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探偵小説三昧

日々,探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすブログ


Posted in 07 2016

庵野秀明、樋口真嗣『シン・ゴジラ』

 怪獣映画ファン、特撮ファンとしてこの夏に観ておきたい映画はいくつかあるが、個人的にはやはり『シン・ゴジラ』である。初日は無理だったが公開二日目の本日、立川シネマシティ2で鑑賞。
 ちなみに立川は『シン・ゴジラ』のストーリー内で臨時政府が置かれる場所。モノレールの車両基地とか昭和記念公園とか知っている場所がいくつも出てきて、ううむ、いつの間にそんなの撮影していたのか。
 まあ、それはともかくストーリーから。

 東京湾を走るアクアラインで原因不明の崩落事故が発生した。政府はただちに緊急会議を開き、海底火山等の自然災害という見方で決着しようとしたが、内閣官房副長官の矢口蘭堂だけは、海底に生息する巨大生物の可能性もあると提言。しかし非現実的な意見とばかりに周囲はこれを否定した。
 だが矢口の予想は的中した。巨大生物が海面から姿を現したのだ。
 巨大生物は古代の恐竜のようにも見えたが、エラをもち、四足歩行でそのまま東京大田区へ上陸する。その巨体は道路幅にとうてい収まらず、生物が移動するだけで市街地はたちまち破壊されてゆく。
 前例のない想定外の事態に慌てふためく政府。何を決定するにも会議や根回しが必要な今のシステムではすべてが後手に回り、現場で対応にあたる警察や消防、自治体は苛だちを隠せない。
 そんななか諸外国も事態の動向に注目していたが、なかでも米国のアプローチはなぜか積極的だった……。

 シン・ゴジラ

 総監督&脚本はエヴァでお馴染みの庵野秀明、監督&特技監督は『日本沈没』や実写版『進撃の巨人』等で知られる樋口真嗣という布陣。
 2014年に公開されたハリウッド版第二弾の『GODZILLA ゴジラ』がなかなかの出来だったことを思うと、ここは本家ならではの意地を見せてくれと願うファンは多かったはず。庵野監督にも相当のプレッシャーがあったと思われるが、いやあ、この出来なら一安心。十分満足である。なんだ、日本、やればできるではないか。

 何がいいといえば、やはり徹底したリアリティだろう。
 ゴジラは戦争や核や災害などのメタファーになっていることが多いけれども、本作ではゴジラを災害と見做し、それに対して現代の日本政府や自衛隊はどのように対処するのか、そもそも対応できるのかというところを描いている。つまり「有事における危機管理」。
 こういうアプローチは過去のゴジラ作品にもあり、決して初めてというわけではないのだが、庵野監督は変にSF的な要素を持ち込まず、あくまで現在の日本政府がこの未曾有の災害に直面したときどう対応するかを徹底的に描いていく。この軸がぶれないのがいい。

 加えて注目したいのは、主人公を権力側に置いていることだろう。
 得てしてこの手の映画というのは、主人公が現場側であり、保身や利益に走る権力側や体制側との対立を描くケースが多い。要は権力側というのはドラマを盛り上げるための悪役的役回りである。まあ、感情移入しやすいし、わかりやすい構図ではある。
 本作ではこの見慣れている構図、即ち現場側=善=主人公という構図を捨てて、主人公を内閣官房副長官とし、権力側の苦悩にスポットをあてているのが興味深い。
 まあ内閣や外国との板挟みにあう、いかにも中間管理職的な描き方もされているのだが、基本的には安保問題や核問題、東日本大震災などを想起させる様々な問題にどう対応していくかを浮き彫りにしている。現場の苦労もいいのだが、権力側でなければわからない苦悩をきちんと見せることもこういう映画では必要だろう。個人的にはここがけっこうツボでありました。

 気になったのは、あえてやっていると思われる棒読み的な早口のセリフ使いである。
 特に矢口がまとめる対ゴジラの緊急対策チームに所属する若手の政治家や学者や研究者などが、一様に専門用語を織り交ぜた長ゼリフを早口でまくしたてる。これがアメリカ映画だったら、感情に任せた怒鳴り声が交錯したのち、誰かが最後にきちんと説明的にまとめるところだが、これもある意味リアリティを感じさせる部分ではある。まあ、わかりにくいときも少なくないので、好みが分かれるところだろうけれど。

 演じる役者さんはまあまあ悪くない。主役の矢口役には長谷川博己、準主役のカヨコ・アン・パタースンには石原さとみ、内閣総理大臣補佐官に竹野内豊。他にもかなりの有名どころが端役で出演しており、これもゴジラ映画ならでは。ただ、石原さとみがこういう役を演じるには、若干若すぎるかな。長谷川博己は好演。
 異色なのは初日までシークレットだった、ゴジラのモーションキャプチャーを担当した野村萬斎だろう。今回のゴジラは巨大で非常にゆったりした動きであり、野村萬斎の能楽師としての動きに通じるところがあるかもしれないが、そこまで意味があるかどうかは疑問である。むしろ話題作りの方が大きいのかも。

 ゴジラそのものについては、過去作をリスペクトしつつ新設定も織り込んで悪くない。第一形態が少々残念な感じだったけれど、巨大化してからは佇まいだけでも鳥肌ものだし、カット割りや絵コンテも相当しっかり練られている印象で、エヴァでの見せ方もかなり取り込まれているのだろう(ここ詳しくないので予想だが)。
 ちなみに自衛隊は結局ゴジラに手も足も出ないのだけれど、ゴジラに向かってゆくヘリや戦車の見せ方は実にかっこよく、そういう表面的なところだけでなく、その存在意義について言及されるシーンもまたよし。

 取り止めがなくなってきたので、そろそろまとめ。
 本作は歴代ゴジラ映画でもトップクラスとみていいだろう。映像の進化はもとより、設定やストーリーもしっかりしており、巨大生物の存在以外は徹底したリアリティの追求で楽しめる。ここまで真面目に作ってくれた庵野秀明、樋口真嗣両監督に感謝したい。



多岐川恭『落ちる』(創元推理文庫)

 すっかりマイブームになりつつある多岐川恭だが、本日は短編集『落ちる』をご紹介。管理人が読んだのは創元推理文庫版で、直木賞を受賞した河出書房新社版『落ちる』に初期の秀作三編を加えた、いってみれば多岐川初期短編の決定版である。
 収録作は以下のとおり。

「落ちる」
「猫」
「ヒーローの死」
「ある脅迫」
「笑う男」
「私は死んでいる」
「かわいい女」
「みかん山」
「黒い木の葉」
「二夜の女」

 落ちる

 おお、長篇だけでなく短篇も相当のレベルで満足度は高い。男女の愛憎や痴情のもつれがテーマになっている作品が多く、ともすれば二時間ドラマの素材的な安っぽい感じにもなったりするのだが、多岐川恭はものが違う。それらの材料をときにはシリアス、ときにはコミカル、さらには奇妙な味にも落とし込んだりと、バラエティ豊かに味付けして飽きさせない。
 そもそも心理描写が細やかなので、どういうテーマを扱おうが、小説としてしっかり成立させてしまう力がある。著者自身も謎解きやトリック以前に小説であることを強く意識していたことを公言しているが、もちろんミステリとして物足りなければあえて読む必要もないわけで、多岐川恭もそう言いながらきちんとミステリとして両立させることには抜かりがなかった。
 文学性とミステリの両立といえば連城三紀彦あたりがすぐに思い浮かぶが、あそこまで狙いすましたものではなく、ごく自然にわかりやすい形でまとめているのが多岐川恭のポイントだろう。比較するのもなんだが、この時代のミステリ作家は単純に作家としてのレベルが高くてよい。

 以下、各作品の感想など。
 表題作の 「落ちる」は自己破壊衝動に駆られる男の物語。妻に対する愛情が崩れ、猜疑心が一線を超えたとき……。ノイローゼの主人公というキャラクターが意外に魅力的で、生まれ変わるとまではいかないけれど、ラストで主人公の心境が一変するところは思わず拍手である。

 「猫」は謎解きものとして見ればまあまあだが、サイコ的な犯人像が秀逸で、サスペンスとしては力作。犯人に狙われる女性主人公も飾り物のステレオタイプでなく、複雑な女性心理を打ち出しているところがお見事。

 「ヒーローの死」は密室を扱った作品で出来はそれほど悪くないのだが、いかんせん他の作品に比べるとやや弱い。

 個人的に本書中のベストといえるのが「ある脅迫」。なんというか、この設定の妙。小心者で冴えない銀行員が宿直の夜、強盗に襲われる。だが、その強盗が実は……。未読の方にはぜひオススメしたい奇妙な味の傑作。これ読まないのはもったいない。

 「笑う男」も奇妙な味の部類に入るか。主人公は収賄事件の発覚を防ぐため、とうとう殺人まで犯した男である。犯罪隠蔽からの帰りの電車内、主人公はたまたま隣り合わせた男に、自分の犯した事件の推理を聞かされるはめになる。推理を聞かされながら一喜一憂する主人公が、物悲しいけれどどこかユーモラス。

 殺されるのを待つだけの老人が主人公の「私は死んでいる」。甥夫婦とのやりとり、亡き妻との仮想会話シーンなど軽妙なやりとりが楽しいユーモアミステリである。

 「かわいい女」は悪女もの。この作品に限らず、多岐川恭はこういうテーマが得意というかお好みというか。当時はこういう作品の需要も高かったのだろう。物語のもつサスペンスよりキャラクターありきといえる。

 「みかん山」は再読だが、今あらためて読むとこれはバカミスの一種なのか。ミステリとしての評価は落ちるが、インパクトはなかなかである(笑)。

 「黒い木の葉」は技巧とドラマががっぷり四つに組み合った好編。導入部の少年少女の淡い恋愛模様、その恋愛に反対する母親の物語に引き込まれていると、あっという間に少女が殺害され、今度は一転して関係者の事情聴取というスタイル。巧い。

 「二夜の女」は温泉宿で出会ったある男女の恋愛と犯罪の物語。絵に描いたような二時間サスペンスドラマ調、といえば聞こえは悪いが、もうすべての放送作家が見習ってもいいぐらいお手本のような作品。先が読むやすいのが欠点だが、いや、むしろ先の読みやすさを含めてこその逸品である。


水上幻一郎『水上幻一郎探偵小説選』(論創ミステリ叢書)

 論創ミステリ叢書が先日の『横溝正史探偵小説選V』でついに百巻ということで、いやなんともめでたいことである。
 この出版不況のなか、戦前戦後のマニアックな探偵小説だけで百巻も続けてこられたというのは奇跡に近いのではないか。しかもほぼ月一冊刊行というハイペース。書誌的に難しい作家がほとんどだろうし、編集だってこのペースは辛いはず。もちろん採算が合わなければここまで続かなかったであろうし、関係者の苦労は並大抵のものではないだろう。
 ともかくこれは間違いなく日本ミステリ出版史の快挙。関係者がどこまで続ける気があるのか知らない、いっそのこと1980年あたりまで網羅してもよいのではないか(笑)。

 ハイペースで続く論創ミステリ叢書だが、これは読むほうもけっこう大変で、中身が濃いのと持ち歩きが面倒なこともあって、管理人などは読むのも月一冊がせいぜい。全然、積ん読との差が縮まらないのだが、何とか今月も一冊読み終える。
 ものは『水上幻一郎探偵小説選』。

 水上幻一郎探偵小説選

 水上幻一郎は東京都出身。学生時代から探偵小説に興味をもち、同人活動を続けながら、ときの探偵小説家らとも親交が始まるが、大学卒業後は新聞社に就職。その後、商業デビューするが作家専業とはならず、本業の忙しさから1950年の「青髭の密室」(改訂版)を最後に筆を断った(私淑する小栗虫太郎や海野十三の物故を理由とした説もあるらしい)。

 本書ではそんな水上幻一郎の現在判明している作品をすべて収録。小説以外に犯罪実話系のものから評論等も収めており、これ一冊で水上幻一郎全集というわけである。
 アンソロジーで二、三作は読んだことはあるのだが、実際、それ以外のほとんどの作品が単行本初収録ということで相変わらず論創クオリティ恐るべし。

 さて肝心の中身だが、実はアンソロジーで読んだときの印象があまり残っておらず、かなり新鮮な気持ちで読み始めた。収録作は以下のとおり。

「Sの悲劇」
「二重殺人事件」
「貝殻島殺人事件」
「蘭園殺人事件」
「青髭の密室」
「火山観測所殺人事件」
「青酸加里殺人事件」
「神の死骸」
「青髭の密室」(改稿版)
「毒の家族」(「青酸加里殺人事件」のリメイク)

※以下ノンフィクション系
「新版「女の一生」」
「女郎蜘蛛」
「兇状仁義」
「消えた裸女」
「肉体の魔術」
「幽霊夫人」
「淫欲鬼」
「南海の女海賊」

 読んでまず驚いたのは、その作風がヴァン・ダインに影響を受けたかのようなをガチガチの本格だったこと。法医学教授・園田郁雄をシリーズ探偵とし、ほぼ定型化された実にオーソドックスな本格なのである。ロジックとして強引なところが目につくが、このスタイルにこだわったことは素晴らしい。

 ただ、こだわりは評価したいのだけれど、続けて読んでいるとある欠点が気になってくる。ちょっと説明が難しいのだが、何というか語りに潤いがないのである。
 原稿枚数や文字数の制限はあったのだろうけれど、余計なものを排しすぎる、あるいは事実関係だけでストーリーが進むような感じ。文章自体は固くも古臭くもないのだが、遊びの部分が全体的に不足しているため、結果的には読みにくさが先に立つ。
 たとえば探偵役の園田郁雄教授にしても、その人物像についてはあまり説明もなく、その他のキャラクターもご同様。登場人物の説明に「ファイロ・ヴァンスに対するマーカム検事のような間柄」というのはダメだろう(苦笑)。
 身も蓋もない言い方をすれば、単に小説が上手くないということか。 もし制限を与えず自由にヴァン・ダインばりの長編など書かせていたらどんなものができたか、という興味はないでもないが、ううむ、やはり厳しいだろうなぁ。

 なお、水上幻一郎の読みだが、本書では「みずかみ・げんいちろう」とあるのが気になった。これまでの資料や文献ではほとんど「みなかみ・げんいちろう」とされていたはず。これ、今までの読みが間違っていたということだろうか。ご存知の方、御教授請う。


ピエール・ボアロー『死のランデブー』(読売新聞社)

 ピエール・ボアローの『死のランデブー』を読む。三十年ほど前に読売新聞社から出ていた「フランス長編ミステリー傑作集」という叢書からの一冊。
 読売新聞社の出版部門は、普段は翻訳ミステリなどまったく興味なさそうなふりをしているのだが、ときどき発作的にフランスミステリを出してくれる不思議な版元である。この「フランス長編ミステリー傑作集」もそうだが、他にもシムノンのノン・シリーズを出してみたり、名探偵エミール・シリーズとかを出してみたり。おそらくはフランスミステリの翻訳で知られる長島良三氏との関係だろうとは思うのだが。

 それはともかく『死のランデブー』である。まずはストーリー。
 毛皮卸商マルナン商会に務める会計係のジュリアンには不倫の噂があった。女からの電話があるたびに早退するジュリアンに業を煮やし、マルナン社長は探偵好きの若手社員ラウールにジュリアンを尾行するよう命じ、ラウールは見事ジュリアンと女の密会場所の一軒家を突き止めることに成功した。
 ところが翌日。ジュリアンがその一軒家で殺害されたらしいので、死体を確認してくれと警察から連絡が入る。マルナンとラウールが出かけると、そこにジュリアンの妻マルティーヌ、その従兄弟アシルも現れた。アシルはマルティーヌに惹かれるあまり、ジュリアン殺害事件を自分で解決しようと考え、ラウールに協力を依頼するのだが……。

 死のランデブー

 ピエール・ボアローがナルスジャックとコンビを組む前の単独作品である。ピエール・ボアローはフランスミステリとしては珍しく不可能犯罪にこだわった作品を書いていたが、トータルでの出来はまずまずといたっところで、コンビを組んだ後のほうが押し並べて評価は高い。
 とはいえ不可能犯罪にこだわるその姿勢は、フランスミステリにあってはなかなか貴重。
 本作ではなんと、著者自らこう宣うた。

「誰が?」でもなく、「なぜ?」でもなく、「いかにして?」でもない。にもかかわらず、ひとつの本格探偵小説なのである。

 このキャッチだけでミステリマニアなら読まずにはいられないところだが、ええと、腰砕けとまでは言わないが、残念ながらそこまで驚くほどの仕掛けではなかった(苦笑)。

 むしろ面白かったのは、実質的な主人公アシルの素人探偵ぶりと心理描写だろう。ジュリアン亡き後、なんとかマルティーヌのハートを掴みたいアシルだが、元来、そこまで積極的ではない内気な男性である。そんな彼の恋心と葛藤がなかなか細やかに描かれている。
 本作はシリーズ探偵のアンドレ・ブリュネルの登場する一編なのだが、実はブリュネルはラストまでほとんど前面に出てこない。あえてアシルを主人公として物語を引っ張らせるのは、上に挙げたような理由もあるのだろうが、一応はメインの仕掛けにつながるところでもあり、狙いは悪くない。

 これで物語の後味がよければもっと評価してあげたい作品だが、ううむ、なぜああいう形で締めくくったのか。そこが一番残念であった。


多岐川恭『濡れた心』(講談社文庫)

 多岐川恭のデビュー長編『氷柱』が思いのほか良かったので、お次は第四回江戸川乱歩賞を受賞した第二長編の『濡れた心』を読んでみる。

 こんな話。感受性に富んだ文学少女・御厨典子とスポーツが得意な南方寿利は同じ女子高に通う同級生。どちらも美貌の持ち主だが、神秘的でコケティッシュな雰囲気の典子、大柄で健康的な寿利と、タイプはそれぞれ異なるがそれ故か二人はいつしか惹かれあい、友情を越え、同性愛へと発展する。
 だが、独特の魅力をもつ典子には元から親友の小村トシ、その魅力に興味を抱く英語教師・野末、典子が幼い頃から心を寄せている自称許婚の楯らがおり、愛憎入り混じった人間関係が生まれていた。
 そして典子がある関係を断ち切ろうとしたとき、悲劇の幕は切って落とされた……。

 濡れた心

 ふうむ、これもいいぞ。乱歩賞を取っているから、そこそこ良い作品だろうとは思っていたが、『氷柱』同様、なかなか一言では表し難い魅力がある。
 まず注目すべきはそのテーマ。女子高生同士の同性愛というのは、今だったらそれほどの驚きもないけれど、1950年代後半でこれを題材にするのはけっこうな冒険だ。著者はそれを興味本位とかではなく、きちんと青春小説としても読めるぐらい掘り下げ、彼女たちの苦悩や喜びを丁寧に綴っていく。

 そしてその手段として用いられたのが、全編、日記と手記で構成されたスタイル。特に前半は典子と寿利の日記が交互に記され、二人の心情や交流が密に描かれる。
 ただ、序盤こそ二人の物語に見えるけれども、実は主役はあくまで典子であり、次第に典子を中心にした様々な愛憎劇を展開してゆく。同級生同士の同性愛はその中のひとつの枝に過ぎず、上でも紹介した典子の親友や英語教師、自称許婚、さらには二人の家族までも枝葉となり、典子とのドラマを形成してゆく。
 その様子が典子と寿利の日記から少しずつ判明するのだが、中盤から二人以外の日記も入ってくることでドラマとしては一気に加速するし、ミステリとしても明らかに叙述ネタを意識する構成となるため、あとはもう一気である。

 ただ、乱歩賞作品としてはちょっと粗さも目立つのが残念。
 ひとつは日記形式の割には「」での会話文を多用していること。もうひとつは銃の扱いに関する部分。前者はそこまで目くじら立てることもないのだが、問題は後者だ。中身を書いてしまうとネタバレにつながる可能性もあるので詳細は省くが、ちょっとひどいレベル。これらが時代ゆえ本当にその程度だったのなら著者に罪はないのだが……。

 という弱点も踏まえつつ、それでもトータルでは押さえておきたい一冊。
 それもこれも結局は小説としての満足度が高いからである。女子高生の同性愛などといえばエロ小説やら美少女小説、ラノベみたいなアプローチしかないようにも思えるが、きちんとそういう多感な年頃の女性心理を描き、それをミステリに融合させる試みはさすがの一言。
 ミステリとして弱い面はあるので『氷柱』よりは落ちるけれども、多岐川恭、ますますよろしい。


藤田知浩/編『外地探偵小説集 南方篇』(せらび書房)

 かつて「外地」と呼ばれた土地を舞台にした探偵小説アンソロジーのシリーズ第三弾、『外地探偵小説集 南方篇』を読む。
 一冊目が満州、二冊目が上海ときて、三冊目の本書は南方が舞台。エリアとしては少々ざくっとした感じだが、本書でいう南方は主に東南アジア諸国、つまりはフィリピン、シンガポール、インドネシアあたりを指し、第二次大戦までは欧米諸国の領土だった場所だ。
 荒漠とした満州、混沌に満ちた国際都市上海とはまた異なり、南方のイメージは熱帯特有のエキゾチシズム&猥雑さだろう。戦記物ならいざ知らず、そんな舞台が果たして探偵小説とどこまでマッチングするのか。そんな興味も含めて読んでみた。

 外地探偵小説集南方篇

山口海旋風「破壊神(シヴァ)の第三の眼」
北村小松 「湖ホテル」
耶止説夫 「南方探偵局」
玉川一郎 「スーツ・ケース」
日影丈吉 「食人鬼」
田中万三記「C・ルメラの死体」
陳舜臣「スマトラに沈む」

 収録作は以上。日影丈吉と陳舜臣はともかくとして、相変わらずこのシリーズはレア度が高い。今回は山口海旋風と玉川一郎がお初のはずで、耶止説夫(歴史作家・八切止夫の別名義)、北村小松、田中万三記もアンソロジー等で短編を読んだことがある程度。レアな作家揃いであることは間違いなく、もうこの時点で満足なのだが、さすがにそれでは終われないので以下感想など。

 「破壊神の第三の眼」はシンガポール海峡のロバム島を舞台にし、宝探しを軸に据えた戦記冒険もの。暗号で味付けをしているところがミソなのだが、そのミソがどうにも低レベルで残念。ただ、1939年という正にその時代に書かれたこと、比較的ボリュームがあることもあって、当時の日本人の南方感を知るには悪くない。

 北村小松の 「湖ホテル」は、フィリピンで起こった殺人事件を描く。日本人のホテルオーナーが容疑者として逮捕され、その危機を救うというものだが、これまた出来としては今ひとつ、いや二つ三つぐらいあるか。

  「南方探偵局」は日本による占領直後のシンガポールが舞台。探偵好きのOLが探偵事務所に就職したのはいいが、仕事がつまらないものばかりだと憤慨。兄の転勤に便乗してシンガポールにやってきては、探偵事務所を開業するという一席。
 内容的にはこれもハズレなのだが、探偵をあえて南方で開業するという設定に着目し、戦時中に探偵小説を書けなくなった日本の探偵小説界にダブらせたのではないかという解説が興味深い。

 玉川一郎の 「スーツ・ケース」は最後にとってつけたようなミステリ仕立てになっているが、その実はユーモア小説。戦時中の日本の愚かさを笑っているようなアイロニーに満ちた作品で、よくこういうものが書けたなと最初は驚いたが、実際に書かれたのは戦後ということで拍子抜け。同時代であればその意欲だけでも相当なものだが、やはりそう簡単にはいかない。

  「食人鬼」は日影丈吉の作品だけあってやはりモノが違う。戦時中にあった食人という問題にアプローチした作品だが、その事実云々ではなく、食人という噂を立てられた帰還兵の追い詰められてゆくさまを描いていてお見事。

 フィリピンのミンダナオ島を舞台にした「C・ルメラの死体」は、本書中で最も探偵小説らしいスタイルをとった作品だ。ミステリとしてのネタは大したことがないけれども、戦時中のフィリピンにおけるスペイン系の人々の生活が描かれ、そんな風土だからこそ発生した殺人事件を描いていて興味深い。南方という舞台と探偵小説がマッチングした好例。

 陳舜臣の「スマトラに沈む」は実在の作家・郁達夫を題材にしたノンフィクション風作品で、出来だけでいえば「食人鬼」と並んで本書の中では頭一つも二つも抜けている。
 ただし内容としてはいいのだが、1965年に発表した作品ということで、このアンソロジーに入れること自体が釈然としない。単に外地の事実を伝えるとか、もしくは南方が舞台のミステリを集めるだけなら、まったく書かれた時代にこだわらなくてもいい。あるいは外地に対する認識の変遷を伝えたいというなら、むしろ平均的に書かれた時代を散らすべきだろう。
 しかし、本書の編集の意図はそうではないはず。それなら戦時中のマイナー作品をわざわざ探し出す必要もないはずだが、本書はあえてそれをやっている。それは(推測にはなるが)あくまで戦時中にリアルタイムで書かれた作品でまとめ、同時代の空気や認識を伝えることの方が重要だからではないか。南方を舞台にする同時代の作品が足りなかったという理由は考えられるが、良質なアンソロジーだけにその点が余計惜しまれる。

 なお、本書の解説では第四弾の”大陸篇”が予定されている旨書かれているが、本書が出たのは六年前ということで、どうやらそれっきり立ち消えになってしまった可能性は高い。とはいえ上海篇と南方篇の間にも四年ほどあったはずなので、もしかするとまだ進行中の可能性もないではない。ううむ。期待したいところではあるのだが。


多岐川恭『氷柱』(講談社文庫)

 多岐川恭のデビュー長篇『氷柱』を読む。
 著者はデビュー当時から個性的なミステリを書いてきた作家だが、著作が多いことや途中から時代物をはじめとした他ジャンルで活躍したこともあって、ひと頃は単なる流行作家みたいなイメージもあった。
 だがもともとはミステリのマニア筋でも評価は高く、特に初期のものは傑作が多いと聞く。管理人もそのうちまとめて読もうかと思っていたら、あっというまにはやン十年。ようやく積ん読を消化する気になった次第である。(こんなのばっか)

 まずはストーリー。どこにでもあるような地方の小都市。そこに親から受け継いだ資産で、世捨て人のような生活を送る男、小城江がいた。何物にも情熱を持たず、その冷めた性格から、学生時代には"氷柱”という綽名までつけられていたほどであった。
 そんな小城江が散歩の途中で、轢き逃げされたと思われる幼女の死体を発見した。死んでいる以上、自分には何もできることがないとそのまま帰宅したが、女中の政に咎められ、しぶしぶ警察に通報する。
 そして翌日。新聞で事件に進展がないことを知った小城江は警察署へ向かい、自分が目撃・推察した情報を提供するが、その縁で被害者の母親、登喜子との交流が始まり、彼女の悲しい身の上と過去に起こった事件を知ることになる。
 やがて小城江の胸中に、これまでにない"何か"が芽生え、彼はある計画を企てるが……。

 氷柱

 多岐川恭の長篇を初めて読んだが、正直、こんなにひねくれた本格ミステリ、そのくせ実に味わいのある叙情的な作品だとは思わなかった。これは予想をはるかに超える収穫である。
 表面的には必殺仕事人というか一種の復讐譚と言っていいだろう。法では裁けない悪党に対し、独特のやり方で処刑を繰り返していく。しかし、ただの復讐譚ではない。普通のその類の物語とは大きく異なるポイントが二つある。

 ひとつは何といっても主人公の設定だろう。
 主人公の小城江は世捨て人、今で言えばニートのような存在であり、親の資産だけで日々をだらだら暮らす。 必殺仕事人などでもたまにこういうキャラクターはいるが、それは世を忍ぶ仮の姿。その実は正義感に燃えていたりするのだが、小城江の場合はリアルに虚無感に包まれていて、積極的に生きることに対しての欲望や喜びはない。
 その彼が、悲劇のヒロイン登喜子を身の上を知ることで何かが変わり始める。この心情の移り変わりがなかなか味わい深い。これで劇的に性格が変わるようならちょっと嘘くさいのだけれど、著者もその辺は焦ることなく、着実に描いていくのがよい。
 ただ、小城江も単なるだめ男なのかと思いきや、警察や悪党とのやりとりでは頭の良さだけでなく胆力も相当に座っていることが示される。このギャップは少々あざといのだけれども、物語の推進力としては必要な部分であり、暗い本作のなかでは非常に映えるシーンでもある。ここは素直に拍手を送りたい。

 さて、もうひとつのポイントは、本格ミステリでありながら、主人公の一人称で語られる復讐譚というスタイル。ハードボイルドや犯罪小説ならいざ知らず、このスタイルで本格ミステリに挑戦したというのが面白い。
 部分的なトリックなどはいまひとつながら、全体を通した仕掛けは悪くなく、珍しいタイプのフーダニットとして成立している。このスタイルだから主人公の設定がより生きてくるのだろうし、二つのポイントが相乗効果をもたらしている感じである。

 ということで本作は叙情的な本格ミステリとして、十分に満足できる一冊。多岐川恭の積ん読は相当にあるのだが、いや、これは楽しみが増えました。


L・A・G・ストロング『終わりのない事件』(論創海外ミステリ)

 論創海外ミステリから『終わりのない事件』を読了。
 著者のL・A・G・ストロングはミステリに限らず多ジャンルにわたって活躍した英国出身の作家で、むしろミステリの方が余技のようだ。森英俊/編著『世界ミステリ作家事典〈本格派篇〉』にはミステリ関係の著作として十作が紹介されているが、実はミステリ以外も含めると、その著作数は四十作以上にのぼる。
 わが国ではこれまで短編が幾つか邦訳されている程度だったが、本書によって初めて長編が紹介されたことになる。

 こんな話。英国はデヴィン州のとある村に、ロンドン警視庁の主任警部エリス・マッケイがやってきた。かつての同僚で今は地元警察署に勤めるブラッドストリート警部はエリスを歓迎するが、エリスは訪問の目的をあえて明かさなかった。ただ、村で何かが進行していることのみ示唆し、そしてそれに関係ありそうな村の人間を一人ずつ当たっていくのだが……。

 終わりのない事件

 先述のとおり『世界ミステリ作家事典〈本格派篇〉』でも紹介されていた作家なので、純粋な本格ミステリだと思っていたのだが、本書に関してはなかなか微妙な線を突いている。
 まあ、序盤で提示される手紙の謎など、どういう性質のものなのかはミエミエだし、全体を覆う雰囲気は間違いなく本格ミステリなのだが、実は謎解きそのものやロジックを楽しむ類の本格ミステリとはかなり趣を異にしている感じなのである

 というのも、本作には「探偵役がそもそも何を目的に捜査しているのかが明らかにされない」という大きな仕掛けがあるからである。
 この目的が本作の肝であることは間違いなく、終盤で明らかにはされるのだが、その肝心の部分にあまり謎解き的な興味が絡まないため、結果的に何か変わった本格ミステリを読まされたという印象を受けるのだろう。

 これは本格ミステリどうこう以前に、単純に物語としての面白さにも影響を与える。主人公たちが絡まないところで何やら事件らしきものは描写されるが、その事件らしきものがエリス警部の目的なのかどうかもわからず、中盤過ぎに至る結構な分量をどこかフワフワした感じで読まされる。これが許せるかどうかが評価の分かれ目だろう。
 ただ、本格ミステリだから決まり切ったスタイルで書かなければならないなどというルールはもちろんなく、著者の狙いは悪くないと思う。
 ちなみにエリス警部の目的(というか事件の真相)もかなり斜め上をいく感じで、中にはシラケける人もいるだろうが、これもミステリプロパーでないからこそ書けたことではないか。ストーリーとしては冗長なところもあるのだが、プロット自体は工夫されていて面白い。

 個人的に辛かったのは、実はそういうミステリ的な部分ではなく、探偵役エリス・マッケイ主任警部のキャラクター。
 有名な作曲家としての顔も持つ警部という設定はちょっとなぁ(苦笑)。加えて性格的にかなり軽く、初対面であってもほぼ軽口やジョークから入っていくというのもきつい。いや、いわゆる名探偵やB級ハードボイルドあたりの私立探偵だったらそういうのもアリだろうが、警官、しかも警部クラスでこれはない。

 まとめ。まあ欠点もいろいろ書いたが、全体としての仕掛けは珍しいものなので、これを捨ててしまうのはちょっと惜しい。クラシックミステリのファンなら一度は読んでおくべきか。


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プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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