すっかりマイブームになりつつある多岐川恭だが、本日は短編集『落ちる』をご紹介。管理人が読んだのは創元推理文庫版で、直木賞を受賞した河出書房新社版『落ちる』に初期の秀作三編を加えた、いってみれば多岐川初期短編の決定版である。
収録作は以下のとおり。
「落ちる」
「猫」
「ヒーローの死」
「ある脅迫」
「笑う男」
「私は死んでいる」
「かわいい女」
「みかん山」
「黒い木の葉」
「二夜の女」

おお、長篇だけでなく短篇も相当のレベルで満足度は高い。男女の愛憎や痴情のもつれがテーマになっている作品が多く、ともすれば二時間ドラマの素材的な安っぽい感じにもなったりするのだが、多岐川恭はものが違う。それらの材料をときにはシリアス、ときにはコミカル、さらには奇妙な味にも落とし込んだりと、バラエティ豊かに味付けして飽きさせない。
そもそも心理描写が細やかなので、どういうテーマを扱おうが、小説としてしっかり成立させてしまう力がある。著者自身も謎解きやトリック以前に小説であることを強く意識していたことを公言しているが、もちろんミステリとして物足りなければあえて読む必要もないわけで、多岐川恭もそう言いながらきちんとミステリとして両立させることには抜かりがなかった。
文学性とミステリの両立といえば連城三紀彦あたりがすぐに思い浮かぶが、あそこまで狙いすましたものではなく、ごく自然にわかりやすい形でまとめているのが多岐川恭のポイントだろう。比較するのもなんだが、この時代のミステリ作家は単純に作家としてのレベルが高くてよい。
以下、各作品の感想など。
表題作の 「落ちる」は自己破壊衝動に駆られる男の物語。妻に対する愛情が崩れ、猜疑心が一線を超えたとき……。ノイローゼの主人公というキャラクターが意外に魅力的で、生まれ変わるとまではいかないけれど、ラストで主人公の心境が一変するところは思わず拍手である。
「猫」は謎解きものとして見ればまあまあだが、サイコ的な犯人像が秀逸で、サスペンスとしては力作。犯人に狙われる女性主人公も飾り物のステレオタイプでなく、複雑な女性心理を打ち出しているところがお見事。
「ヒーローの死」は密室を扱った作品で出来はそれほど悪くないのだが、いかんせん他の作品に比べるとやや弱い。
個人的に本書中のベストといえるのが「ある脅迫」。なんというか、この設定の妙。小心者で冴えない銀行員が宿直の夜、強盗に襲われる。だが、その強盗が実は……。未読の方にはぜひオススメしたい奇妙な味の傑作。これ読まないのはもったいない。
「笑う男」も奇妙な味の部類に入るか。主人公は収賄事件の発覚を防ぐため、とうとう殺人まで犯した男である。犯罪隠蔽からの帰りの電車内、主人公はたまたま隣り合わせた男に、自分の犯した事件の推理を聞かされるはめになる。推理を聞かされながら一喜一憂する主人公が、物悲しいけれどどこかユーモラス。
殺されるのを待つだけの老人が主人公の「私は死んでいる」。甥夫婦とのやりとり、亡き妻との仮想会話シーンなど軽妙なやりとりが楽しいユーモアミステリである。
「かわいい女」は悪女もの。この作品に限らず、多岐川恭はこういうテーマが得意というかお好みというか。当時はこういう作品の需要も高かったのだろう。物語のもつサスペンスよりキャラクターありきといえる。
「みかん山」は再読だが、今あらためて読むとこれはバカミスの一種なのか。ミステリとしての評価は落ちるが、インパクトはなかなかである(笑)。
「黒い木の葉」は技巧とドラマががっぷり四つに組み合った好編。導入部の少年少女の淡い恋愛模様、その恋愛に反対する母親の物語に引き込まれていると、あっという間に少女が殺害され、今度は一転して関係者の事情聴取というスタイル。巧い。
「二夜の女」は温泉宿で出会ったある男女の恋愛と犯罪の物語。絵に描いたような二時間サスペンスドラマ調、といえば聞こえは悪いが、もうすべての放送作家が見習ってもいいぐらいお手本のような作品。先が読むやすいのが欠点だが、いや、むしろ先の読みやすさを含めてこその逸品である。