パトリック・クェンティンの『グリンドルの悪夢』を読む。
つい二十年ほど前までは、クェンティンは基本的にサスペンス系の書き手として見られてきた作家である。ところがここ数年のクラシックブームで初期の謎解き系作品が少しずつ紹介され、ぼちぼちと本格物の書き手としての顔も見えてきた。クイーンと同時代に活躍し、しかもクイーン同様共作というスタイル。そういう周辺情報もあって、ミステリマニアがクェンティンの未訳作品に期待する気持ちは高まるばかりなのだが……果たして本作の出来やいかに?
※なお、できるだけ抑えるつもりですが、今回はややネタバレっぽくはなるかもしれません。
未読の方はご注意を。

「グリンドル樫にコンドルが留まると盆地に死が訪れる」。医師のスワンソンとトニーが暮らす田舎町にはそんな言い伝えがある。その言葉を裏付けるかのように、最近この村では異常な事件が立て続けに起こっていた。それはペット連続殺害事件。猫や猿、鵞鳥などが次々と消え失せ、無惨な死体となって発見されていたのだ。そんなある日、今度は少女の失踪事件が発生する。ペット連続殺害事件との関連はあるのか、そして少女の運命は? 村をあげての捜索が始まった矢先、少女の父親が死体となって発見された……。
ううむ、これは評価に困る作品である。
長所と短所が極端というか、ミステリとしてはしっかりしているものの、同時に非常に不愉快な作品でもあるのだ。
まずは良い点から挙げてみよう。不可解な状況をきちんと設定し、それを納得させるだけの仕掛けがちゃんと用意されている点は見事である。各キャラクターも意外に作り込まれており、語り手も含めて怪しげな人物だらけにしていたり、しかも犯人ばかりか探偵役まで絞らせないという構成は、サスペンスを高める上でもなかなか効果的だ。
結果、ロジックでガチガチに固めたというほどではないけれど、フーダニット&ハウダニットという興味は十分に満たされる出来映えといえるだろう。
その一方で、ホワイダニットはいまひとつ。本作で発生する事件は非常に残酷な手口である。単なる殺人ではないと思わせる状況があるので、その動機は非常に重要であるといえるだろう。そこまでして犯人が非道な手口を用いたのはなぜか。限られた登場人物のなかでは、そこから謎を解く道筋もあってしかるべきだし、そこには読む者を納得させるだけの理由が必要だろう。
しかしながらクェンティンは、ここをけっこうあっさり片付けてしまう。一応は小説内で説明があるものの非常に事務的であり、大きな含みはまったく持たせていないように感じられる。著者としては、そこは読みどころではないのである。ミステリとしてはそれもありだろうが、やはり拍子抜けの感は否めない。
そして、これに関連する大きな瑕疵が本作にはある。
『グリンドルの悪夢』では、子供や動物といった弱者を被害者としている。しかもその殺害方法、死体発見シーン等、不快な描写は決して少なくない。
ただ、残酷だから、という理由で非難するのではない。不必要な状況でそういう形をあえて盛り込んだ作者の感覚を疑うのである。
生や死をテーマとした小説であったりすれば、そういう描写や設定が必要になることもあろうし、「毒」なくして何のための文学かということもあろう。娯楽を目的とする探偵小説であっても、人間性や社会問題に大きく踏み込めば、そういうケースも起こりうる。ブラックユーモアという要素もときには必要だ。
ところが本作は違う。『グリンドルの悪夢』はおぞましい犯罪を描いてはいるものの、社会派でもサイコサスペンスでもなく、明らかに本格探偵小説であり、謎と論理の興味で成り立っている。子供がこのように残酷な形で殺害される必要性はさらさらないし、そういった題材で描くなら、それ相応の必然性がほしい。しかもその動機が、本書のような形でさらっと流されては何をか言わんや。
この歳になって、しかもこういうブログを書いていて、いまさらミステリにおける倫理観云々などという野暮な話はしたくないが、本作はどうにも度が過ぎているように思えてならない。作者のアンバランスな感覚はほかにも散見される。
例えば少女が行方不明になっているというのに、登場人物たちはそれを平気で冗談のネタにするし、まったく興味がないということも言わせたりしている(嫌なことにそれが語り手や探偵役だったりする)。ペットが残酷な方法で殺害され、飼い主は悲嘆にくれるものの、その当人たちがアライグマ狩りを平気で楽しむ(しかも眉間を狙って銃殺だ)。こうまで不愉快な描写が多いのは、いったいなぜなのか。書かれた時代のせい、と思いたいのだが。
ミステリとしての出来は悪くないだけに、とにかくこれらの傷が残念でならない。おすすめ、と言いたいところではあるが、個人的にはアウトだ。