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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)

 もうそれほど期待はしていないのだけれど、それでもどこかにかつての感動をもう一度味わいたいと思う気持ちがあって、新刊が出るとついつい読んでしまう。本日の読了本は村上春樹の短編集『一人称単数』。
 まずは収録作。

「石のまくらに」
「クリーム」
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
「ヤクルト・スワローズ詩集」
「謝肉祭(Carnaval)」
「品川猿の告白」
「一人称単数」

 一人称単数

 「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?

 上は本書の帯に書かれた宣伝文句だ。「単眼」はそのまま「(一人称で書かれた)短編」というふうにも置き換えられる。どこで読んだか忘れたけれど、短編とはそもそも「人生をナイフで切ったときの、その断面を見せてくれるもの」だという表現がある。まあ、エンタメ系はそうも言い切れないけれど、いわゆる純文学系の場合において。
 本書に収録された短編は、著者の分身的な主人公がかつて体験した不思議な出来事やそうでもない出来事を、「単眼」=「(一人称で書かれた)短編」で語っていく。普通の作家なら、それらの短編の積み重なりによって、本書の総合的なテーマであったり、著者のメッセージを浮かび上がらせてくれるわけだが、村上春樹の場合はひとつひとつのストーリーを思い切りはぐらかすものだから、そこに浮かび上がるのは明確なテーマやメッセージなどではなく、混沌とした著者のイメージでしかない。「私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく」と書くとそれらしいが、現実と虚構の境界を曖昧にするなんてのは珍しくもない手法だし、村上春樹自らが幾度となくやってきたことだ。物語をはっきり着地させない点もご同様。
 その一方でスタイル自体はかなり明確なのも春樹作品の特徴だ。本書に限らず、多くの作品が幻想的でノスタルジックに彩られ、音楽と料理の描写があり、(性描写が少なくないにもかかわらず)無機質で中性的な男女のドラマがある。現実感や高揚感に乏しく、物語はいつも曖昧である。それが春樹ワールドだといわれれば、そうかというしかない。『ねじまき鳥クロニクル』のように、戦争というこれ以上ない重大事を扱ってもそれは同じだった。

 結末がはっきりしない話だからこそ余韻が美しいという意見もあるだろう。ストーリーは気にせず文章を味わうべきだ、感動を求めるというよりは雰囲気に酔えればよい、そういう声もあるだろう。
 善し悪しはともかく、結果として春樹作品における真理はいつも読者のイメージに委ねられる。読者は意味がわからないなりにそれを受け入れ、気持ちよく自由に消化できるわけで、そこに今もって人気を保っている秘密があるのかもしれない。
 皮肉でも何でもなく、これが村上春樹のスタイルなのである。 

 管理人も別にそういう小説を嫌いなわけではない。実際、いくつかのエッセイを除き、ほとんどの作品を学生時代からリアルタイムで読んでいる。ただ、そんな春樹ワールドにずいぶん長い間接してきたせいもあってか、当初に幾度となく覚えた感動を、最近はほぼ得ることがない。
 なぜ、村上春樹はかたくなに同じような話を、同じようなスタイルで書き続けるのだろう。本書の作品でいえば、確かに「謝肉祭(Carnaval)」あたりの音楽の話は巧いし、「品川猿の告白」の人名を盗む話も面白い。でも、それは村上春樹の技術であれば何を今さらの話であり、既視感もバリバリである。
 繰り返すが、なぜ村上春樹は同じような話ばかりを書くのだろう。下手に作風を変えてセールスに影響が出ると困るから? もちろんそれは冗談だが、好意的にみれば、村上春樹は常にアップデートを重ねているのではないか。つまり自分の信じている文学を徹底的に突き詰めようとしているのだ。めざすゴールは究極の春樹ワールドである。

 ただ、個人的には全然違うタイプの作品を読んでみたい。本書でいえばラストの「一人称単数」のみ、その可能性を感じた作品だ。短いし出来だけならむしろ他の作品のほうが勝っているが、主人公と女性の関係が予想を裏切っており、本書のなかにあってはかなり異彩を放つ。
 これが読めたのが今回の収穫といえるだろうが、それでもまだまだ満ち足りてはいない。


村上春樹『騎士団長殺し 第2部遷ろうメタファー編』(新潮社)

 村上春樹の『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』を読了。

 ※今回、ストーリーとラストに触れますので、未読の方はご注意ください。

 騎士団長殺し第2部

 うむう。傑作とは言わないが、このところの春樹作品のなかでは、まだいい方ではなかろうか。
 表面的にはこれまでのハルキワールドの総集編というか、これまで扱ってきた数々のお得意のモチーフを散りばめており、それほどの差がないようにも見える。

 異世界へと通じる扉(本作では“穴”)
 感情表現に乏しい(ただしある意味神格化された)若い女性
 とぼけた味をもつ、敵とも味方ともつかない異世界の住人(のような何か)
 世界を覆すかのような絶対的悪の存在(ただし表面には絶対浮上してこない存在)
 全体を覆う喪失と再生の香り、比喩だけでしか表現されない(したがって意味が通じにくい)主人公への謎の試練
 本筋と関わらないけれども世界観を補足する上では重要(?)な徹底的デティールへのこだわり
 草食系ばかりの登場人物によって繰り広げられる異常なまでの肉欲などなど

 著者の語り口が好きというファンであれば、これだけでお腹いっぱいだろう。
 ただ、もちろん本作の特徴はそれだけではない。意外だったのは、消化不良な読後感ばかりが強かった最近の作品に比べ、本作に関しては一応は着地点をきちんと見据えて書かれていたことだ。しかもそこそこ甘口のハッピーエンド。
 とはいえ、これまではスケール感を大きくしすぎて回収しきれないイメージだったのに対し、本作はまとまってはいるがこじんまりとしており、言葉は悪いが置きにいった感も強い。
 まあ置きにいくことがすべて悪いわけではないが、いろいろなギミックを用意している割には、物語のテーマが最終的にほぼ主人公の喪失と再生に寄ってしまっているのは少し残念だった。

 第1部のあたりではまず“騎士団長殺し”という絵が登場し、それが“穴”の存在を誘発し、さらにはイデアを出現させてしまう。同時に、白髪で完璧主義の免色という男、無口な十三歳の少女まりえなど、いかにもハルキワールドらしい登場人物が続々と登場する。
 一方、妻と別れ、肖像画という仕事も辞めた主人口は、まだ人生のリセットの最中。それらに対して積極的に関わることはしないのだが、人の本質を的確に捉えて絵にできる主人公のスキルによって、少しずつ物事や人物のつながりを浮かびあがらせてゆく。いわば主人公は触媒のような存在であり、彼の存在と、彼が関わる絵によって、先への興味をもたせてゆく。
 という具合で前半はそれなりに期待させるのだが、最後に主人公自身の物語としてハッピーなラストになったことが逆に拍子抜けだったのである。妻とよりを戻すために、どんだけ不思議なことが起こるんだよという(苦笑)。

 納得いかない点としては、まず“騎士団長殺し”という絵との関わりである。この絵を描いた作者が戦争を通じて体験した数々の悲劇。それがこの絵になかに盛り込まれている、というか封印されているのだ。主人公はその絵のなかにある、それこそイデアやメタファーを感じ取ることができるのだが、なぜかそれと対峙することはない。
 終盤では作者本人とも会うのだが、それは別の目的のための手段であり、こちらが本筋ではないため、結局、過去の悲劇に対しての掘り下げが非常に薄いものに終始してしまうのが残念だった。

 納得いかない点その二としては、終盤に起こるある事件、まりえの失踪である。こちらの事件の真相もどう主人公と関わるのか意味が見えにくい。
 主人公と彼女の精神的なつながりはわかるが、主人公の試練がとことんファンタジー的な冒険なのに対し、彼女の失踪事件の真相は非常に現実的で、その関連性が非常に弱いものになっている。
 結局、彼女の問題ではなく、主人公が再生するための儀式でもあるのだろうが、決着をつけるための展開としてはかなり強引で、これもまた拍子抜けするラストの大きな要因である。

 それでも先に書いたように、最近の作品の中ではまずまず伏線回収もできているし、わかりやすい物語ではあるので、ハルキワールド入門書としてはオススメといえるだろう。

 なお、本作には第3部があるのではという気がしている(もう誰かがすでに予想しているだろうけれど)。
 根拠としては二つ。本作が上下巻ではなく、第1部と第2部という構成であること。二冊で終わりなら上下巻でいいわけだし、続きを書く可能性があるから、それに対応できる副題にしたのではないか。
 もうひとつは、本作にはプロローグがあるのに、エピローグがないこと。こちらもちゃんとエピローグをつけた第3部が出ることを予想させる。
 まあ、『1Q84』の例もあるので、かなり確率は高いのではなかろうか。そしてもし第3部が出るなら、ペンギン人形の返却と肖像画の約束をした“顔のない男”の話になるのではないか。


村上春樹『騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編』(新潮社)

 遅ればせながら村上春樹の『騎士団長殺し』に着手。ひとまず第1部「顕れるイデア編」まで読了する。
 『1Q84』から数えると七年ぶりとなる新作長篇。最近の長篇に対してはけっこう辛めの感想ばかり書いているような気がするが、それでもやっぱりこうして買って読んでしまうのは、初期の作品を読んだときの印象があまりに強く、それを期待しているからだろう。
 さて、今回は果たしてどうか。

 騎士団長殺し第1部

 肖像画で生計を立てる主人公の“私”は、あるとき妻から離婚を切り出され、自ら自宅を出ることにする。しばらく旅を続けた後、彼が新たな住まいに定めたのは、小田原の山間部に建てられた、“私”の友人の父である日本画家のアトリエ兼住居だった。
 その家で“私”は肖像画を描くこともやめ、ふもとの町で絵画教室の講師をしながら新しい暮らしをスタートさせたが、少しずつ変わった出来事が起こり始める。屋根裏で発見された『騎士団長殺し』というタイトルの日本画、肖像画の依頼をしてきた免色(めんしき)と名乗る男、真夜中に聞こえる鈴の音……。
 直接的ではないけれど、それらが静かに干渉し合い、“私”は不思議な出来事へと誘われてゆく。

 まだ第1部を読んだだけなので結論には早いが、全体的にはいつものハルキ的作品のようには思える。
 幻想小説的手法を取り入れ、「喪失と再生」をテーマとし、異世界やらメタファーやら敵とも味方ともつかない登場人物やらディテールへのこだわりやら、もうあらゆる部分でハルキワールドが再構築されている印象である。
 詳しい感想は第2部読了後に。


村上春樹『村上さんのところ』(新潮社)

 シルバーウィークは普段読めないものを読もうと思っているのだが、いまひとつ調子が上がらず、急遽、軽いもので調整すべく『村上さんのところ』を読んでみる。
 本書は村上春樹が期間限定で開設したサイト「村上さんのところ」を書籍化したもの。3ヶ月半にわたって読者から受けた質問37465通のうち3765問に村上春樹が答え、その中から473問をセレクトして収録した傑作選である。

 村上さんのところ

 質問の内容は千差万別。作家・村上春樹に創作の秘密を聞いたり、人生相談するあたりはまあ予想に難くないが、とにかく質問の量が多いので、あえて息抜きに入れたと思われるようなしょうもない質問もけっこう多い。
 そんな質問も含めて楽しめるのは、村上春樹がどんな質問に対しても誠実に丁寧に、そしてユーモラスに答えるからだろう。ときには「自分で考えることです」と少し厳しい言葉もあったりするが、それだけ真摯に答えている証しともいえる。返事の多くは自然体で書いているようで、実はかなり考えて答えているのだろう。
 そんな問答が繰り返され、そして積み重ねられることで、人生との向き合い方のひとつの形がそこに示され、本書の余韻は素敵な随筆を読んだそれに近い。

 個人的に興味深かったのは、やはり創作に関する記述。「時系列は表で確認する」「チャートで事実関係などを管理する」「結末は決めないで書き始める」「自分の中の異界(深層意識)にアクセスする」などなど、ときにはぼかして答える場合もあるけれど、こういう流れのなかで書かれていると、思わずハッとすることも少なくない。
 読者との交流本といった軽いイメージで読み始めてはみたものの、ちょっと横っ面を張られるぐらいのショックもあってこれは侮れない。うん、これもひとつの代表作と言っていいのではないか。


村上春樹『女のいない男たち』(文藝春秋)

 村上春樹の『女のいない男たち』を読む。なんと九年ぶりの短編集ということだが、長年、著者の作品を読んでいる者からすると、何年ぶりの作品であろうが、あまりそんなことは関係ない。ここ最近の村上春樹の作品に関していうと、良い意味でも悪い意味でも予想を裏切られることはまったくないからである。
 それは読者にとって幸せなことでもあるし、同時に不幸せなことでもあるといえるだろう。少なくとも『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の頃のようなゾクゾクする感じはここ何年もほぼ味わっていないわけだが、だからといってそこまでガッカリすることもなく、相変わらずの語りを楽しんでいるところも少なくはない。

 女のいない男たち

 そこで本書である。著者自ら「まえがき」に記しているとおり、本書に収められている作品は、”恋人や妻から捨てられた、あるいは裏切られた男たち”というテーマにそって書かれている。
 ただ、テーマが明確にされていることで、何かこれまでと違った展望があるのかというとそんなことはなくて、むしろこれまでの作品とまったく変わり映えはしない印象である。
 そりゃそうだろう。愛した女性を失うことで男は本当は何を失ったのか、あるいは何を得たのか。これはこれまで著者が繰り返しアプローチしてきた「喪失と再生」というテーマにも十分に通じるものであって、その形をいろいろなバリエーションで見せているに過ぎないからである。

 念のため書いておくと、管理人などはその語り口は決して嫌いではないし、幻想小説やハードボイルドなどのスタイルを取り込む技術などはうまいものだと思う。ただハルキワールドの場合、人工的な部分は楽しめるが、リアルになればなるほど逆に嘘くささが鼻についてしまう。
 だから「ドライブ・マイ・カー」や「イエスタデイ」のような日常を舞台にした「喪失と再生」をハルキ流に演出してもらっても空虚な印象しか残らないのである。
 逆に「シェエラザード」と「木野」は長篇のさわりのような内容だが、物語の可能性が感じられる分、まだ期待が持てる。上で挙げた二作とはそもそも漂う緊張感が違う。願わくば「木野」を中心にしてこの世界観を広げた長篇化なども期待したいところだが、とにかく望みたいのは村上春樹の文学的冒険なのである。

 著者自ら短篇はあまり、と書いているぐらいだが、もともと村上春樹は持ち球が多い作家ではない。それならそれで、とびきり変化する決め球をもっともっと極めてほしい。まだまだ老け込む年ではないはずだから。


村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)

 やはり読まないわけにはいかない村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。別にハルキストではないが、やはり特別な作家というイメージは強い。なんせ管理人の世代は『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』がリアルタイムだったので、そりゃインパクトは強かった。ただ、ここのところの作品は必ずしも満足できるものばかりではなく、本作も期待半分不安半分で手にとってみた。

 あらすじはちょっと長めゆえ、未読の方はご注意を。

 多崎つくるは大学二年の夏、ほとんど死ぬことだけを考えていた。故郷にいる高校時代からの友人グループから、もう会わないでくれと告げられたのだ。それは怖ろしいまでの喪失感であった。
 つくるを含め、男三人、女二人で構成されたそのグループは親友と呼ぶにふさわしい仲間であった。ただ、彼らは何かしら秀でた部分があったのに対し、つくるは自分が非常に凡庸で空虚な存在であると感じていた。
 また、彼らの名前にはいずれも色の字が入っており、互いを「アカ」や「シロ」と呼んでいたが、つくるだけはそのまま「つくる」であった。そこにも何かしらの欠落のようなものを感じるつくるであったが、それでも彼らはつくるを迎え入れてくれたし、つくるもそんな彼らが好きだった。
 その関係が、大学二年の夏、理由も明らかにされないまま終わりを迎える。
 やがて立ち直ったつくるは、昔から好きだった駅を「つくる」仕事に就き、沙羅という恋人もできた。あるとき沙羅は、つくるは四人の友達に会うべきだと告げる……。

 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 ううむ、またも喪失と再生の物語であったか。
 形こそ異なれど、これは村上春樹が常に追求しているテーマ。そのテーマをサラッと物語にまとめるあたりはさすが。なぜつくるが絶交されなければならなかったのか。その謎を原動力にしてストーリーをひっぱる。
 幻想味は非常に薄く、内容自体はいつもの村上作品に比べると非常にわかりやすい。「色彩」はメタファーと言うのも憚れるほどストレートな意味であり、アイデンティティや個性に通じている。友人らとつき合いながら、つくるはそれが自分に決定的に欠けていることを自覚している。やがて友人らを失ったあと、文字どおりの孤独と喪失に襲われる。だがやがて駅を「作る」という職業によって自身のアイディンティを取り戻し、社会との係りや人との繋がりを確立しようとするのだ。
 ただ、駅を「作る」だけではまだ十分ではない。それは見せかけの再生であると、つくるの恋人・沙羅が指摘する。友人たちの元を訪れて、いったい当時何があったのかを確かめなければならない。それがすなわち巡礼の旅であり、本当の自己再生への道なのである。

 まあ、テーマはよいとして、どうも腑に落ちない部分がちらほら。いくつかの大事なところで説得力に欠けるのである。
 例えば、恋人の沙羅というのはつくるを再生に導く存在であり、つくる復活の核ともいえる存在でもある。その彼女の言動の印象が薄く、下手をするとつくるのエピゴーネンみたいにも思えるほど個性がない。友人たちのキャラクターが際だっているだけに、このような女性がつくるの再生の鍵を握っているように感じられないのは残念。要はつくるが惚れるほどの魅力に欠ける。
 主人公つくるの、自殺を考えたほどの闇がほとんど伝わってこないのも厳しい。つくるはいつもの村上作品の主人公同様、自己完結しすぎている。孤独さゆえの強さや客観性を備えすぎており、それがどう考えても自殺と結びつかないのだ。そもそも突然友人に絶交されて、その理由を確かめようともせず、ただ自殺を考えるのはどうにも不自然。
 さらにいうと、つくるが自分の魅力にここまで無頓着なのも嫌みだなというのもある(笑)。もしかすると、これが一番の欠点かもしれん(笑)。

 結論としてはまあまあ。決してつまらなくはないけれど、今回は分量的にもアッサリめなので、いつも以上に弱点が気になってしまったのは残念だ。『1Q84』からまだそれほど経っていないことだし、お楽しみはもう少し先にとっておいた方がいいのだろうね。


村上春樹『1Q84 BOOK3』(新潮社)

 この半年ほど気忙しい日々が続いているせいか、何年かぶりにじんま疹が再発。まだまだ落ち着かないけれど、とりあえずこの三連休で一息つけるのはありがたい。少しはゆっくりして体調を回復しなければ。


 先日、読んだ『パイレーツ ー掠奪海域ー』はマイクル・クライトンの遺作という話だったのだが、もうひとつ未完の遺作があったという話はまだ記憶に新しいところ。それを『ホット・ゾーン』で知られるリチャード・プレストンがフィニッシュした『マイクロワールド』がとうとう書店にお目見え。『パイレーツ ー掠奪海域ー』でお終いと思っていただけに、これは思わぬプレゼントである。
 で、本日さっそく書店に向かったが、そこで『通信教育探偵ファイロ・ガッブ』が出ているのを見つけ、もちろんこちらも購入。ホームズに憧れて探偵養成通信教育講座を受講した迷探偵の物語。こちらも期待大。
 ちなみに論創ミステリ叢書別巻の『怪盗対名探偵初期翻案集』は未だ見つけられず。あと、『守友恒探偵小説選』はいつ出るんだろ?


 『BOOK1』と『BOOK2』を読んでから何年たってんだよという話だが、ようやく村上春樹の『1Q84 BOOK3』を読み終える。まあ、あれだけいろんなメディアで採り上げられ、書評が出て、とにかく情報が多すぎであった。映画もそうだけど、予備知識が入りすぎるとかえって気持ちが萎えてしまう。というわけで、しばらく寝かしていたのだが、ご存じのように文庫化がついに始まったので、まあ頃合いかなと。

 1Q84(BOOK3)

 で、『BOOK3』。正直いうとかなり微妙な読後感である。この一冊だけでもかなりの分量なのだが、著者はその多くを『BOOK1』と『BOOK2』を振り返ることに費やし、ほとんど展開らしい展開はない。青豆は隠遁生活に入り、天吾は意識のない父のもとで時を過ごす。
 ただ、そんな彼らの跡を追うものがある。牛河である。カルト集団「さきがけ」の依頼によって青豆の行方を着々と調べ上げてゆくが、本書ではこの牛河の存在が大きくクローズアップされる。立場は異なれど、彼もまた天吾や青豆と同じく〈向こう側の世界=1Q84の世界〉へ入り込んだことを知り、その大きなシステムのなかで翻弄されてゆく。

 「微妙」と書いたのは、この牛河の行動によって、『BOOK1』と『BOOK2』で不明瞭だった世界の在りようやシステムがかなり説明されているからだ。
 もちろんこれはエンターテインメントではないので、空気さなぎが何かとかリトルピープルが何かとか、直裁的に話すわけではない。とはいえそれなりに怪しげな存在であった牛河を、生い立ちから感情まで明らかにし、迷える仔羊として扱うことで、天吾や青豆ひいてはこの世界の意味をはっきり匂わせる。
 1Q84という世界にある「闇」の存在、人が理解できないカルトが抱える本質的な怖ろしさ、ひいてはシステム自体が内包する怖ろしい何か。それを青豆が覚醒することで明らかにし、天吾がその触媒、逆に世界そのものを生む存在となるという構図は悪くない。しかしながら、そういった解説的なストーリー、加えてラストでチャンチャンとやってしまうことで、それらがずいぶん安っぽくなってしまったと感じるのは気のせいだろうか。著者のメッセージを受け止りたいのはやまやまだが、それは鋭い変化球や剛速球であって、ゆるい山なりボールではないのである。

 結果、本書は『BOOK1』と『BOOK2』の解説本的な役割を担っているために、カタルシスはそれほど得られない。いや、別にカタルシスは必ずしも必要なわけではないけれど、この長い物語を読まされる方とすれば、それなりの感動はほしいではないか。
 ただし物語が完全に終わっているわけではないのも事実。世間で噂されるように、さらなる『BOOK4』があるのかもしれず、それなら『BOOK3』の意義もまた変わってくる可能性はある。
 『BOOK3』のラストを踏まえると『BOOK4』はまったく別の世界の物語になるのではないかと思っているのだが、そんな予想を立てつつ本日はこのへんで。


村上春樹『1Q84 BOOK2』(新潮社)

 前回の記事からあっという間に十日間。修羅場というほどではないがとにかく気ぜわしくて、なかなか更新もままならない。なんとかこの三連休だけはしっかり休めることが確定したので、とりあえず宿題だった村上春樹の『1Q84』の感想をば。かなりダラダラ書いています。

 1Q84(BOOK2)

 まずは十分に面白く読めた。村上春樹がデビュー以来とってきたスタイルに加え、ここ十数年の間、深い関心を持ってきた(であろう)事柄が、様々な形で取り込まれ、詰め込まれ、ひとつの大きな物語としてまとめられている。
 人の好みはあろうが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』あたりに次ぐ面白さであろう。ただし問題は、その面白さがどこからくるか、である。

 本書は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と同様、二人の主人公による二つのストーリーが平行して進行する。
 一人は予備校の数学教師をしながら小説家を目指している川奈天吾。彼は知り合いの編集者から、17歳の少女<ふかえり>こと深田絵里子の書いた作品をリライトしないかという誘いを受ける。それは荒削りながら素晴らしい魅力を持った作品であり、天吾はその後に予想されるスキャンダルなどのリスクを十分に承知しながらも、作品の持つ魅力に負け、その作業を請け負ってしまう。
 もう一人はジムのインストラクター兼マッサージ師をしながら、裏では殺し屋として活動する女性、青豆。彼女は高速道路の非常口から歩いて外へ出たために、1984年から「1Q84年」という微妙に違う世界で生きることになる。

 どうしても文体やセンスに注目が集まる村上春樹の作品だが、本作に関しては、構成にかなり気を遣っている。
 天吾と青豆。この二人の物語は、一応はどちらもリアルな世界として描かれており、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のように、他方がファンタジーという設定ではない。物語が進むうち、この二人を巻き込んだ事件に関係性があり、この二人の関係、そして二人をとりまくこの世界の在り方が明らかになり、やがて融合するであろうという予感を高めてゆく。
 その作業は実に緻密であり、物語の構成だけでもミステリ的な味わいをもたらす。さらにはその事件の背後に見え隠れする<リトル・ピープル>の存在、あるいは<空気さなぎ>といったシステムが、SF的な愉悦に誘ってくれる。
 しかも小説内で題材に選ばれているのは、あの地下鉄サリン事件以降顕著になったカルト宗教の問題である。加えてDVや幼児虐待、文学論、メタフィクション、殺人といった様々なキーワードを散りばめながら物語を紡いでゆく。

 また、二本の縦軸をサポートするかのように、さまざまなファクターが二元論的に繰り返し用いられているのも興味深い。
 もちろん基本は天吾と青豆であるが、それ以外にも、二つの月、1984年と1Q84年、青豆とあゆみ、天吾とふかえり、さきがけとあけぼの、パシヴァとレシヴァなどなど。対ではあるが、それらは背反する場合もあれば、融合する場合もあり、また補完する場合もある。表面的なストーリーを引っ張るのが縦軸であるなら、これら横軸は著者のもつイメージの表出。それぞれの関係性を理解できれば、テーマが自然と炙り出されてくる。

 テーマといえば、本作で村上春樹がメインに据えたのは、「闇」の存在である。
 『1Q84』では様々な暴力の姿が示される。いつになく描写も激しく、対象も幅広い。それは幼児虐待やDV、いじめなど、青豆の行為もこれに含まれるであろう。普通に考えればそれら暴力は人の心にある闇から生まれると考えてよい。ではその闇はどこから生まれるのか? その闇の源はなんであろう?
 村上春樹はその源を、個人を越えたところに持ってきた。春樹自身はインタビューに答えてカルト宗教の恐ろしさを『精神的な囲い込み』と評している。人の弱さにつけ込む圧倒的な支配。やがてそれは強大な目に見えない力となる。特定の主義や思想の絶対的な盲信からくるパワー。地下鉄サリン事件だけではなく様々なテロ事件の背景に宗教や思想があるのは説明の要もないだろう。
 著者はそこからさらに一歩進める。それは単なるカルト宗教の恐怖なのか。そこにはさらに人智すら越えた、歯止めの効かない何かの力があるのではないか。村上春樹はそれを<リトル・ピープル>という形で示す。そして彼らの紡ぐ<空気さなぎ>が、何らかの発生装置の役目を備えていることを匂わす。ここで気になるのは、<空気さなぎ>を紡げるのは<リトル・ピープル>だけではなく、一般の人間でも可能だということ。だから怖い。

 とまあ、こういった縦横幾重にも織り込まれた物語なのに、混乱することもなくサクサクと読めるのは、やはり村上春樹のセンスである。いや、むしろ技術か。
 だが、この読みやすさゆえ、春樹作品を読んでいるときのいつもの心地よさゆえに、本作の物足りなさもある。面白いことは面白いのだが、それはいつもより派手なストーリーやキャラクターによるものではないか、そういう感じもまた拭えないのだ。本書が抱えるテーマ・素材は決して軽くないっていうか、実に重い。それだけに、生きるとはどういうことなのか、人間の生き方とは何なのか、冗談抜きで本書からそういうものを感じ取りたかったのだが、残念ながらそこまでには至らなかった。

 とはいえ、この感想を書いている時点で、既に村上春樹が『1Q84 BOOK3』を執筆しているという報道がされている。果たして、村上春樹がどのようにこの物語の決着をつけるのか、メッセージをどこまでストレートに伝える覚悟があるのか、興味は尽きない。

 この続きは『1Q84 BOOK3』でまた。


村上春樹『1Q84 BOOK1』(新潮社)

 ようやく手にとった『1Q84』だが、本日「BOOK1」まで読了。
 今のところはすこぶる順調。先日のコメントで少し書いたのだが、これまでのハルキワールドで重要なファクターだったものが残らず詰め込まれている感じである。しかもストーリーは波瀾万丈。この物語が「BOOK2」で完了していないのは実に残念だが(苦笑)、ま、いいか。とりあえず詳しい感想は「BOOK2」読了時で。

 1Q84(BOOK1)


村上春樹『これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 』(朝日新聞社)

 たまたま本屋をのぞいたら(本屋はほとんど毎日のぞくので、全然たまたまではないが)、村上春樹の『これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 』が目に留まって購入。さくさくっと電車の中で読んでしまう。

 本作(タイトルは狙いすぎて嫌い)は数年前に出版された『そうだ、村上さんに聞いてみよう』の続編だ。村上春樹のホームページである「村上朝日堂」に寄せられた読者からの質問メールに、村上春樹が答えたものをまとめた本なのだが、固い文学論なんてものではなく、著者らしい真摯で軽妙な受け答えが楽しめる。かなり脱力系の質問(そして答えも)が多いので、あくまでファンが楽しむためのファンブック的一冊であろう。

 続編にあたる本作でもほとんどそのスタンスは変わらないが、台湾と韓国からの質問も載せているのが大きな違い。しかも日本からのそれと違って、意外に真面目に文学的疑問などを尋ねており、そういう質問には村上春樹もかなり慎重に答えているようで興味深い。……と思っていたら残念ながら韓国編は、どうやら出版関係者のインタビューを再編したものらしい。それなら普通にインタビューとして載せればいいのに、と思うのだが、これは著者よりも編集者の責任か。


プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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