私小説や徳田秋声の評伝などで知られる野口冨士男の『野口冨士男犯罪小説集 風のない日々/少女』を読む。書名のとおり、長篇「風のない日々」と短篇「少女」の二作を収録している。
野口冨士男については名前こそ知っていたものの、これまでまったく読んだことのない作家。しかし、副題に「犯罪小説集」とあり、解説を見ると井上ひさしをして「上質のサスペンス小説である」と言わしめているぐらいだから、これはやはり読んでおくべきかと手に取った次第。

まずは「風のない日々」。
判で押したように平凡な毎日を過ごす青年・秀夫。出自こそ恵まれなかったが、気の良い親類に引き取られ、平凡ながらそれなりに平和に暮らしていた。身の程も弁えているから高望みはせず、それでも三流ながら銀行に就職できた。結婚も一度は失敗したが、それも当人たち以上に妻の親類に原因があったため。思ったほどの疵にもならず、すぐに再婚もできて、平々凡々に暮らしていた。だが……。
以上が主なストーリーである。この平凡な人生を淡々と、かつ克明に描いているのがミソだろう。それこそ給料明細や一日の出費、朝のルーティンから夫婦生活に至るまで、詳細に綴られる。秀夫の性格もまた人生同様に大人しく控えめであり、思うところも時にはあるが、そこまで拘りも見せず、人並みの欲望はあっても収入や時代の空気がそれをなかなか許してくれない。
まさに「風のない日々」なのである。だが、風がないから最高だとはならない。人間の暮らしには多少のそよ風ぐらいはないと息苦しい。著者がうまいのはそういう無風状態の平凡な暮らしの描写を積み重ねることで、逆に何か悪いことが起こるのではないかという予感を、読者に少しずつ植え付けてくることだ。確かにこれは上質のサスペンスである。
そして唐突に悲劇は訪れる。いや、実は唐突なのではない。秀夫と光子の夫婦は基本的に平凡で善良な人間だが、二人の心の中にあるのは、それこそ風を起こしたくない、できれば平穏に暮らしたいという気持ちである。しかし、それが二人のコミュニケーションを阻害し、ボタンのかけ違いを少しずつ積み上げていく。そしてある日、それは一線を越える。
あまりに呆気ない出来事だったが、秀夫の人生で起こった最大の事件。ところが秀夫はそんな事態に対してもいつものように覇気なく淡々と対処するしかない。それがあまりに悲しい。
と、ここまでで終われば、本作は一つの犯罪が起きるに至った経緯をノンフィクションのように再現した作品と言えるだろう。ところが最後の最後、ラスト三行によって、本作の印象はガラリと変わってくる。
その三行によって、本作が人の心の闇や不思議を描いただけではなく、むしろ社会や時代の闇や不思議を描いた物語であったことを知らされるのである。
逆説的になるけれども、ラストの事件を衝撃的に見せたいから、それまでの日常を平凡に描いたのではない。事件が起きたからこそ、平凡な毎日の正体が明らかになるのである。野口冨士男、恐るべし。
「風のない日々」が良すぎたので影はどうしても薄くなるが、「少女」も実は悪くない。こちらは少女を誘拐した青年が逃避行の末に逮捕されるという内容で、今読むとロリコン系の誘拐事件などが連想されるが、ちょっと趣きは違う。常識やモラルに捉われない恋愛小説とでもいうか、いわゆるストックホルム・シンドローム的な側面も備えつつ、男女の交流を描いている。
それにしても先日読んだ葉山嘉樹もそうだが、まだまだ未読の凄い作家はいるものだと嘆息した一冊。本当に読書は終わりはないねえ。