荒巻義雄の『エッシャー宇宙の殺人』を読む。著者はSFを中心にミステリ、伝奇ロマン、架空戦記など、多彩な作品を発表する作家だが、シュールリアリズムの影響を強く受けているせいか、単なる娯楽読み物の範疇に収まらない作品が多いのが魅力ではないだろうか。
『エッシャー宇宙の殺人』もそうした作品の一つである。次元を飛び越えたような捻れた空間や騙し絵のような作品を残した、あの天才画家M・C・エッシャーの世界観をSFミステリとして落とし込んだ連作短篇集であり、元は中央公論社から『カストロバルバ エッシャー宇宙の探偵局』のタイトルで刊行された。収録作は以下のとおり。
「物見の塔の殺人」
「無窮の滝の殺人」
「版画画廊の殺人」
「球形住宅の殺人」

エッシャーを知らない人でも、その作品を見たことがない人はまずいないだろう。見たことがないという人は、本作を読む前にとりあえず「エッシャー 作品」とかで検索して、その奇妙な作品から確認しておくとよいだろう。物理的には建築不可能な、不条理で奇妙な構造物の数々を目の当たりにできるはずだ。
本作はそんなエッシャーが描いた建築不可能の建築物が存在する、港街カストロバルバが舞台である。しかも、さらにぶっ飛んだことに、カストロバルバは多くの人々の夢の集合体でもあり、各人の思念が反映された街でもあるのだ。人々の暮らしにも蜥蜴などの爬虫類が愛好されるなどディテールも特殊だし、実にシュールで幻想的な世界が展開される。
そのカストロバルバにやってきたのが、ある事件を依頼された夢探偵の万治 陀羅男(まんじ だらお)。彼は「物見の塔」や「無窮の滝」など、エッシャー作品を具現化した奇妙な場所で起こった事件を捜査することになる。
まあ、すごいアイデアである。
エッシャーの世界を言語化しようとする試みだけでもアッパレだが、そればかりか夢で構築された世界を創りあげ、しかもそこでミステリをやってみようなどと、いったいどうやったらこんなアイデアを思いつくのか。
当然ながら探偵の捜査も普通とは違う。夢探偵である万治の手法はオーソドックスながら、精神分析を活用することで犯人の行動や動機に迫ってゆく。解明しようとする人物たちの間で交わされるのは、心理分析や哲学、文学といった話題であり、それらが錯綜する展開が読みどころである。
さらにいうと、この世界がそもそも夢で成り立っているため、万治の捜査はこの世界を理解しようとすることにも通じている。そこにこそ著者の狙いがあるように思えるのだ。
惜しむらくはミステリとしてそこまでの驚きがないことか。たとえばSFミステリではアシモフの『鋼鉄都市』という名作があるけれども、本作はああいった現実世界と同等のルールづけをしたミステリとは違うので、ガチガチの謎解きからのサプライズといったものはあまり望めない。あくまで著者が考えるエッシャー宇宙の具現化や、世界観の解釈を楽しむのが本書の肝である。
そういう意味ではミステリファンというより幻想小説やSF小説のファンの方がより楽しめる一冊といえるかもしれない。とはいえ、ミステリの可能性を考える意味でも面白い一冊であり、ミステリファンなら一度は読んでおいた方がよいだろう。
補足その1:作中でポオの「モルグ街の殺人」やノックスの「密室の行者」の豪快なネタバレがあるので未読の方はご用心。
補足その2:著者はなんと今月末に新作『小樽湊殺人事件』を出すという。しかも内容がメタミステリらしく、齢九十にしてこれは驚きである。こちらもぜひ読んでみたいところだ。