陳舜臣の『炎に絵を』を読む。著者のミステリはしっかりした本格であることも魅力だが、加えて自身の体験を活かし、神戸や中国人の文化を盛り込んだエキゾチックな世界観もまたよろしく、実にオリジナリティにあふれた作品が多い。
惜しむらくは作風が地味なところか。これまで何冊か読んでみたが、派手なストーリーやトリックとはあまり縁がない印象だった。
ただ、本作に関してはそんな評価はあたらない。噂には聞いていたが、ここまでトリッキーな作品であったか。今まで読んだ著者の作品のなかでは(といっても数冊だけど)、間違いなく最高傑作である。
まずはストーリー。
神戸支店への転勤を命じられた商事会社の会社員・葉村省吾。ところがそれを聞いた兄夫婦からもあるお願いをされてしまう。それは辛亥革命の際に革命資金を横取りしたとされる父の汚名をすすぐことであった。
兄と違い、父の記憶がほとんどない省吾。あまり気は乗らなかったものの、病床の兄の頼みでもあり、転勤先の神戸で父の関係者を調べ始めるが……。

革命資金の着服の調査という発端、加えて省吾は転勤先で企業秘密の液体を上司から内密に預かってしまうなど、それなりに期待を持たせる序盤ながら、意外と前半はまったり展開。社長が妾に生ませた、同僚でもある娘と恋仲になっていっしょに調査を進めたり、その調査も意外なほど順調に進むなど、正直、刺激は少ない。
雲行きが怪しくなってくるのは中盤以降である。
省吾の命が狙われたり、企業秘密の液体を盗まれたり、さらには父の行動が明らかになったり、トドメには遂に殺人事件まで発生する。
ただ、これらの変事がいまひとつ線にならず、読者としてはなにやらモヤモヤを抱えたまま読み進めることになり、まさにこれが著者の狙いだったのではないか。
そして終盤。それまでのモヤモヤが霧が晴れるようにすぅっと鮮明になり、驚くべき真実が浮かび上がる。
この流れの鮮やかさ、この衝撃。
当初はゆるく思えた物語に、こんな真相が待っていようとはさすがに予想できなかった。とにかく伏線の仕込み方がハンパではないのだ。特に『炎に絵を』という題名の意味、終盤にある印象的なセリフなど、ちょっと忘れられないインパクトがある。
もちろん完璧な作品というわけではなく、欠点もないではない。犯行そのものについては、正直そんなに上手くいくのかという無理矢理感、強引さがあるのだけれど、それを差し引いても著者の企みには拍手を送るしかない。
なんともいえない余韻も含め、今年の個人的なベストテンの一冊はこれで確定である。