サックス・ローマーの『怪人フー・マンチュー』を読む。
名前だけは知っているが、映画も原作も触れる機会がなかった怪人フー・マンチュー。その記念すべきデビュー作がポケミス名画座の一冊として刊行されたのは昨年の春頃だったか。書評等でもまずまず好意的で、このたびようやく読もうという気になる。
そもそもフー・マンチューとは何者か、という人も多かろう。一言で言えば、白人に対して異常なまでの憎しみを抱く、中国の天才科学者にして大犯罪者である。ホームズものにおけるモリアーティ教授がポジション的に近いと思うが、その犯罪手段などがいかにも魔術的というか東洋的というか、モリアーティ教授よりイメージは数段怪しい。
そのフー・マンチューとイギリス政府や警察との戦いを描いたのが本書『怪人フー・マンチュー』。時代も舞台もホームズものと重なるのだが、ホームズものほどミステリとして確立されたものではないので過大な期待は禁物。設定の強引さ、展開の早さ、トリックの荒っぽさなどに加え、当時の東洋や中国事情などの知識もアバウトで、正直いま読んで面白いかと言われると、ちょっと(苦笑)。ここからホームズものが生まれた、とするなら歴史的にも見るべきところが出てくるのだが、時代的にはたぶんホームズが先だしなぁ。ミステリ的にはかえって退化している印象なので、これが当時バカ受けした理由がちょっとわからない。
ただ、絶対的な悪の存在としての中国人を、当時の一般大衆がどう捉えていたか、というところにカギがありそうな気はする。有名な「ノックスの十戒」で中国人を禁じていることからもわかるように、当時の欧米人にはまだまだ東洋は神秘的な存在である。また、悪役との対決とはいえ、常にイギリス側の分が悪く、常にフー・マンチューが優勢であるという事実。さらには、フー・マンチューの自体の登場シーンは意外に少なく、その人物像が掴みにくいこと。これらの点から推測すると、作者が意識しているかどうかは抜きにして、フー・マンチューとは単なる一悪人ではなく、災いの象徴、擬人化であることを示している気がする。
廃れつつあった世界における英国の覇権の危機、不安定なヨーロッパの政情、ひいては戦争の恐怖。そのようなものがごっちゃになった存在。それこそがフー・マンチューの正体なのではないだろうか。