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探偵小説三昧

日々,探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすブログ


Posted in 04 2019

「ムーミン展 THE ART AND THE STORY」@森美術館

 昨日、わざわざ高崎まで行って「ミステリー小説の夜明けー江戸川乱歩、横溝正史、渡辺啓助、渡辺温ー」展を鑑賞したせいか、今のうちに近場で行けるものは行っておこうという気持ちになり、本日は六本木の森美術館で開催されている「ムーミン展 THE ART AND THE STORY」を訪問する。

 ムーミン展内観

 メインは作者トーベ・ヤンソンが残した原画、スケッチの類。ムーミンの全著作ごとにそれらの絵を展示するという構成で、とにかくその膨大な数に圧倒される。
 トーベ・ヤンソンの原画は過去にも何度か展覧会で見たことがあるが、基本的に挿画として描かれたものが多いせいか小さいスケッチがとにかく多い。だが、その不満を埋めてくれるのが膨大な数なのである。しかも今回は著作の発表順に展示してあるので、ムーミンのデッサンがどういう具合に変化していったかもよくわかり、ナイスな構成である。
 また、イースターカードやアドベントカレンダー、銀行の広告などに描かれたムーミンの原画というのもボーナストラック的で実によい。実際、この類は初めて見るものばかりで大満足であった。

 ついでに書いておくと図録も素晴らしい。判型はやや小ぶりながらも上製本312ページ、綴じ込みまであって2千円はかなりお買い得だろう。だいたいムーミングッズはいつも割高感があるのだけれど、今回はかなり頑張ったといえるだろう(笑)。あと、昨日の「ミステリー小説の夜明け」展の図録がひどかっただけに、余計よく見えるところはあったかもしれない(苦笑)。

 ムーミン展パンフ&図録

「ミステリー小説の夜明けー江戸川乱歩、横溝正史、渡辺啓助、渡辺温ー」展@土屋文明記念文学館

 少しはゴールデンウィークらしきことでもと思い、天気がよかったので高崎まで車を飛ばす。目的は土屋文明記念文学館で開催されている企画展「ミステリー小説の夜明けー江戸川乱歩、横溝正史、渡辺啓助、渡辺温ー」展である。

 「ミステリー小説の夜明け」展

 最初は探偵小説と土屋文明もしくは群馬県との関連がわからず、「なぜここで探偵小説の企画展が?」と思っていたのだが、公式サイトなどによると、渡辺啓助が昭和二十年代に二年ほどを群馬の渋川で過ごし、そこで執筆や地元有志らとの同人活動を行なっていたらしい。なるほど渡辺啓助はわかったが、じゃあ実弟の渡辺温や乱歩、正史はどうなんだという話で、どう考えても渡辺啓助ではもたないから無理やり関係ある作家を引っ張ってきて、「ミステリー小説の夜明け」としてまとめた感は無きにしもあらず(苦笑)。
 まあ、堅いことは言いますまい。乱歩や正史クラスならともかく、渡辺啓助や渡辺温がこういう文学展で取り上げられること自体なかなか珍しいので、ここはありがたく鑑賞させていただく。

 展示内容はごくオーソドックスな文学展仕様である。作品が収録された雑誌や著書、直筆原稿などが中心だが、企画展そのものの規模が圧倒的に小さく、また、乱歩や正史関連ではほぼ新味がないのが残念。
 とはいえ先ほども書いたように渡辺兄弟関係のの展示は珍しく、そこがチェックポイントか。特に渡辺温の直筆原稿を生で見たのはおそらく初めてかもしれない(兄とは異なり、けっこう可愛い字を書く)。他では渡辺啓助のラジオ番組出演時の音声が面白かった。

 ということで展示内容については不満はいくつかあれど、まあこんなものだろうとは思うのだが、図録だけはお粗末だった。たった12ページ、しかも中身もパンフレットレベルで、これで金を取りますかというレベル。せっかく関係各位に協力を取りつけて実現した企画なのだろうから、もう少し内容と価格についてきちんと相場感を勉強してもらいたいものである。というか関係各位はこの図録の監修とかにはタッチしなかったのかしら?

 「ミステリー小説の夜明け」展パンフ

結城昌治『ゴメスの名はゴメス』(角川文庫)

 結城昌治の『ゴメスの名はゴメス』を読む。著者の代表作というばかりでなく、日本を代表するスパイ小説である。
 今回、管理人としてはン十年ぶりぐらいの再読になるのだが、当時はミステリといっても本格ばかりを読んでいた頃。正直、スパイものやハードボイルド、心理小説などの面白さはあまりピンときていなかったのだが、やはりこういうものはある程度、年を重ねないと、その本当の良さがわからないのかもしれない。
 まあ予想していたことではあるが、本作をあらためて読み、その面白さに驚嘆した。これは文句なしの傑作である。若いときの自分はいったい本書の何を読んでいたのやら(恥)。

 まずはストーリーから。
 時はベトナム戦争がまだ勃発する前の1961年ごろ。南北に分断されたベトナムにはその覇権をめぐってフランスやアメリカ、共産国が暗躍し、内戦状態にあった時代である。
 そんなベトナムのサイゴンに、日南貿易の社員・坂本が赴任した。それは通常の業務というだけではなく、失踪した前任者・香取の行方を捜すという目的も含まれていた。香取がベトナムに赴任している間、香取の妻・由紀子と不倫していた坂本は、複雑な思いを抱いてサイゴンを訪れる。
 さっそく香取の捜索をはじめた坂本だが、香取の情報が集まるにつれ、かえって疑惑は増えるばかり。それどころか坂本の周囲にも不可解な出来事が発生し、ついには自身も命を狙われる……。

 ゴメスの名はゴメス

 上にも書いたがもう一度書いておく。本作は間違いなく傑作である。
 設定や結構こそ確かにスパイ小説であり、もちろんその意味でも素晴らしいのだが、語り口や味わいはハードボイルドのそれで、これがまた実にいい効果を生んでいる。

 人捜しという前半の展開、失踪者の妻と浮気をしている主人公の複雑な心情、クセのある怪しげな登場人物たち……。それぞれの要素が実にハードボイルド的ではあるのだが、本作で特に注目したいのが、実はサイゴンという舞台である。
 ハードボイルドといえばどうしても欧米の舞台、たとえばロサンゼルスやニューヨークといった都市のイメージが強い。もちろん様々な人種・階級・境遇などが混在する大都市のほうが、単純に小説の舞台として使いやすいということはあるだろうが、それだけでもないだろう。
 ニューヨークであればクールな、サンフランシスコであればカラッとした、それぞれになんとなくだが自然風土や歴史も交えたイメージがあるわけで、それが時として作品全体のイメージになることまである。ここにサイゴンという街をもってきた著者は、スパイ小説を描きやすい舞台として選んだということだが、熱と湿気と猥雑さに包まれたサイゴンが、本作の混沌とした真相とも実にうまくマッチしている。
 これが日本のどこかであれば何か物足りない部分もありそうなところなのだが、強制的に国際化されるという悲しき歴史をもった街サイゴンだからこそ、スパイ小説としてもハードボイルドとしても機能しているのである。
 ただ、もちろんインターネットもなく、海外へも今ほど簡単に行けなかった時代である。著者は取材によってすべて描いたということだから、どうしても描写不足のところはあるのだが、そこは大目に見るべきだろう。むしろよくぞここまでという感じである。

 で、その混沌とした街で起こる混沌とした事件がまたいい。いや、事件がいいというよりは、事件に巻き込まれた各人のドラマがこちらの胸を打つのだろう。
 行方不明となった前任者・香取を調べる主人公は、香取に対して負い目を感じていることもあり、必要以上に事件にのめりこむ。ただ、所詮は一般市民なので主人公がどれだけ足掻ても限界があり、だんだんと苦しい立場に追い込まれてゆくが、それがさらに主人公を動かす力にもなる。こういう部分の積み重ねが著者はうまいのだよな。
 主人公以外にも印象的な登場人物は多い。なんせ登場人物のほぼ全員が裏と表の顔を持っているわけだから(苦笑)。なかでもある人物の抱える虚無感というか、心の空洞化が辛くて、裏の主人公といっていいかもしれない。

 ということで何度でも褒めるが、非常に満足ゆく一冊である。それほどのボリュームもないのに、これだけの満足感を与えてくれるのがすごくて、まさに無駄のない文章、磨き抜かれた文章の結果ともいえるだろう。そういった作家の技術を堪能するのも結城作品を読む楽しみのひとつといえる。


木々高太郎『スペクトルD線』(湘南探偵倶楽部)

 湘南探偵倶楽部さんから復刻された木々高太郎の『スペクトルD線』を読む。
 戦後間もない頃に二葉書店から刊行されていた少年少女向け雑誌『小学五年』(後半は『小学六年』)に六ヶ月にわたって連載されていたジュヴナイルである。六回分の連載とはいえ、児童誌ゆえたいした分量ではなく、全体では短めの中編といったところだ。

 スペクトルD線

 こんな話。弁護士の龍岡氏は夫人に娘の雪子、そして祖母と暮らす四人家族。ある日、夫人が雪子を連れて出かけたときのこと。夫人がちょっと目を離したすきに、雪子は川へ落ちてしまう。その危機を救ったのがたまたま川岸にいた少年、和泉朝吉だった。身寄りのない浮浪者同然の朝吉だったが、龍岡氏は感謝の念と朝吉の境遇に同情し、彼を引き取って育てることにする。
 その後、朝吉も立派な若者に成長し、雪子も結婚して可愛い娘が生まれたのだが、ある日、かつての悲劇が繰り返されようとしていた……。

 とまあ、粗筋など紹介してみたものの、実はそこまで大層な話ではない。一応は科学知識を活かしたミステリ的要素はあるけれども、まさかここまで事件性が少ないとは予想外であった。タイトルのインパクトがそこそこあるので、けっこう破天荒な話を期待していたのだが。

 ただ、気になって少し調べてみると、なんとなくその理由も納得できた。
 本作が連載されたのは昭和二十一から二十二年にかけてなのだが、この頃の出版界にはときならぬ児童誌のブームがあったという。日本の将来を、延いては平和と民主主義を、未来の子供たちに託そうというムーヴメントがあったからだ。そういった旗印を大々的に掲げる出版社も多く、必然的にその中身がすこぶる前向き&健全になっていったのは当然といえる。
 また、当時、出版に対してはGHQの統制があったのだが、そのなかで比較的スムーズに認可をとれるものが、やはり健全な内容のものに限られていたという側面もあったらしい。
 それらの状況が重なった結果、戦前に人気のあった少年探偵団のような刺激の強いものはまだ時期尚早であり、本作のような内容に落ち着いていったのかもしれない。

アメリア・レイノルズ・ロング『誰もがポオを読んでいた』(論創海外ミステリ)

 アメリア・レイノルズ・ロングの『誰もがポオを読んでいた』を読む。
 本作が本邦初紹介となるアメリア・レイノルズ・ロングだが、本格黄金期のちょい後ぐらいにデビューした本格ミステリの書き手である。もちろん読むのは初めてになるのだが、面白いのは解説に書かれた「貸本系アメリカンB級ミステリの女王」というキーワード。
 日本でも1950年代(昭和三十年前後)に貸本文化が栄えた時代があり、それ専門で活躍する作家も少なくなかったのだが、なんと英米でも1930〜40年代にかけて貸本が流行し、同様に貸本中心で活躍する作家がいたらしい。当時、英米の貸本小説で流行っていたミステリは、連続殺人やオカルト趣味、猟奇殺人などセンセーショナルなものが中心だったようで、このあたりはけっこう日本とも共通するところがあるかもしれない。
 まあ、そんな業界事情の中、人気を誇っていたのがアメリア・レイノルズ・ロングであり、本作もまた不気味な連続殺人を扱う内容となっている。

 こんな話。フィラデルフィア大学大学院でエドガー・アラン・ポオをテーマにした文学セミナーが行われることになった。ポオの研究者として名高いルアク教授のもと、聴講生として集まったのは現役院生ばかりでなく、ミステリ作家や教師、音楽家、図書館員など多彩な面々。
 そんなある日、教授はあるとき聴講生の一人がポオ直筆の詩「ユーラルーム」の完成稿の写しを偶然発見したことを知り、大学で買い取らせることにする。ところが写しが偽物ではないかという噂が流れたばかりか、それが盗難にあい、さらには殺人事件まで発生し……。

 誰もがポオを読んでいた

 大学を舞台にした連続殺人で、趣向はすこぶる魅力的だ。ただの連続殺人ではない。なんとポオの作品をネタにした見立て殺人である。「アモン・ティラードの酒樽」、「マリー・ロジェの謎」、「モルグ街の殺人」……という具合で、これにポオの手稿の盗難事件も絡めてくるあたり、興味をつないでいくテクニックはなかなか上手いものだ。

 もちろんポオの諸作品を読んでいるとより楽しめることは確かだが、基本的には見立て殺人と認識することが重要なので、必ずしも各作品をすべて読んでいる必要はない。ポオというモチーフを使ってはいるが文学的アプローチのようなものではなく、あくまで演出のための材料という感じである。ポオの手稿が本物かどうかというネタにしても、けっこう軽い処理だったりするし、そこは逆にちょっと残念なところでもある。

 こういったアプローチのライトさは他の点でも同様である。ミステリとしても本格とはいえガチガチのロジカルなものではないし、連続殺人を扱う割には語り口も全然シリアスではなく極めてライト。ひと昔前のアメリカの青春映画のようなノリといえばわかりやすいか。
 要はかなりライトな通俗ミステリなのである。これは別にけなしているのではなく、そういった意味ではまさしく貸本小説の王道だし、過度な期待さえしなければ、充分に楽しめる一冊といえるだろう。
 論創海外ミステリではすでにもう一冊、著者の本が出ているので、こちらも近いうちに。


山尾悠子『歪み真珠』(ちくま文庫)

 山尾悠子の掌編集『歪み真珠』を読む。
 まさにタイトルどおり。一般的な丸い真珠ではない、いびつだが個性的な美しさを備えた、この世に二つとないバロックパール(歪み真珠)のごとき作品を集めた一冊だ。
 まずは収録作。

「ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠」
「美神の通過」
「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」
「美しい背中のアタランテ」
「マスクとベルガマスク」
「聖アントワーヌの憂鬱」
「水源地まで」
「向日性について」
「ドロテアの首と銀の皿」
「影盗みの話」
「火の発見」
「アンヌンツィアツィオーネ」
「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」
「夜の宮殿と輝くまひるの塔」
「紫禁城の後宮で、ひとりの女が」

 歪み真珠

 以前に読んだ長篇『ラピスラズリ』もたまらなくよかったが、本書では山尾悠子の魅力がさらにストレートに伝わってくる。
 その魅力はやはり文章にあるだろう。それは学んだからといって書けるようなものではない。幻想的で一見、難解に見える題材をあたかも一枚の絵のように見せる描写のセンス。硬質ながらもその凜とした文体は圧倒的なオリジナリティをもつ。
 そして、そこから紡ぎ出される幻想的世界のなんと蠱惑的なことか。天使や女王、女神に蛙、人魚、双子……。ファンタジーによくある題材ではあっても、著者の手にかかると、これまで私たちが知っていた物とはまったく異なる魂をもち、異なる世界を作り上げる。

 どの話も素敵だが、個人的お好みでは「美神の通過」、「向日性について」、「ドロテアの首と銀の皿」、「影盗みの話」、「火の発見」あたり。
 とりわけ「向日性について」はまいった。何かの比喩かと思いきや、本当に向日性の世界の話で驚く。すなわち日のあたる場所では人々は活動できるのだが、いったん影の中に入ってしまうと静かに眠りに入ってしまう。このあまりに特殊でまったりした世界が、ほんの数ページの話なのに鮮烈なイメージで迫ってくる。変にストーリー性を与えず、このイメージだけで読ませる恐ろしき一篇である。


三津木春影『空魔團』(湘南探偵倶楽部)

 三津木春影は主に大正時代にかけて活躍した探偵小説家の一人である。もともとは自然主義文学を志していたようだが、押川春浪の『冒険世界』を手伝ったことがきっかけとなったか、探偵小説などの翻訳や創作を手掛けるようになった。
 残念ながら三十四歳という若さで亡くなったため、作家としての活躍時期は五年ほどと短いのだが、ルパンやホームズ、ソーンダイク博士などの翻訳・翻案は当時、かなりの人気を集めたようで、江戸川乱歩や横溝正史も少年時代に愛読したことがエッセイで書かれているほどだ。

 間違いなく探偵小説黎明期を支えた一人ではあるのだが、さすがに今ではほぼ読まれることもないのは仕方ないところだろう。とはいえデジタルライブラリーや青空文庫ではけっこうな数の作品が読めるし、作品社からはR・オースティン・フリーマンの「ソーンダイク博士」シリーズを翻案した「呉田博士」ものの全作品が収録された『探偵奇譚 呉田博士【完全版】』が2008年に刊行されている。
 ちなみに同書は限定千部ということだったが、喜ぶべきか悲しむべきかいまだに現役本であり、ネットでも買えるようなので興味のある方はお早めにどうぞ。管理人はリアルタイムで買ったものの、その分厚さになかなか着手できず、恥ずかしながらいまだに積ん読である。

 本日の読了本はそんな三津木春影の『空魔團』。こちらは湘南探偵倶楽部さんが同人版として復刻した、ノンシリーズの中・短編集である。収録作は以下のとおり。

「空魔團」
「海底電信船の少年」
「火山の麓」
「銀の十字架」
「海底戦争未来記」
「人間製造博士」

 以下、各作品のコメントなど。
 今回、ネタバレを含んでいるので未読の方はご注意を。

 空魔團

 巻頭を飾る中編「空魔團」は、空から正体不明の何物かが人間や動物を誘拐するという事件を描く。飛行船や気球あたりを使ったネタかと思いきや、途中で純粋に宇宙人(あるいは空中人か)による地球侵略ものSFであることに気付き、かなり驚いた。
 空中と地上の関係を、地上と海底に置き換えて説明する件が面白く、潜水艦の中に海水が入ると沈没する例を、飛行艇のなかに空気が入ることで墜落するという説明に当てており、この強引さが超楽しい(笑)。
 ツッコミどころ満載なのは当時のSFの常ではあるが、ボリュームがあるので本作だけでも相当お腹いっぱいになる。

 「海底電信船の少年」は、海底電信船で働く船員の不正を知った少年が、次々と命を狙われるというスリラー。何度もピンチに陥りながら毎度のように切り抜けてしまうのはいいけれど、けっこう偶然や他力に頼りすぎているのが何ともはや。もう少し少年自身の活躍を描いてほしかったところである。
 一応、最後は少年の頑張る姿に悪人が改心するというオチなのだが、これまでの殺人未遂が不問に付されるのはいかがなものか(笑)。

 「火山の麓」はある火山の麓に起こった怪異現象の謎を解く冒険探偵小説。本書中では数少ないオーソドックスな探知小説風の作品で、逆に新鮮である(笑)。

 「銀の十字架」は父の消息を追って樺太までやってきたモスクワ出身の少年の物語。父親の悲惨な最期を聞かされ、復讐の念に燃えるが日本人少年がこれを諫めるというラストなのだが、日本人少年の理屈がむちゃなため、ロシア少年が実に気の毒になる。後味悪し。

 「海底戦争未来記」は押川春浪を彷彿させる未来戦記物。内容のわりに短く、これはやや物足りない。

 「人間製造博士」はフランケンシュタインがモチーフか。主人公の元に逃げてきた人造人間だが、追いかけてきた博士によって無理矢理連れ戻されてしまう。博士の強力な兵器によって、人造人間も主人公もなすすべなく、連れ去られてお終いというラストがあまりに悲しい。そういう意味でこれも後味はかなり悪い。

 ということで、けっこうひどい話もあるが(特にオチが理解しがたいもの多数)、当時の探偵小説の息吹はかなり感じられる一冊。ミステリマニアを名乗りたいなら一度は読んでおくべきか(苦笑)。
 なお、ネット古書店ではまだ扱っている店もあるようなので、気になった方は「日本の古本屋」あたりで検索されるとよろしいかと。

ロス・マクドナルド『ファーガスン事件』(ハヤカワミステリ)

 ロス・マクドナルド読破計画を一歩前進。本日の読了本は長編十四作目の『ファーガスン事件』。これが最後のノンシリーズ作品である。

 まずはストーリー。カリフォルニアで弁護士を営むビル・ガナースンは、エラ・バーカーという若い看護婦の弁護を担当することになった。彼女は盗品のダイヤの指輪を古物商に売った容疑で逮捕されたのだ。警察は彼女が最近多発している強盗事件の一味だと睨んだが、彼女は警察はおろかガナースンにも一切を話そうとしない。
 しかし、古物商の男が殺されて状況は一転。彼女はラリー・ゲインズというフットヒル・クラブに勤める男からそれをプレゼントされたのだと告白する。
 ガナースンはゲインズの行方を追い、ファーガスンという富豪夫妻のもとにたどり着くが……。

 ファーガスン事件

 ロス・マクドナルドの転換期に書かれた本作。前作のリュウ・アーチャーもの『ギャルトン事件』ではいよいよ後期の重厚な作風を強く感じさせる一作ではあったが、本作ではいったん方向性を再確認するかのように、これまでの流れとは異なるスタイルを試しているところが目につく。
 例えばアクションシーンをふんだんに盛り込んでみたり、主人公の生活や家族を描いてみたり。大雑把にいうと、探偵の存在が希薄になっていく後期のアーチャーものに対し、本作はしっかりと探偵役のガナースンを前面に出して物語を動かしているというイメージ。
 ここからは推測だが、おそらく著者はそのほうが効果的にテーマを描けるかどうか試してみたというところではないのだろうか。これをアーチャーものでいきなりやられると戸惑うが、ノンシリーズで、ということであればもちろんOK。そんなことは著者の方が百も承知だろう。

 事件そのものは相変わらず上手い。物語の序盤こそ看護婦の無罪を証明するためにラリー・ゲインズという男を追うという流れだが、事件の核心はいつしかファーガスンの新妻ホリー・メイへ。例によって途中からかなり複雑な事件であることが予想でき、そこからが著者の腕の見せどころである。
 複数の流れをきちんと収束させ、終盤ではかなり驚かされる場面も二回ほどあり(これがまた巧い!)、しかもラストの余韻も悪くない。

 ということで後期傑作とまではいかないまでも、全体としては充分に楽しめる一作。アーチャーものでは味わえない、家族のために戦うという主人公が見られるのも大きな魅力のひとつだろう。


ドット・ハチソン『蝶のいた庭』(創元推理文庫)

 ドット・ハチソンの『蝶のいた庭』を読む。本書が日本初紹介となるが、昨年の「このミステリがすごい!」や「ミステリが読みたい!」など、いくつかのベストテンでランキング入りを果たし、気になっていた作品である。

 ある猟奇的な事件が解決した。〈庭師〉と呼ばれる犯人は、蝶が飛び交う楽園のような場所〈ガーデン〉を造り、そこに長年にわたって多くの女性を拉致監禁していたのだ。
 しかし、監禁されていた女性たちはなぜか事件について多くを語ろうとしない。FBIの特別捜査官ヴィクターは、被害者の一人である若い女性マヤの事情聴取に取りかかり、その猟奇的な事件の全貌を聞き出してゆく。それは経験豊富なFBI捜査官ヴィクターをしても、かつて聞いたことのないおぞましい犯罪だった……。

 蝶のいた庭

 ううむ。誰しも経験はあるだろうが、世評と自分の感想が大きく離れることがあるものだ。本書がまさにそれで、正直、そこまで傑作だとは思えなかった。

 ただ、世間の評価が高い理由はよくわかる。
 何といっても蝶のコレクションをそのまま人間に置き換えた猟奇的犯罪は、おぞましいと同時に美しく、かつエロティックなイメージをかき立てる。それを扇情的に描くのではなく、若い女性にかぎりなく静謐に語らせることで、逆に不気味さを増大させ、独特の世界を醸し出している。
 残酷な事件ではあるけれど、事件が解決していることから主人公マヤはもう大丈夫だという安心感もプラスに働く。そのうえで、事件の細部はどうだったのか、彼女たちはどうやって助かったのか、マヤはなぜ事件を積極的に話そうとしないのか、それら多くの興味で引っ張ってゆく手際もなかなか。おまけにラストで、かなり意表をつく真相が語られ、しかもこの手のミステリにしては後味も悪くない。
 これだけ褒めておいて、おまえは何が不満なんだという話である(苦笑)。

 それでも本作が管理人的にあまり感心できないのは、リアリティの欠如によるところが大きい。
 〈庭師〉が大富豪とはいえ、ここまで大掛かりで特殊な施設を作ってまで危険を犯すリアリティ。この種の犯罪にコントロールが難しい"仲間"がいることのリアリティ。精神的に支配されているとはいえ、行動がある程度自由な女性が二十人以上いるのに〈庭師〉に対抗できないというリアリティ。つまりは多数の女性を長年にわたって監禁するという、この大胆な犯罪についての説得力に乏しい。
 昔の変格探偵小説のようなものか、あるいはファンタジーかホラーであれば、そこまでこだわるところではないのだが、本作は結局、ラストで現代ミステリという枠にきちんと落とし込まれているので、どうしてもそういう部分が気になってしまう。繊細なイメージで読ませるから、一見、説得力はあるように思えるけれど、プロットや骨格についてはけっこう適当、というと言葉は悪いが、感覚だけで流している印象を受けてしまった。

 もしかすると本作の主人公=語り手は、〈庭師〉の方がよかったのではないか。
 著者はマヤを主人公にすることで、ガーデンのもつ美しさ+怖さを際立たせようとしたのだろうが、〈庭師〉をもっとクローズアップして、より人間の闇を深く描くほうが効果的だったような気がする。

 ちなみに本作はThe Collector Seriesとして続刊がすでに三冊も出ているようだ。おそらく邦訳は出るだろうし、以後の作品がどういう方向性でくるのか気になるところなので、何だかんだ書いたけれど、やはり読むことにはなりそうだ。


ジョン・ロード『クラヴァートンの謎』(論創海外ミステリ)

 何度かこのブログでも告知したけれど、論創海外ミステリから出たジョン・ロード『クラヴァートンの謎』で解説を書かせていただいた。幸い、作品自体はまずまず好評のようでよかったが、やはりクイーンやクリスティのようなメジャー作家ではないため、そもそも取り上げられること自体が少ないのが残念。
 というわけで今回は宣伝も兼ね、版元の了承を得て、解説を転載させていただくことにした。

※本稿では『クラヴァートンの謎』のトリックに言及した箇所がありますので、未読の方はご注意ください。

 クラヴァートンの謎

「ジョン・ロード再評価の機運を高める傑作」

 本作の刊行を待ち望んでいたクラシックミステリのファンも多いのではないだろうか。一昨年に〈論創海外ミステリ〉から刊行された『代診医の死』が、実に素晴らしい傑作であったことはまだ記憶に新しいが、さらには立て続けにマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』も刊行され、これまた悪くない一作で、著者の株が一気に上がったことは間違いない。我が国でもこの二作から紹介されていれば、その後の翻訳事情もまたずいぶん変わっただろうにと思わずにはいられない。
 『クラヴァートンの謎』(原題:The Claverton Mystery)はジョン・ロードが一九三三年に発表した長編本格ミステリである。数学者ランスロット・プリーストリー博士を探偵役にしたシリーズの一作。

 四十代後半以上の方なら同感していただけるかと思うが、インターネットが発達していなかった昭和の時代、海外ミステリに関する情報は本当に少なかった。
 英米から原書を取り寄せるようなディープかつ語学堪能なマニアならいざ知らず、一般のミステリファンはせいぜいが「ミステリマガジン」や「EQ」(光文社が一九七八年~一九九九年に発行したミステリ総合誌)といった雑誌を読むぐらいである。しかもいかんせんそれほどの需要もなかったのだろう、都会の大書店でもないかぎり入手は難しく、地方ではその存在すら知らない人も多かった。
 そんな状況で、唯一、頼りになったのがミステリの入門書やガイドブックの類である。これが当時はけっこういろいろな出版社から刊行されており、これを参考にミステリを読み進めていった人も多かったのではないだろうか。ざっと思い出すだけでも『世界の推理小説・総解説』中島河太郎・権田萬治(自由国民社)、『推理小説入門』九鬼紫郎(金園社)、『探偵小説百科』九鬼紫郎(金園社)、『世界の名探偵50人』藤原宰太郎(KKベストセラーズ)、『推理小説の整理学』各務三郎(かんき出版)などが挙げられる(余談だが、普段はミステリと縁のなさそうな版元ばかりというのが面白い)。
 紹介されている作品はまさに定番中の定番ばかりだったが、それでも当時田舎に住んでいた少年(筆者)には、これらの入門書が実に参考になり、ヴァン・ダインを皮切りにエラリー・クイーン、F・W・クロフツ、アガサ・クリスティ、コーネル・ウールリッチ、ダシール・ハメット等々、クラシックの代表作を読むことができた。また、内外のミステリ史、ジャンルの違い、トリックなど、ミステリに関する一般教養もこれらの本で身につけていった。なかには藤原宰太郎の入門書などのようにネタバレ満載のものまであって、呆然としたこともあったけれど。

 こんな感じで振り返ったのも、もちろん本書の話と無関係ではない。これらの入門書は代表作ばかり紹介されているので、その後、ほとんどの本は読むことができたのだが、なかにはどうしても読めない作家や作品があった。
 単純に邦訳が少ないとか、絶版で入手が困難だったせいだが、そういった作家の一人に本書の著者ジョン・ロードがいた。
 当時の紹介でも、英国のミステリ黄金時代を代表する本格ミステリの書き手だとか、プロットやトリックにも工夫を凝らしているとか、しかも著作は八十作あまりもあるとか、おまけに英国ミステリ作家の親睦団体〈ディテクション・クラブ〉を設立した中心的メンバーでもあるとか、まあとにかく華々しいかぎりである。そのような素晴らしい作家の作品がなぜ日本で読めないのか、当時は本当に不思議であった。
 ちなみに英米文学の評論家・植草甚一氏は東京創元社〈現代推理小説全集〉第6巻『吸殻とパナマ帽』(一九五八年刊)の解説で、ジョン・ロードの翻訳が進まなかった理由を挙げていて興味深い。それによると、当時、日本における海外作品の紹介者たちはポケット版に頼っていることが多かったが、当時ポケット版といえばアメリカの出版社によるものが中心で、そのポケット版でジョン・ロードが出ていなかったことが大きいという。また、本国イギリスの出版社にしても、そもそも日本との取引が少なかったことも影響したらしい。これはE・C・R・ロラックなど、他の英国作家も同様だったという。

 ともあれ時代は変わった。本書を買うような読者の方々なら先刻ご承知だとは思うが、クラシックミステリの復権というムーヴメントが起こり、多くの幻の作家、作品が紹介される時代になったことは誠に慶賀の至りである。ロードの作品もぼちぼちと刊行されはじめ、品切れだった作品も復刊されるようになる。
 ただし、そこで新たな問題が起こる。

「ジョン・ロードって、面白くないよね?」

 なんということか。
 確かにジョン・ロードの作品は非常にわかりやすい弱点がある。英国のミステリ作家であり評論家でもあるジュリアン・シモンズが「退屈派」というレッテルを貼ったことはよく知られているが、これらは主にストーリーの単調さや地味さ、人物描写の平坦さを指し、早い話が小説として面白くないといったわけだ。
 人によってはトリックの古さ、あるいは素人が推理できないような専門的知識を必要とするトリックを使うことを欠点として指摘する人もいるだろうが、物理的トリックに関しては経年劣化はある程度やむを得ないところがあるだろう。専門的知識が必要なトリックもケース・バイ・ケース。要は使い方次第である。そもそもすべての作品に共通した課題というわけでもないので(まあ多いのは確かだが)、トリック方面についての指摘はちょっと脇に置いておくとして、やはり一番の問題はストーリーなのだ。
 本書の訳者であり海外ミステリの研究家でもある渕上痩平氏によると、特に後期の作品ほどその傾向が強いようで、【事件発生~警察の捜査~推理と議論~新たな手がかり~さらに繰り返される推理と議論】という展開がそれほど起伏もなく続くパターンは、既訳の作品でも目立つところだ。
 ただ、本当にロードの作品は退屈なのか? 筆者も実はロードを読み始めた頃はそういう印象を持っていたのだが、この数年に刊行された『代診医の死』や『ラリーレースの惨劇』、『ハーレー街の死』、あるいはマイルズ・バートン名義の『素性を明かさぬ死』、古いものでは評価の低い『電話の声』や『吸い殻とパナマ帽』をひととおり読んでみて、その認識はずいぶん変わってきた。
 そもそもロードの作品を退屈とする人は、何をもって退屈というのだろう。「退屈」とは対象への関心を失った状態であり、逆に関心を持った状態は「熱中」と表現することができる。では何故に熱中できないかといえば、ミステリに期待する興味や刺激の欠如があるから、と考えることができるだろう。
 では、ミステリに期待する興味や刺激とは何か、ということになる。
 ここが難しい。昨今のミステリともなれば、その価値観は非常に多様化しており、人が求める刺激もまた多様化する。とはいえミステリはミステリ。かつて江戸川乱歩が定義した「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」(『幻影城』より)というのは、現代のミステリに照らすとやや狭く感じはするが、エッセンスはそこに集約されるといってもいいだろう。
 そしてジョン・ロードの作品は、そういうミステリとして要のポイントを押さえた、まさに王道のミステリなのである。余計な虚飾を排して、冒頭の謎をあまりこねくり回すことなく、その謎が解かれる過程を楽しむことにこそ興味が置かれる。ロードの工夫や努力もそこに向けられている。ただ、その結果として物語の余裕とか潤いとでもいうものをかなり犠牲にしている感はあり、それが退屈派と呼ばれた原因にもなっているのだろう。
 だから、そういう欠点が多少なりとも目立たない作品、あるいはそういう欠点を踏まえつつもよりインパクトのある要素を備えた作品は決してつまらなくはない。むしろ本格ミステリ本来の愉しみをゆったりと味わえる作品となっているのである。

 さて、そこで『クラヴァートンの謎』である。
 本作は『代診医の死』も翻訳した渕上痩平氏が『代診医の死』、『ハーレー街の死』と並び、ジョン・ロードのベストスリーに推すほどの作品ということだったので、余計に期待が高まったが、確かにそれに値する傑作といえるだろう。

 プリーストリー博士は体調がすぐれないという旧友クラヴァートンの屋敷を訪れるが、そこにはクラヴァートンの世話をする姪、その母親でクラヴァートンの妹、そしてときおりクラヴァートンを見舞う甥の三人がいた。歓迎ムードからは程遠いなか、クラヴァートンとようやく話ができたものの彼もまた様子がおかしい。当惑したまま主治医のオールドランド医師とともに暇を告げたプリーストリー博士だったが、家に立ち寄ったオールドランド医師から思いもよらない話を聞かされる羽目になる。なんとクラヴァートンは六週間ほど前に砒素を飲まされたというのだ。
 状況からして怪しいのは当然、三人の親族。あらためて翌週にクラヴァートンを訪ねたプリーストリー博士だったが時すでに遅し。クラヴァートンは容態が急変し、死亡してしまったのだ。だが検死の結果、砒素はおろか何の毒物も検出することはできなかった。死因は胃潰瘍の突然の悪化による胃の穿孔だというのだ。
 やがてクラヴァートンの遺言が発表されるが、それは遺族の思いも寄らない内容であった……。
 
 先に挙げたロードの弱点がほぼ払拭されており、「退屈派」などとは決して呼ばせない読み応えのある作品である。
 メインとなる謎は、どうやってクラヴァートンを殺害することができたのか。ひと言でいえばハウダニットものの毒殺ミステリなのだが、そこに遺産相続に関連する疑惑、砒素による殺人未遂、さらには後半で起こる銃撃事件を絡めて、少ない人数ながらなかなか真犯人を絞らせない工夫が見事である。プロットにはもともと定評あるロードの本領が発揮されているところだ。
 また、そういった事件を複数用意したことで、他の作品で顕著だったストーリーの平坦さが完全に解消され、とにかく物語が快適に進んでいく。とりわけ第十二章の展開は盛りだくさんで、そこからラストの降霊会のシーンまでは一気。推理や議論も他の作品ほどくどくはなく、いつになくサービス満点である。後期に目立つパターン化された展開とはまったく無縁なのだ。
 もうひとつ他の作品との大きな違いをあげると、登場人物の描写にも注目したい。そもそもプリーストリー博士のシリーズとはいえ、博士の登場シーンが土曜の例会や、終盤の謎解きシーンだけだったりということも少なくはない。事実上の主人公は捜査を担当する刑事が務めていたりするため、プリーストリー博士に対する読者の熱量もそれなりにしかならない(脇役扱いでも癖のあるキャラクターであれば話は別だが)。ところが本作ではプリーストリー博士が出ずっぱりである。友の仇を討つべく殺害方法を見破りたいのだが、なかなかその答えが見つからず、考え、悩み、動き回る。そういう喜怒哀楽を見せるプリーストリー博士の姿は実に新鮮で、それだけでも本作は読む価値がある。
 プリーストリー博士だけではない。のちに土曜例会のメンバーとなるオールドランド医師ががっつりと事件の当事者となっているのも興味深い。単にクラヴァートンの主治医というポジションかと思っていると、序盤での怪しげな行動、そして語られざる過去のエピソードなど、これまた目が離せない。どんな内容かは本書でご確認いただくとして、ここではワトスン以上の役割だと書いておこう。

 もちろん百点満点というわけではない。思わせぶりすぎる描写やネタバラシが早いかなと思う箇所もあったりするし、メイントリックにも専門性が入ってしまい、普通の人が見抜くのは正直難しいと思う。
 ただ、伏線はきちんと貼るし、可能性について何度も推理して掘り下げるのはロードならでは。そのため(実際にはロジックの詰め切れていないところもあるのだけれど)、真っ当な本格を読んだという満足感のほうがはるかに大きく、十分にお釣りのくるところではないだろうか。
 ジョン・ロードの未訳作品はまだ百作以上残っているわけだが、全部とは言わないけれど、さらなる傑作の紹介が進むことを祈るばかりである。

※論創海外ミステリ『クラヴァートンの謎』より転載


ジョルジュ・シムノン『メグレの退職旅行』(角川文庫)

 ジョルジュ・シムノンのメグレ警視もの短編集『メグレの退職旅行』を読む。
 以前に読んだ『メグレ夫人の恋人』という短編集は、『Les Nouvelles Enquetes de Maigret』(メグレ最新の事件簿)という短編集からセレクトしたものだったが、本書も同じ短編集から採られている。
 どういう基準で作品が分けられたのかは不明だが、強いていえば『メグレ夫人の恋人』では比較的トリッキーな作品が多かった印象。かたや本書では、メグレが事件や関係者、さらには自らを取り巻く環境に振り回される姿を描いた作品が多い。
 メグレの定年退職前後の作品が三作ほど混じっているのもその感を強くしており、メグレの心情の移ろいみたいなところが楽しめる短編集といえるだろう。まあ、ミステリ的には『メグレ夫人の恋人』のほうが上とは思うが、これはこれで面白い。
 収録作は以下のとおり。

Monsieur Lundi「月曜日の男」
Rue Pigalle「ピガール通り」
La Vielle dame de Bayeux「バイユーの老婦人」
L'Étoile du Nord「ホテル北極星」
Mademoiselle Berthe et son amant「マドモワゼル・ベルトとその恋人」
Tempête sur la Manche「メグレの退職旅行」

 メグレの退職旅行

 以下、各作品について簡単なコメントなど。
 バリオン医師宅の女中が不審な死を遂げ、その捜査を描くのが「月曜日の男」。死因はエクレアに忍ばせたライ麦の芒によるものだったが、そのエクレアは毎週月曜日に医師宅にやってくる老人が子供に与えたものだった……。
 それほど凝ったネタではないけれど、一応、捻りはあるし、何より犯人のキャラクターに今風の怖さがある。最後の一行もなかなか効果的だ。

 「ピガール通り」は一幕ものの芝居のような雰囲気。匿名の電話を受けたメグレが店に着くと、そこにはギャング同士のいざこざがあった形跡が。誰もが口を濁すなか、遂には死体が発見され……という一席。地味ながら独特の緊張感で読ませる。

 ミステリ的な面白さでは「バイユーの老婦人」が本書中のピカイチか。
 地方都市カンに派遣されたメグレは、老婦人に話し相手として雇われていた女性の訪問を受ける。老婦人が死亡したが、殺人の可能性がるので調べてほしいという……。

 「ホテル北極星」はメグレが退職二日前に遭遇したホテル北極星での事件を扱う。被害者のもとにはストッキングが残されており、その持ち主を探すメグレだが……。
 若い娘に振り回されるメグレのイライラが見もの。コミカルなメグレものはなかなか貴重で印象深い一作。

 『マドモワゼル・ベルトとその恋人』はメグレ退職後の物語。メグレのもとに助けを求める手紙が届くが、その差出人はなんとリュカの姪。犯罪を犯したかつての恋人に迫られているというのだが……。
 リュカの若い姪に対するメグレの心理や言動が読みどころだが、メグレものには珍しく、スマートイメージの作品。後味もいい。ただ、作中でリュカの死がさらっと明らかにされるのが悲しい。
 
 ラストを飾るのは文字どおり「メグレの退職旅行」中に起こった事件。嵐のためにペンションで足止めをくらったメグレ夫妻が殺人事件に遭遇する。
 すっかり観察力もやる気も鈍ってしまったメグレは、端からみても精彩がなく、おまけにこの作品でも女性相手に気苦労が絶えない感じである。「ホテル北極星」などのように、こういうのはユーモラスに描いてほしいところだが、タッチは暗めで読んでいて切なくなってしまう。ただ、最後はしっかり決めてくれてひと安心。


西條八十『西條八十集 人食いバラ 他三篇』(戎光祥出版)

 クラシックミステリの復刻が定着してずいぶんになるが、ついにここまで来たかという感じなのが、戎光祥出版が始めた「少年少女奇想ミステリ王国」というシリーズ。
 編者として参加している作家の芦辺拓氏が、ジュヴナイルにいろいろと注力しているのは、ちょっとしたミステリファンならご存知だろう。この「少年少女奇想ミステリ王国」は、そんな氏のジュヴナイル研究のひとつの成果ということになるのだろうか。ともあれ、またひとつ魅力的なシリーズが始まったことだけは確かだ。

 西條八十集 人食いバラ他三篇

 さて、その魅力的なシリーズの先陣を切るのが『西條八十集 人食いバラ 他三篇』である。
 詩人・作詞家として知られる西條八十だが、実は多くの少女小説も残していた。興味深いのは、戦前はけっこう正統派の甘い少女小説を発表していたのに、戦後になると大きくミステリ寄りに作風が変化したことだろう。
 乱歩等の冒険探偵小説に影響を受けた可能性はあるのだが、そのインパクトたるや、同時代、同ジャンルの他作品に比べても、明らかに群を抜いている。ジェットコースター並のストーリー展開、怪しすぎるキャラクター、ぶっとんだ真相……その面白さは、ゆまに書房から2003年に復刊された『人食いバラ』 でも既に証明されているとおりだ。

 本書ではそんなミステリ系の作品から四作がセレクトされている。短編集ではない。ジュヴナイルとはいえ、なんと中編・長編クラスが四作という豪華ラインナップ。

「人食いバラ」
「青衣の怪人」
「魔境の二少女」
「すみれの怪人」

 収録作は以上。もうタイトルからしてヤバイ(笑)。
 まあ中身も相当なもので、あまり真面目に感想を書くのも憚られるぐらいなのだが、一応ミステリ読書系サイトなので、各作品の感想を記しておこう。なお、「人食いバラ」のみ、ゆまに書房版『人食いバラ』の感想を参照のこと

 「青衣の怪人」はゴシックロマン風ミステリ。孤児院で育った少女が、なぜか高額の報酬でお屋敷の老女の話し相手として雇われる。しかし、屋敷内には怪奇な事件が立て続けに起こり、カエルのように青い服をまとった怪人も出没する……。
 不遇の少女が危険な目に遭いながらも最後は幸せを手に入れる。これはまさに少女小説の王道なのだが、そのストーリーは普通の少女小説とは比べものにならないほど破天荒である。
 本来だったらボーイフレンドあたりが活躍する展開もありそうだが、探偵役を担うのはなんとヒロインの親友の少女。怪人のキャラクターなども含め、そういう設定の妙も読みどころか。

 「魔境の二少女」は打って変わって秘境冒険もの。父親とともに珍しい花を求めてジャングルに向かうヒロインとその一行。そこへ旅を共にしたいと飛び込んできたのが、何やら曰くありげなフランス娘。はてさて二人のヒロインの運命は……という一席。
 こういう秘境ものになると、「青衣の怪人」ではかろうじてキープされていた物語上の制約もすでに皆無。ほぼ着地点が見えないまま、どんどん予想だにしないストーリーが展開されてゆく。もちろん最後はハッピーエンドでお腹いっぱいである。

 「すみれの怪人」は個人的イチ押し。主人公・町子は中学生の少女ながら個人事務所をかまえて人々の困りごとを解決する、いわば私立探偵のような存在、ってこの設定からすでに腑に落ちないのだが、そこに叔父の名刑事やルパンもどきの義賊“すみれのジョオ”が絡み、さらにはギャングたちとの抗争もはじまって、息をもつかせぬ怒濤の展開である。
 町子と“すみれのジョオ”とのロマンスを期待できるのかと思っていると肩透かしを食らったり、ラスボスと思っていた敵の親分・大山が予想外のキャラクターだったり、まったくもって想定外のストーリーが展開されるのが圧倒的魅力である。

 ということで個人的嗜好による補正があるものの、大変けっこうな一冊でありました。今後、「少年少女奇想ミステリ王国」には野村胡堂や高垣眸が予定されているということだが、ぜひ順調に続いてほしいものだ。


レオ・ペルッツ『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』(ちくま文庫)

 レオ・ペルッツの『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』を読む。
 数々の幻想的な歴史小説を残し、今ではカルト的な人気を誇るペルッツだが、本作は幻想要素一切なしの冒険小説的な一冊。

 まずはストーリー。
 時は第一次世界大戦も終盤に近い頃。オーストリアの陸軍少尉ヴィトーリンはロシアの捕虜収容所から仲間とともに解放された。しかし、収容所の司令官セリュコフから収監中に受けた屈辱を忘れることができず、ヴィトーリンは仲間と復讐計画を企て、ロシアへ舞い戻ることを決意する。
 しかし、日常に舞い戻った仲間たちは今更ロシアへ戻ることなど考えるはずもなく、ヴィトーリンは一人でロシアを目指す。だが、ロシアも革命後の混乱した時期であり、ヴィトーリンは仇敵を求めて果てしない旅を続けることになってしまう……。

 どこに転がっていくの、林檎ちゃん

 かのイアン・フレミングが「天才的」と大絶賛したという作品だが、確かに普通の冒険小説とは違った面白さに満ちている。幻想要素一切なしとは書いたが、コロコロと変わる当時の政情、それに振り回される主人公の運命……とにかくこの先がどうなるかわからない冒険譚はワクワクもするが、同時に奇妙な味にも包まれていて独特の味わいがある。

 切実に伝わってくるのは、やはり国家と個人の関係の脆さだろう。当時のロシアをはじめとしたヨーロッパでは国家の在り方ばかりでなく政治思想なども含めて急激な変化がある。まさに明日はどうなるかわからない状況。
 タイトルの「どこに転がっていくの、林檎ちゃん」は、主人公の数奇な運命を指していると同時に、そういう危うい国家の情勢をも示している。個人の意思や信条などはほとんど意味をなすことなく、一般人はもとより軍人、テロリストに至るまでが運命に翻弄される過酷な現実を教えてくれる。

 そんな状況において、主人公ヴィトーリンのドンキホーテ的生き方は異常である。ヴィトーリンこそがそういった政情にもっとも振り回されているはずなのだが、どんな苦難に直面しようとも、彼の復讐の念はまったくぶれることがない。
 それは決して賞賛されるようなことではない。復讐したい気持ちはわかるし、同情する気持ちも起きるが、その異様な熱量の高さが、読む者にかえって薄ら寒さを感じさせるのだ。
 ヴィトーリンの周囲の人間も、それは同様である。収容所から解放された直後こそ仲間も復讐を口にするが、いったん取り戻した平和を捨ててまで、誰も戦場へと戻りたくはない。前線で活動する者たちですら、個人で行動を起こすヴィトーリンが理解できないでいる。挙句、彼に関わったがために不幸に陥ってしまう人々。ヴィトーリンは果たしてどこまで転がっていくのか。

 ヴィトーリンをそうさせた大きな要因が、結局、時の国家や政情にあると考えるのも、あながち間違いではないだろう。そういう意味では収容所の司令官はスケープゴートであり、たまたまヴィトーリンの身近にいた生け贄なのだ。だからヴィトーリンが最後に得るものは無常感でしかなく、個人と国家の関係が変わらなければ、ヴィトーリンに真の安らぎは戻ってこない。
 そう考えると決してヴィトーリンの物語は単なる歴史物語ではなく、現代に生きる我々にとっても人ごとではないのである。静かなラストがむしろ怖い。


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sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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