になっていた作品なのである(そのくせン十年も積んでいたわけだが)。
 で、この度、ようやく読む気になったのだが、期待に違わぬ面白さであった。

 武州公秘話

 時は戦国。筑摩一閑斎が治める牡鹿山城に人質として出された幼少の武州公(武蔵守桐生輝勝)。人質とはいえ一閑斎からは丁重に扱われ、まずまず不自由のない暮らしを送っていた。
 そんな武州公、十三歳のとき。牡鹿山城が薬師寺弾正に攻められる。まだ元服前のため戦は許されなかった武州公だが、戦に対する興味は強い。そこで老女に頼み込み、討ち取った敵武将の首に、城内の女性たちが死化粧を施す現場を見せてもらう。
 このとき武州公がとりわけ興味を覚えたのは「女首」であった。戦場で倒した相手武将の首を斬る時間がないとき、代わりに鼻を削いで持ち帰り、後に首と照合する風習があった。その鼻のない首を「女首」と呼んだのである。
 この女首と死化粧をする高貴な女性の組み合わせに、武州公は魅了された。その体験が、やがて武州公の人生を大きく左右することになる……。

 ここまでが物語の序盤といってよいだろう。ただし序盤とはいえ、のっけからヤマ場といえるぐらいの迫力・怪しさである。とにかく鼻のない首を女性が洗う描写が鮮烈で、武州公ならずとも引きこまれるシーンだ。
  これがきっかけで武州公は特殊な嗜好が己の中に潜んでいることに気づくわけだが、さらに新たなエピソードが重なることで、武州公の行為も欲望もいっそう肥大してゆく。そのグロテスクな行為の描写、徐々に目覚めてゆく武州公の変態性、そして心理描写が読みどころである。
 武州公が宴の戯れとして、女首を妻や贔屓にしていた道阿弥に再現させようとするシーンは特に印象深い。あろうことか武州公は道阿弥の鼻を妻に斬らせようとするのである。冗談か本気かわからぬ武州公の態度に、席は凍りつき、妻と道阿弥の間に緊張が走る。この緊迫感がなかなか凄まじく、武州公の異常性を強く実感させてくれる。

 現代ならさしずめ倒叙型サイコミステリーというところか。ただ、主人公は単なる犯罪者ではなく、やがては一国の主となる権力者の手によるところがミソ。
 そもそも本作は、史実に伝えられている武州公の真実を探ることを表面的な主題としており、武州公に仕えていた妙覚尼と道阿弥がそれぞれ残した『見し夜の夢』、『道阿弥話』という二冊の手記から引用する形で物語が進められている。
 つまり一見ノンフィクションのような体裁をとっているわけで、こういった虚実をないまぜにしたスタイル、さらには武州公の地位に相応しからぬその嗜好を赤裸々に描くことで、(ありきたりな見方ではあるけれど)権力者の残した歴史というものに対するアンチテーゼとしたかったのではないかと考える次第。

 ともあれ、本書は単なる読み物としても抜群に面白い。まずは谷崎潤一郎の語りの巧さ、ストーリーテラーとしての実力を素直に楽しむだけでも十分だろう。おすすめ。


谷崎潤一郎『人魚の嘆き・魔術師』(中公文庫)

 何となく発作的に谷崎潤一郎が読みたくなって、中公文庫の『人魚の嘆き・魔術師』を読んでみる。
 初期の幻想的な短めの中編を二つまとめた作品集だ。どちらもとりたてて難解なテーマがあるようには思えず、これは素直に美に執着する人間を描いたものと解釈すればよいのだろう。とはいえなにせ人魚と魔術師である。普通の「美」と一線を画すことは当然だが、意外と大きく踏み外すこともないのが谷崎潤一郎ならでは。例えば人魚を人魚として愛するのではなく、あくまで白人崇拝の延長としての人魚だったりする。谷崎が当時感覚としてもっていた「美」の基準が、何となく感じられて興味深い。耽美だけれどドロドロではないのだ。むしろ谷崎の作品を愛した乱歩や正史の方にこそ、そのエッセンスはより強烈に感じられる。
 ちなみにこの二中編が書かれた同じ年、同じ月に佐藤春夫の「西班牙犬の家」も書かれている。この頃、既に谷崎潤一郎は佐藤春夫に一目置いていたらしく、立て続けに両者の幻想小説が書かれたのも、何やら因縁めいていて楽しいではないか。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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