Posted in 08 2023
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アン・クリーヴス『哀惜』(ハヤカワ文庫)
以前にSNSで創元推理文庫から出ているアン・クリーヴスの作品を勧められ、ではということで書店を見て回るが、これが意外と見つからない。リアルタイムで邦訳が進められている現代作家であるにもかかわらず、まったく見つからないのである。特別、レアな作品というわけではないので、ネット書店ではすぐに買えるが、まあそこまで慌てることはないと思っていたら、ちょうどタイミングよくハヤカワ文庫で『哀惜』が出たので、そちらから読むことにする。
こんな話。舞台はイギリス南西部に位置するデヴォン州ノース・デヴォン。その海岸で男の死体が発見された。マシュー・ヴェン警部は部下のジェンやロスらと共に捜査を開始し、男が最近町にへやってきたサイモンで、マシューのパートナーが運営する、障がい者を支援する複合施設でボランティアをしていたことが明らかになる。また、サイモンはかつて交通事故で子供を死なせており、その影響でアルコール依存症になり、気難しい性格だったとようだ。
やがてその施設で働くダウン症の女性が行方不明になり、両者の事件の関係性が浮かび上がる……。

一見、穏やかに見える田舎町にも、水面下では複雑な人間関係が絡み合い、隠された醜聞がある。刑事たちは好むと好まざるにかかわらず、もつれた糸を少しずつ解きほぐし、そんな秘密を白日の下に晒さなければならない。設定としては典型的な地方を舞台にした警察小説であり、著者は刑事たちの行動や思想を通じて、人間の愚かさや怖さを炙り出す。すでにベテランの域にある著者らしく、語りは落ち着いていて、捜査の過程をじっくりと描く手際がよい。
キャラクターの描き方も悪くない。際立った存在はいないので、ちょっと物足りない部分は感じられるが、みなそれぞれにリアリティがある。また、人物描写を通して、著者ならではの主張がここかしこに感じられて興味深い。マシューとジェン、ロスら刑事たちの関係、障がい者を抱える家族、夫婦の力関係、宗教観や差別観などなど、いくつか場面では必ずしも公平に描くのではなく、犯罪者でなくとも人の心を乱す者に対しては密かに厳しい書き方をする。著者の正義感はこの暗めの物語にあって、いっときの灯りのようにも感じられるし、マシューやジェンの目を通して人のあるべき姿を問題提議しているようにも思える。
ただ、時折差し込まれる太字による心理描写の強調は気になった。ボリュームのある作品だし、基本的には静かな作品なので、それだけに太字は少々違和感がある。意図はわかるのだけれど、この演出はやや勇み足の感あり。
まとめ。描写が丁寧で、全般的には好ましい警察小説である。ただ、ボリュームが大きいのにかなり地味な作風なので、クリーヴスの一冊目としてはちょっと適さないかも。そういう管理人もこれが一冊目になったわけだが、これからクリーヴスを読もうという人は、まずは創元のペレス警部シリーズから試すといいかもしれない。
※ちなみに管理人はその後、リアル書店で残りのアン・クリーヴス作品をバタバタっとすべて購入することができた。『哀惜』の続刊に期待しつつ、それまではペレス警部シリーズをぼちぼち読んでいくことにしよう。
こんな話。舞台はイギリス南西部に位置するデヴォン州ノース・デヴォン。その海岸で男の死体が発見された。マシュー・ヴェン警部は部下のジェンやロスらと共に捜査を開始し、男が最近町にへやってきたサイモンで、マシューのパートナーが運営する、障がい者を支援する複合施設でボランティアをしていたことが明らかになる。また、サイモンはかつて交通事故で子供を死なせており、その影響でアルコール依存症になり、気難しい性格だったとようだ。
やがてその施設で働くダウン症の女性が行方不明になり、両者の事件の関係性が浮かび上がる……。

一見、穏やかに見える田舎町にも、水面下では複雑な人間関係が絡み合い、隠された醜聞がある。刑事たちは好むと好まざるにかかわらず、もつれた糸を少しずつ解きほぐし、そんな秘密を白日の下に晒さなければならない。設定としては典型的な地方を舞台にした警察小説であり、著者は刑事たちの行動や思想を通じて、人間の愚かさや怖さを炙り出す。すでにベテランの域にある著者らしく、語りは落ち着いていて、捜査の過程をじっくりと描く手際がよい。
キャラクターの描き方も悪くない。際立った存在はいないので、ちょっと物足りない部分は感じられるが、みなそれぞれにリアリティがある。また、人物描写を通して、著者ならではの主張がここかしこに感じられて興味深い。マシューとジェン、ロスら刑事たちの関係、障がい者を抱える家族、夫婦の力関係、宗教観や差別観などなど、いくつか場面では必ずしも公平に描くのではなく、犯罪者でなくとも人の心を乱す者に対しては密かに厳しい書き方をする。著者の正義感はこの暗めの物語にあって、いっときの灯りのようにも感じられるし、マシューやジェンの目を通して人のあるべき姿を問題提議しているようにも思える。
ただ、時折差し込まれる太字による心理描写の強調は気になった。ボリュームのある作品だし、基本的には静かな作品なので、それだけに太字は少々違和感がある。意図はわかるのだけれど、この演出はやや勇み足の感あり。
まとめ。描写が丁寧で、全般的には好ましい警察小説である。ただ、ボリュームが大きいのにかなり地味な作風なので、クリーヴスの一冊目としてはちょっと適さないかも。そういう管理人もこれが一冊目になったわけだが、これからクリーヴスを読もうという人は、まずは創元のペレス警部シリーズから試すといいかもしれない。
※ちなみに管理人はその後、リアル書店で残りのアン・クリーヴス作品をバタバタっとすべて購入することができた。『哀惜』の続刊に期待しつつ、それまではペレス警部シリーズをぼちぼち読んでいくことにしよう。
森咲郭公鳥、森脇晃、kashiba@猟奇の鉄人の三氏によるミステリ同人誌〈Murder, She Drew〉の最新刊にして、別冊ジョン・ディクスン・カー特集の第二弾『Carr Graphic Vol.2 In the midst of the golden age』を購入し、ザッと目を通してみる。
今回は1935年から1938年の作品が対象で、『三つの棺』『火刑法廷』『ユダの窓』といった万人が認める傑作が入っていることもあって、一般的には最も注目される一冊かもしれない。とはいえ本シリーズはカーの全作品を扱っていることに大きな意味があるので本書の価値には関係ないのだけれど、それでもラインナップが華やかな感じになっていい。

中身の方は前作『Carr Graphic Vol.1 The Dawn of Miracles』を踏襲していることもあり、大きく変わったところはないようだ。基本的には楽しく読めて勉強にもなるという(マニアックではあるが)ガイドブックのお手本のような内容。ちょっと走り過ぎて万人向けではないギャグもあるけれど(笑)、商業誌に匹敵できる内容を維持しつつ、同人誌の自由なところも活かしているイメージである。
もちろん森咲郭公鳥氏によるイラストの力は何より大きいだろう。最初は森脇晃氏とkashiba@猟奇の鉄人氏のマニアックなやりとりに惹かれるところが大きかったのだが、いつの間にかイラストの方が楽しみになってきている。まあ、タイトルからして「Carr Graphic」なので、それが本来正い読み方なのだろうけれど。ともかく、もはやこのシリーズは森咲郭公鳥氏抜きには語れない一冊となっている。
ちなみに『Carr Graphic Vol.1 The Dawn of Miracles』は海外でも紹介されたらしく、それも凄いことである。管理人はこれが頭にこびりついていたせいか、X(旧Twitter)で、今回はマップイラストに英語表記も新たについた旨アップしてしまったが、これはまったくの勘違いでVol.1からすでに対応済みであった。訂正してお詫びいたします。
本の作りやデザイン、レイアウトなども同人誌の中では優秀な方だろう。見た目の華やかさとかも大事だが、本誌で言えば、一番肝心なのはマップイラストの見やすさと本文の見やすさ。
個人的には、マップイラストのキャプションはレイアウトやフォントの大きさにもう少し検討の余地があると思うが、本文は版面、行間、文字間ともバッチリで読みやすい。
同人誌で一番気になるのが、実はこの本文のレイアウトで、だいたい詰め込み過ぎて、読みやすさを犠牲にしているパターンが多い。大手出版社の小説本などを参考にすればそこまで難しい話ではないはずなのだが、本書はその点、本文が読みやすくていい。
ただ、一つ気になったのが、シリーズとしての基本デザインを変えてしまったこと。意図は不明だが、これは揃えた方が良かったのになと、少し残念である。
とうわけで細かい注文はつけたけれど、全般的には文句なしに楽しめる上質の一冊であった。次巻は来年の夏頃だというので、楽しみに待つことにしょう。
今回は1935年から1938年の作品が対象で、『三つの棺』『火刑法廷』『ユダの窓』といった万人が認める傑作が入っていることもあって、一般的には最も注目される一冊かもしれない。とはいえ本シリーズはカーの全作品を扱っていることに大きな意味があるので本書の価値には関係ないのだけれど、それでもラインナップが華やかな感じになっていい。

中身の方は前作『Carr Graphic Vol.1 The Dawn of Miracles』を踏襲していることもあり、大きく変わったところはないようだ。基本的には楽しく読めて勉強にもなるという(マニアックではあるが)ガイドブックのお手本のような内容。ちょっと走り過ぎて万人向けではないギャグもあるけれど(笑)、商業誌に匹敵できる内容を維持しつつ、同人誌の自由なところも活かしているイメージである。
もちろん森咲郭公鳥氏によるイラストの力は何より大きいだろう。最初は森脇晃氏とkashiba@猟奇の鉄人氏のマニアックなやりとりに惹かれるところが大きかったのだが、いつの間にかイラストの方が楽しみになってきている。まあ、タイトルからして「Carr Graphic」なので、それが本来正い読み方なのだろうけれど。ともかく、もはやこのシリーズは森咲郭公鳥氏抜きには語れない一冊となっている。
ちなみに『Carr Graphic Vol.1 The Dawn of Miracles』は海外でも紹介されたらしく、それも凄いことである。管理人はこれが頭にこびりついていたせいか、X(旧Twitter)で、今回はマップイラストに英語表記も新たについた旨アップしてしまったが、これはまったくの勘違いでVol.1からすでに対応済みであった。訂正してお詫びいたします。
本の作りやデザイン、レイアウトなども同人誌の中では優秀な方だろう。見た目の華やかさとかも大事だが、本誌で言えば、一番肝心なのはマップイラストの見やすさと本文の見やすさ。
個人的には、マップイラストのキャプションはレイアウトやフォントの大きさにもう少し検討の余地があると思うが、本文は版面、行間、文字間ともバッチリで読みやすい。
同人誌で一番気になるのが、実はこの本文のレイアウトで、だいたい詰め込み過ぎて、読みやすさを犠牲にしているパターンが多い。大手出版社の小説本などを参考にすればそこまで難しい話ではないはずなのだが、本書はその点、本文が読みやすくていい。
ただ、一つ気になったのが、シリーズとしての基本デザインを変えてしまったこと。意図は不明だが、これは揃えた方が良かったのになと、少し残念である。
とうわけで細かい注文はつけたけれど、全般的には文句なしに楽しめる上質の一冊であった。次巻は来年の夏頃だというので、楽しみに待つことにしょう。
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フェルディナント・フォン・シーラッハ『珈琲と煙草』(東京創元社)
フェルディナント・フォン・シーラッハ『珈琲と煙草』を読む。先日の記事のとおり、カテゴリ表記を「フォン・シーラッハ(フェルディナント)」から「シーラッハ, フェルディナント・フォン」に修正しております。

本書はこれまでの作品とは少々、毛色が変わっている。全部で48章に分かれているのだが、著者はそれらの文章を「観察」と称しているのである。つまり本書は、著者が日々の暮らしや仕事において観察してきた人々の観察記録なのである。
ただ、その観察の成果はエッセイ風であったりショートショート風であったり、もはやノンフィクションとフィクションの区別すらない。しかしながら著者のフィルターを通すことによって、ただの情景描写にすら何らかの意図が隠されていることは明確であり、その意味では実はエッセイに見せかけた創作集という見方が適切ではないだろうか。
その中身だが、いつものシーラッハの書きっぷりは健在である。淡々として、どこか虚無的なところすら感じさせる文章。もちろん明確な起承転結などもなく、そもそも今回はエッセイ的な作品も多いので、余計に自由に書いている印書が強い。なかにはほんの数行のものまである。
とはいえ、わかりにくいだけではなく、時事的な問題を打ち出したり、著者自身の思い出を混じえていたり、手がかりはゴロゴロ転がっていることも確か。見た目は自由に思えるけれど、著者はかなり計算しているはずであり、そういう点も含めて著者のメッセージを受け止める楽しさが本書にはある。
そんなわけで、シーラッハを長く読んでいるファンであれば、実に興味深い一冊といえる。
逆に、本書だけではシーラッハの凄さはピンとこないと思うので、一見さんは『犯罪』などの短篇集を読んでからにするのが吉であろう。

本書はこれまでの作品とは少々、毛色が変わっている。全部で48章に分かれているのだが、著者はそれらの文章を「観察」と称しているのである。つまり本書は、著者が日々の暮らしや仕事において観察してきた人々の観察記録なのである。
ただ、その観察の成果はエッセイ風であったりショートショート風であったり、もはやノンフィクションとフィクションの区別すらない。しかしながら著者のフィルターを通すことによって、ただの情景描写にすら何らかの意図が隠されていることは明確であり、その意味では実はエッセイに見せかけた創作集という見方が適切ではないだろうか。
その中身だが、いつものシーラッハの書きっぷりは健在である。淡々として、どこか虚無的なところすら感じさせる文章。もちろん明確な起承転結などもなく、そもそも今回はエッセイ的な作品も多いので、余計に自由に書いている印書が強い。なかにはほんの数行のものまである。
とはいえ、わかりにくいだけではなく、時事的な問題を打ち出したり、著者自身の思い出を混じえていたり、手がかりはゴロゴロ転がっていることも確か。見た目は自由に思えるけれど、著者はかなり計算しているはずであり、そういう点も含めて著者のメッセージを受け止める楽しさが本書にはある。
そんなわけで、シーラッハを長く読んでいるファンであれば、実に興味深い一冊といえる。
逆に、本書だけではシーラッハの凄さはピンとこないと思うので、一見さんは『犯罪』などの短篇集を読んでからにするのが吉であろう。
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外国人の姓名の表記について調べてみる
以前に、『書評七福神/編著『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』の記事で、「シーラッハ, フェルディナント・フォン」という索引での表記は誤りで、「フォン・シーラッハ, フェルディナント」が正しいのではないか?という文章を書いたことがある。するとTwitterで、某評論家が「シーラッハ, フェルディナント・フォン」が正しいのだと言ってきた。こちらも正しいかどうかは不明だったので「ご教示乞う」旨を書いていたし、意見として聞くにもちろんやぶさかではないのだが、単純に文面が失礼なのである。おまけにこちらの文章をちゃんと読んでいる気配もないし、大学教授もやっている割には説明が下手。町でチンピラに絡まれたようなもので、こういうのは相手にするだけ時間の無駄なので、そのままうっちゃっておいたことがある。
ただ、肝心の「フォン」は、姓なのか名なのか、どこで区切るのが正しいのか、疑問は残ったままである。
前出の某評論家は「前置詞だからとかなんとか書いてはいたが、それではまったく説明が足りていない。文句をつけるならその根拠を述べるぐらい当然だと思うのだが、そんなこともできない教授に教えられる学生が不憫で仕方ない。
というようなことがあってからはや数年。先ほどシーラッハの新刊が出たことで、その件を思い出し、あらためてドイツ語の「フォン」について調べてみようと思いたった。そして、ようやく答らしきものが見えたので、ここに少しまとめておこう。海外の小説を読む人には、少し面白い話にもなっていると思う。
参考にしたのは以下のあたり。特に西澤秀正氏の「西欧人の前置語を伴う姓について」はそのものずばりの内容で大変参考になった。これは国立情報学研究所が提供するデータベースから検索したもの。また、「図書館員のコンピュータ基礎講座」はコンピュータでの目録作成業務をする際の規則をいろいろとまとめたもので、これも実に参考になる。『日本目録規則』は言うまでもなく図書館における目録作業の指針となる原則・方法を成文化した、目録や索引づくりの最終兵器である。
つまり図書館の目録作成における規則をもとにしている。
西欧人の前置語を伴う姓について,西澤秀正
file:///Users/funakiyukinobu/Downloads/honanwjc_kiyo-06-04.pdf
※直接リンクが飛ばないため、上のURLをコピペしてご覧になってください。
図書館員のコンピュータ基礎講座,人名(西ヨーロッパ),
https://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/pname/w_europe.html
日本目録規則/セクション3個人・家族・団体/第6章個人
https://www.jla.or.jp/Portals/0/data/iinkai/mokuroku/ncr2018/ncr2018_06_201812.pdf
------------------------------------
前提として、ヨーロッパには複合姓やミドルネーム、前置語を含む姓など、非常にイレギュラーな姓名が多数存在していることがある。現在の日本人には基本的に姓と名が一つずつ、姓名の順で並んでいるだけだが、皆様ご存知のように海外は事情が違うのである。
アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr
S=A・ステーマン Stanislas-Andrè Steeman
いくつかミステリ作家を挙げてみたが、これも知らない人はどこで姓と名を区切れば良いのか、なかなか難しいところだろう。そこで各語の詳細をつけてみる。
アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle(名・姓・姓)
ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr(名・ミドルネーム・姓)
S=A・ステーマン Stanislas-Andrè Steeman(複合名・姓)
これでだいぶわかりやすくなる。複合名やミドルネーム、また、コナン・ドイルのように姓が二つ並ぶ珍しいパターンもあるが、いずれも原則として姓の最初の部分から表記されればよく、どれが姓でどれが名かわかれば、取り扱いはさほど難しくはない。基本的には何れの国の事典、辞書、書誌情報でも以下のように記載される。
コナン・ドイル, アーサー Conan Doyle, Arthur
カー, ジョン・ディクスン Carr, John Dickson
ステーマン, S=A Steeman, Stanislas-Andrè
さて、問題は前置語を含む姓である。
ここで前置詞ではなく前置語とするのは、姓を構成する語は前置詞だけとは限らず、接頭語や定冠詞も含むからである。米英加豪などの英語圏の標準目録規則『英米目録規則、第2版』ではprefixと表記されており、この訳語として、『日本目録規制』では前置語という語が使われている。複雑な姓のない日本では該当する言葉がもともとないのだが、欧米諸国ならではの概念である。
欧米諸国では国によって、それぞれ特徴的な前置語がある。フランスではdeやla、ドイツではvon、オランダではvan、イタリアではdaなどがよく目にするところだ。意味合いもいろいろあって、貴族を意味したり、出身を意味したりとかバラバラである。そもそもの品詞も前置詞であったり定冠詞であったりという具合。
問題は、それらを索引などで表記するとき、どう扱うかについてなのだが、あまりにも国によって文化や事情が異なるため、ぶっちゃけ確固たる決まりがないようだ。要はその作家の出身国や活動している国の習慣に合わせているという。
たとえばリリアン・デ・ラ・トーレ(Lillian de la Torre)という作家がいる。ミステリや怪奇小説好きの方ならよくご存知だろうが、これを索引に置くと、日本ではデ・ラ・トーレ,リリアンとするのが普通だ。デ・ラ・トーレが姓、リリアンが名を表す。これが他国ではどうかというと、
イギリス、アメリカ、イタリアなど……de la Torre, Lillian
フランス、ドイツなど…………………la Torre, Lillian de
スペイン、オランダなど……………Torre, Lillian de la
これは驚きませんか? ヨーロッパ各国では普通に統一されていると思っていたけれど、実はここまでバラバラなのだ。この理由として、deは主に貴族出身を表す前置詞、laは女性形定冠詞(Torreが女性名詞なので)であり、この定冠詞や前置詞をどう位置付けるかが、国によってさまざまだからである。
そこでフェルディナント・フォン・シーラッハのフォン(von)だが、そもそもvonは「~の、~出身」を意味する前置詞で、貴族の称号として姓の一部に付けられていたという。ドイツ語圏にまだ姓が無い時代、領主が自らの領地名を名乗っていた名残りなのだ。ちなみに前置詞ではあるが、その実は貴族を表す敬称のような意味合いも強く、そのため当時はフォン抜きで姓を呼ぶことは失礼にあたり、必ず「フォン・◯◯◯」と呼びかける慣わしだったらしい。
しかし、その後、ドイツで貴族階級が廃止され、vonは本来の意味を失い、単に姓の一部として残っていく。つまりvonが形骸化したわけだが、これも調べてみると、他の国ではここまで形骸化した例は珍しいようで、たとえば「ド・ゴール」というフランスの大統領がいた。「ド」も貴族出身を表す前置詞なのだけれど、フランスでは現在でも必ず「ド」をつけたまま「ド・ゴール」と呼び、「ゴール」とは呼ばない。
したがってvonはあくまで姓の一部であり、その意味ではフェルディナント・フォン・シーラッハの姓は本来「フォン・シーラッハ」であり、記載は「フォン・シーラッハ,フェルディナント」とするのが正しい。
しかし、先に書いたように、貴族出身を表すvonの意味が形骸化し、かつ法律上も意味がなくなってしまうと、もともと前置詞としての意味があったvonは別にいちいち姓に付けなくてもいいんじゃね?という意見が大きくなり、次第にvonを姓から外して使うことが増えてくるようになったらしい。
だがその後も依然として、ドイツにおける表記についてのルールは制定されず、現在でも表記の揺れがあるままらしいが、とりあえず方向性としてはvonを無視する方向で動いているのは確かなようだ。
実際、電話帳や索引などではvonの後に続く部分を基準にしての記載となっている。現在のドイツでの表記はひとまず「シーラッハ,フェルディナント・フォン」でよいということになる。
では日本ではどう扱うか。これは先の欧米諸国の表記を鑑み、『日本目録規則』で「西洋人名中の前置語の扱いは、その著者の言語の慣習に従う」とした。
具体的には以下のとおりである。
・前置語は名のあとに置く
・アフリカーンズ語、英語、イタリア語、ルーマニア語 (deを除く)においては、姓は前置語からはじめる
・フランス語、ドイツ語、スペイン語においては、冠詞または冠詞と前置詞の縮約形だけが姓の前に置かれる
これらを踏まえると、フェルディナント・フォン・シーラッハの索引等における表記は、現在は「シーラッハ,フェルディナント・フォン」とする方が適切ということになる。
ただ、注意すべきは、vonの意味合いが形骸化し、情報として処理する際の扱いやすさ等を考慮して、索引表記上は名の後に含めるが、姓の一部であることは間違いないので念の為。
※以上が調査結果であるが、もちろんこれで万全ではない。より確かな情報をお持ちの方はぜひともご連絡ください。
-------------------------------------------------
ということで、今後は当サイトの「カテゴリー」内の著者名についても、随時、このルールで変えていく予定である。また、現在、姓を()表記にしているが、こちらも今後は図書館の目録表記に倣い、「, 」(カンマ)で区切ることにしたい。修正に時間がかかるので当面は混在してしまうがご容赦くだされ。
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泡坂妻夫『折鶴』(創元推理文庫)
泡坂妻夫の短篇集『折鶴』を読む。まずは収録作。
「忍火山恋唄」
「駈落」
「角館にて」
「折鶴」

おおお、これはまたなんと言いますか。むちゃくちゃ好みの路線である。
泡坂妻夫の作品はテクニカルなミステリばかりでなく、後期には恋愛ものや人情ものも書いていたのは知識として知ってはいたが、それは著者がミステリに飽きてきたとか、マンネリを避けるためとか、なんとなく勝手にそんなことを思っていたのだが、全然そんなことはない。
言ってみればミステリとロマンの高い次元での融合であり、むしろ著者がミステリを書く以前から持っていた素養が、ついにベールを脱いだような印象すらある。もちろん初期のような超絶技巧があるわけではなく、トリッキーさは物語の邪魔をしない程度に抑えてはいるのだが、それがかえって情念の世界をより美しく見せてくれるのである。
本書収録の四作とも、主人公が着物関係の職人というのもいい。著者同様に紋章絡みもいれば悉皆屋もおり、呉服に明るくない管理人などは意味を調べつつ読んだりしていたが、そういう手間すら作品の一部のようで心地よい。
収録作品は全部いい。全部いいのだけれど、あえて言うなら「忍火山恋唄」がマイフェイバリット。ミステリ的にも一番凝っていることもあるが、浄瑠璃の世界、しかも新内を取り上げているところが男女の物語に最適。これは映像化してもいい作品になるだろうなぁ。
「忍火山恋唄」
「駈落」
「角館にて」
「折鶴」

おおお、これはまたなんと言いますか。むちゃくちゃ好みの路線である。
泡坂妻夫の作品はテクニカルなミステリばかりでなく、後期には恋愛ものや人情ものも書いていたのは知識として知ってはいたが、それは著者がミステリに飽きてきたとか、マンネリを避けるためとか、なんとなく勝手にそんなことを思っていたのだが、全然そんなことはない。
言ってみればミステリとロマンの高い次元での融合であり、むしろ著者がミステリを書く以前から持っていた素養が、ついにベールを脱いだような印象すらある。もちろん初期のような超絶技巧があるわけではなく、トリッキーさは物語の邪魔をしない程度に抑えてはいるのだが、それがかえって情念の世界をより美しく見せてくれるのである。
本書収録の四作とも、主人公が着物関係の職人というのもいい。著者同様に紋章絡みもいれば悉皆屋もおり、呉服に明るくない管理人などは意味を調べつつ読んだりしていたが、そういう手間すら作品の一部のようで心地よい。
収録作品は全部いい。全部いいのだけれど、あえて言うなら「忍火山恋唄」がマイフェイバリット。ミステリ的にも一番凝っていることもあるが、浄瑠璃の世界、しかも新内を取り上げているところが男女の物語に最適。これは映像化してもいい作品になるだろうなぁ。
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ボアロー、ナルスジャック『私のすべては一人の男』(早川書房)
ボアロー&ナルスジャックの『私のすべては一人の男』を読む。
ボアナルの中では比較的有名なレア作品であり、単に入手難度が高いだけでなく、内容に関してもけっこうなトンデモ度だとか、いやいや意外にちゃんと本格しているとか、さまざまな意見があるようだ。個人的には、本作がSFミステリであることに注目していたのだが、なんせフランスミステリだけに、著者がそこそこメジャーであっても実際読んでみないとわからないことも多いので、なるべく先入観を捨てて読み始めた。
こんな話。ある時、パリ警視庁の警視総監から呼び出されたギャリックは特殊な任務を依頼される。それは医学博士のマレックが行う移植手術に関して、術後の患者たちを観察し、記録を取るというものだった。
しかし、ただの移植手術ではない。処刑されたばかりの死刑囚の手足や頭部、臓器までをすべて同時に移植するというのである。犯罪者の肉体ということもあり、移植手術を待つ七人の患者に死刑囚の情報は伏せたまま手術は決行され、無事に成功したかに思われた。
ところがやがて患者が精神に変調をきたし、一人また一人と自殺していった……。

なるほど、こういうネタだったのか。ようやく読んだという満足感もあるけれど、これは予想を超える面白さである。
まずはその異様な設定とストーリーの展開に引き込まれる。臓器や手足を一人の人間から移植された患者たちのグループがいて、主人公は任務として患者たちに接するが、結局はさまざまな歪んだ自我と向き合わなければならず、この辺りはボアナルお得意の心理小説的な入りである。
これだけでも相当アクの強い作品だが、中盤から患者の自殺が連続するという奇怪な展開になると、もう物語がどう転んでゆくのか見当もつかない。自殺の原因がそれこそSF的なものになるのか、それともまさか殺人だったりするのか。おまけに移植手術の裏に、実はある陰謀めいた秘密が隠されていたため、ますます混沌としてくる。
そしてへラストの謎解きである。ぶっ飛んだ真相ではあったが(笑)、実は「やられた」という気持ちも強い。というのも移植手術に関して素人でも気になる箇所があり(けっこう気づく人もいると思うが)、そこをうまく著者に誤魔化されて最後に真相を突きつけられた感じなのだ。これは悔しい。
ただ、読者が日本人の場合、どうしても日本のある傑作を連想してしまうだけに(中身は全然違うけれど)、よけい騙されやすい気はする(苦笑)。
本格ミステリとして、それなりに成立しているのもよい。フランスミステリにありがちなうねうねした展開や描写は少なく、意外なほどフォーマットに乗った、英米流の本格ミステリという印象だ。
もちろん真相は先ほど書いたとおりぶっ飛んではいるし、確かに馬鹿ばかしい。まともな本格ミステリ読みの方は眉をひそめるかもしれないが、その真相を成立させるために筋は通している。これなら個人的には十分許容範囲である。
ただ、臓器移植などを扱いながら、科学的・医学的なアプローチは少ないし、倫理的な問題もあるだろうから、これまで文庫化されなかった理由もわかる気がする。将来的にも文庫になるかどうかは怪しいところなので、樋口一葉ぐらいで見つかれば即購入してよいのではないだろうか(ただし、あくまで自己責任で)。
ボアナルの中では比較的有名なレア作品であり、単に入手難度が高いだけでなく、内容に関してもけっこうなトンデモ度だとか、いやいや意外にちゃんと本格しているとか、さまざまな意見があるようだ。個人的には、本作がSFミステリであることに注目していたのだが、なんせフランスミステリだけに、著者がそこそこメジャーであっても実際読んでみないとわからないことも多いので、なるべく先入観を捨てて読み始めた。
こんな話。ある時、パリ警視庁の警視総監から呼び出されたギャリックは特殊な任務を依頼される。それは医学博士のマレックが行う移植手術に関して、術後の患者たちを観察し、記録を取るというものだった。
しかし、ただの移植手術ではない。処刑されたばかりの死刑囚の手足や頭部、臓器までをすべて同時に移植するというのである。犯罪者の肉体ということもあり、移植手術を待つ七人の患者に死刑囚の情報は伏せたまま手術は決行され、無事に成功したかに思われた。
ところがやがて患者が精神に変調をきたし、一人また一人と自殺していった……。

なるほど、こういうネタだったのか。ようやく読んだという満足感もあるけれど、これは予想を超える面白さである。
まずはその異様な設定とストーリーの展開に引き込まれる。臓器や手足を一人の人間から移植された患者たちのグループがいて、主人公は任務として患者たちに接するが、結局はさまざまな歪んだ自我と向き合わなければならず、この辺りはボアナルお得意の心理小説的な入りである。
これだけでも相当アクの強い作品だが、中盤から患者の自殺が連続するという奇怪な展開になると、もう物語がどう転んでゆくのか見当もつかない。自殺の原因がそれこそSF的なものになるのか、それともまさか殺人だったりするのか。おまけに移植手術の裏に、実はある陰謀めいた秘密が隠されていたため、ますます混沌としてくる。
そしてへラストの謎解きである。ぶっ飛んだ真相ではあったが(笑)、実は「やられた」という気持ちも強い。というのも移植手術に関して素人でも気になる箇所があり(けっこう気づく人もいると思うが)、そこをうまく著者に誤魔化されて最後に真相を突きつけられた感じなのだ。これは悔しい。
ただ、読者が日本人の場合、どうしても日本のある傑作を連想してしまうだけに(中身は全然違うけれど)、よけい騙されやすい気はする(苦笑)。
本格ミステリとして、それなりに成立しているのもよい。フランスミステリにありがちなうねうねした展開や描写は少なく、意外なほどフォーマットに乗った、英米流の本格ミステリという印象だ。
もちろん真相は先ほど書いたとおりぶっ飛んではいるし、確かに馬鹿ばかしい。まともな本格ミステリ読みの方は眉をひそめるかもしれないが、その真相を成立させるために筋は通している。これなら個人的には十分許容範囲である。
ただ、臓器移植などを扱いながら、科学的・医学的なアプローチは少ないし、倫理的な問題もあるだろうから、これまで文庫化されなかった理由もわかる気がする。将来的にも文庫になるかどうかは怪しいところなので、樋口一葉ぐらいで見つかれば即購入してよいのではないだろうか(ただし、あくまで自己責任で)。
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エルビラ・ナバロ『兎の島』(国書刊行会)
日本では初紹介となるエルビラ・ナバロの短篇集『兎の島』を読む。珍しいことにスペイン産の幻想怪奇小説で、著者はスペイン語圏でも注目される存在らしい。まずは収録作。
「ヘラルドの手紙」
「ストリキニーネ」
「兎の島」
「後戻り」
「パリ近郊」
「ミオトラグス」
「地獄様式建築に関する覚書」
「最上階の部屋」
「メモリアル」
「歯茎」
「占い師」

異なる文化圏で書かれた小説はもともと興味深いものが多いけれど、想像力がものをいう幻想怪奇小説においては特に惹かれるものが多い。本書に収録されている作品も然り。
版元では〈スパニッシュ・ホラー〉という謳い文句を使っているが、正直、「ホラー」という感じはあまりしない。個人的にはホラーというと、もっと直接的な怖さをイメージするのだが、どちらかというと、静かな作品が多い。
現代の作品なので、パソコンやSNS等の小道具が使われていたり、あるいは社会問題を示唆するような作品もあるのだが、登場人物たちは推しなべてそういう日常の中で、いつの間にかそれと気付かずに非日常の扉をノックしている印象を受ける。現実と異世界の中間で行き来するような、そんな不安定な状態を見せてくれるのである。
そこには現代で生きることの不安や恐怖を投影しているようなところもあり、読んでいると言いようのない気持ち悪さに包まれてくる。
たとえば表題作の「兎の島」は、街中を流れる川の島(中洲のような小さい島か)に、兎を飼い始めた男の話である。男はカヌーである島にテントを張るが、気になったのは鳥の妙な鳴き声である。そこで鳥を追い出そうと二十羽の兎を島に放す。ところが兎は男の予想もしなかった行動を行うようになり……というもの。
この男の設定も「似非発明家」と自称する妙なキャラクターなのだが、その存在こそが日常からすでに一歩踏み外している。その男がさらに兎を飼うことで、非日常への扉をノックしてしまう。男の行動は淡々と描かれているが、兎を放つ行為はまるで社会実験のようにも感じられ、その行為自体がすでに不気味なものに思われ、やがてくるであろう悲劇を予感させる。
「ストリキニーネ」は耳たぶから肢が話生えてきた女性の話。彼女の特異な状況と日々が淡々と語られ、驚愕のラストを迎える。本書中では比較中ホラーっぽい作品で、著者がこういうテクニックもしっかり持っていることを証明している。
「最上階の部屋」はホテルで働く貧しいメイドの話。ホテルの屋根裏部屋にに住み込みで働くが、そのうち妙な夢を見るようになる。それは彼女自身ではなく、ホテルを訪れる他人の嫁であった。やがて彼女はそれに対処するために―。
将来の当てもない貧しい少女の体験する幻想譚は、それだけで胸が苦しくなるほどだが、これもさまざまな深読みをさせる物語である。
他の作品も読み応えがあるものばかり。描写こそ静かだが、飛ばし読みを許さない迫力があり、これは満足できる一冊であった。
なお、装丁も非常に美しく、紙の本ならではの喜びも味わえる。
「ヘラルドの手紙」
「ストリキニーネ」
「兎の島」
「後戻り」
「パリ近郊」
「ミオトラグス」
「地獄様式建築に関する覚書」
「最上階の部屋」
「メモリアル」
「歯茎」
「占い師」

異なる文化圏で書かれた小説はもともと興味深いものが多いけれど、想像力がものをいう幻想怪奇小説においては特に惹かれるものが多い。本書に収録されている作品も然り。
版元では〈スパニッシュ・ホラー〉という謳い文句を使っているが、正直、「ホラー」という感じはあまりしない。個人的にはホラーというと、もっと直接的な怖さをイメージするのだが、どちらかというと、静かな作品が多い。
現代の作品なので、パソコンやSNS等の小道具が使われていたり、あるいは社会問題を示唆するような作品もあるのだが、登場人物たちは推しなべてそういう日常の中で、いつの間にかそれと気付かずに非日常の扉をノックしている印象を受ける。現実と異世界の中間で行き来するような、そんな不安定な状態を見せてくれるのである。
そこには現代で生きることの不安や恐怖を投影しているようなところもあり、読んでいると言いようのない気持ち悪さに包まれてくる。
たとえば表題作の「兎の島」は、街中を流れる川の島(中洲のような小さい島か)に、兎を飼い始めた男の話である。男はカヌーである島にテントを張るが、気になったのは鳥の妙な鳴き声である。そこで鳥を追い出そうと二十羽の兎を島に放す。ところが兎は男の予想もしなかった行動を行うようになり……というもの。
この男の設定も「似非発明家」と自称する妙なキャラクターなのだが、その存在こそが日常からすでに一歩踏み外している。その男がさらに兎を飼うことで、非日常への扉をノックしてしまう。男の行動は淡々と描かれているが、兎を放つ行為はまるで社会実験のようにも感じられ、その行為自体がすでに不気味なものに思われ、やがてくるであろう悲劇を予感させる。
「ストリキニーネ」は耳たぶから肢が話生えてきた女性の話。彼女の特異な状況と日々が淡々と語られ、驚愕のラストを迎える。本書中では比較中ホラーっぽい作品で、著者がこういうテクニックもしっかり持っていることを証明している。
「最上階の部屋」はホテルで働く貧しいメイドの話。ホテルの屋根裏部屋にに住み込みで働くが、そのうち妙な夢を見るようになる。それは彼女自身ではなく、ホテルを訪れる他人の嫁であった。やがて彼女はそれに対処するために―。
将来の当てもない貧しい少女の体験する幻想譚は、それだけで胸が苦しくなるほどだが、これもさまざまな深読みをさせる物語である。
他の作品も読み応えがあるものばかり。描写こそ静かだが、飛ばし読みを許さない迫力があり、これは満足できる一冊であった。
なお、装丁も非常に美しく、紙の本ならではの喜びも味わえる。
新しいミステリのガイドブックが出ていたので購入。さっそくパラパラと眺めてみたのが、書評家の杉江松恋氏が監修する『十四人の識者が選ぶ本当に面白いミステリ・ガイド』。
なんせタイトルが強気に出ているし、また、杉江氏が監修するからには、それなりのレベルは保証されているはず。どういうあたりを紹介してくれるのかと期待していたのだが、ううむ、これは何とも微妙な一冊。

オビにも謳っているとおり、本書は内外のミステリ作家から古典および新鋭のミステリ作家二十名ずつ、計四十名を紹介したガイドブックである。これにクリス・ウィタカー、月村了衛へのインタビュー、そしてコラムが九本という構成。
メインとなる作家ガイドは一作家につき1600字程度で、これが作品ガイドであれば気にならないが、作家ガイドであることを考えると少々ボリューム的には少ないか。ただ、執筆陣がまずまず盤石の陣容だし(中にはよく知らない人もいるが)、基本的には初心者向けの内容なので記事そのものに特に不満はない。特にコラムは、最近ミステリを読み始めた人には、ザクっと近年の流れを掴むにはわかりやすいだろう。
それでも本書を物足りないと思うのは、紹介される作家が圧倒的に少ないからだろう。ある程度テーマを絞った本ならそれでも仕方ないが、なんせ初心者向け入門書なので、もう少し手広くやった方がよかった。
古典作家のラインナップを見ても、乱歩、正史、清張、久作、風太郎、彬光、クリスティ、カー、クイーン、チェスタトン、チャンドラー、マクベインというあたりの大御所ばかりずらり並んでいる。この超メジャー級だけで二十名いるわけで、おそらくウリにしたかったであろう新鋭作家にしても近年話題になった二十名ほどだ(しかも内外合わせて)。いくらなんでもこれは少ない。タイトルに「十四人の識者が選ぶ」とあるのに、平均すると識者一人につき三作家も選んでいないのは寂しい。
この手の本であれば、最低でもキリよく100人ぐらいは選んでほしいし、古典のガイドは山ほど過去にあるので、新鋭作家ばかりに絞る手もあったはず。新鋭をあえて「オルタナティヴ」と呼ぶのなら、古典と新鋭を対比させてもう少し突っ込んだ解説をするとか、いろいろやり方も考えられるのにそういう工夫もない。
また、古典と新鋭の間の時代にも本当に面白い作家はいろいろいるのに、その辺りはバッサリ省略されているのもちょっと不親切。その時代はコラムで埋めたと「まえがき」にあるが、ここもボリューム不足である。
というわけで、どうにも消化不良なガイドブック。本書は刊行時期も予定より遅れたようで、もしかすると版元と杉江氏の間で、コンセプトや諸々のことがうまく共有できていなかったのではないか。そんなことも勘繰ってしまう一冊であった。
おすすめするとすれば、普段はミステリを読まないけれど面白いものあれば読みたい、という人向けか。てだれの書き手が多いのでそこは安心してよい。
なんせタイトルが強気に出ているし、また、杉江氏が監修するからには、それなりのレベルは保証されているはず。どういうあたりを紹介してくれるのかと期待していたのだが、ううむ、これは何とも微妙な一冊。

オビにも謳っているとおり、本書は内外のミステリ作家から古典および新鋭のミステリ作家二十名ずつ、計四十名を紹介したガイドブックである。これにクリス・ウィタカー、月村了衛へのインタビュー、そしてコラムが九本という構成。
メインとなる作家ガイドは一作家につき1600字程度で、これが作品ガイドであれば気にならないが、作家ガイドであることを考えると少々ボリューム的には少ないか。ただ、執筆陣がまずまず盤石の陣容だし(中にはよく知らない人もいるが)、基本的には初心者向けの内容なので記事そのものに特に不満はない。特にコラムは、最近ミステリを読み始めた人には、ザクっと近年の流れを掴むにはわかりやすいだろう。
それでも本書を物足りないと思うのは、紹介される作家が圧倒的に少ないからだろう。ある程度テーマを絞った本ならそれでも仕方ないが、なんせ初心者向け入門書なので、もう少し手広くやった方がよかった。
古典作家のラインナップを見ても、乱歩、正史、清張、久作、風太郎、彬光、クリスティ、カー、クイーン、チェスタトン、チャンドラー、マクベインというあたりの大御所ばかりずらり並んでいる。この超メジャー級だけで二十名いるわけで、おそらくウリにしたかったであろう新鋭作家にしても近年話題になった二十名ほどだ(しかも内外合わせて)。いくらなんでもこれは少ない。タイトルに「十四人の識者が選ぶ」とあるのに、平均すると識者一人につき三作家も選んでいないのは寂しい。
この手の本であれば、最低でもキリよく100人ぐらいは選んでほしいし、古典のガイドは山ほど過去にあるので、新鋭作家ばかりに絞る手もあったはず。新鋭をあえて「オルタナティヴ」と呼ぶのなら、古典と新鋭を対比させてもう少し突っ込んだ解説をするとか、いろいろやり方も考えられるのにそういう工夫もない。
また、古典と新鋭の間の時代にも本当に面白い作家はいろいろいるのに、その辺りはバッサリ省略されているのもちょっと不親切。その時代はコラムで埋めたと「まえがき」にあるが、ここもボリューム不足である。
というわけで、どうにも消化不良なガイドブック。本書は刊行時期も予定より遅れたようで、もしかすると版元と杉江氏の間で、コンセプトや諸々のことがうまく共有できていなかったのではないか。そんなことも勘繰ってしまう一冊であった。
おすすめするとすれば、普段はミステリを読まないけれど面白いものあれば読みたい、という人向けか。てだれの書き手が多いのでそこは安心してよい。
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グレッチェン・マクニール『孤島の十人』(扶桑社ミステリー)
グレッチェン・マクニールの『孤島の十人』を読む。初めて読む作家だが、クリスティの『そして誰もいなくなった』のオマージュらしいということで、気になっていた作品である。
こんな話。親友同士の高校生メグとミニーは、学校の人気者ジェシカに誘われて、離島の別荘で行われるパーティに誘われる。集まった高校生は十人。ところが主催者のジェシカは到着が遅れているようで、折しも島には嵐が襲う。
そんな中、部屋にあったDVDに何者かの恨みを示す動画が発見された。その動画が意味するものは何なのか、判然としないまま、ついに一人の犠牲者が出てしまう。そして一人、また一人……。

あらら、これはちょっといただけませんな。
嵐で孤立した島、招待された十人、到着しないホスト、次々と起こる殺人事件。『そして誰もいなくなった』のオマージュらしいとは書いたが、これではそのまんまではないか。オマージュとかリスペクトとかで作品を書くのは別によいけれど、設定なりアイデアなりを拝借するからには、やはりその著者なりのプラスアルファが必要だろう。そういった新味を加えることなく先達の美味しいとこどりをするのは、普通「パクリ」と言うのではないのかな。
しかもプラスアルファがないばかりか、ミステリとしても欠点が目立つ。雰囲気作りだけのためにまったく回収されない伏線を貼ったり、結末も本家をまったく超えていない。描写が緩いせいで簡単に犯人も読めてしまう。
解説によると、本作はそもそもヤングアダルト向けに書かれたものだという。著者は本作に限らず、過去の名作を若い人向けに書き直した作品がけっこう多いようで、ああ道理で、という感じだ。
登場人物を全員、高校生にしたのもヤングアダルト向けという理由が大きいのだろうが、そのため個々のキャラクターが薄っぺらくなっているのも辛い。ほぼほぼ色恋にしか興味がなく、感情で行動する人物ばかり。論理的に考える力や想像力が欠けすぎているから説得力もなく、目の前の事実にきちんと対処しようともしない(できない)。著者にとっては、そのほうがストーリーを自由に進めやすいこともあるのだろう。
と、ここまで書いてきて、この作品は『そして誰もいなくなった』より、むしろ70〜80年代の安いホラー映画などに近いのではないかと気がついた。登場人物たちはキャーキャー騒ぐばかりで、ただただサスペンスのみを味わう。初めからそういうところを狙っているのであれば、文章は読みやすいし、それなりに面白い作品といえるだろう。ただし、それも『そして誰もいなくなった』を読んだことがなければ、という前提付きではあるが。
こんな話。親友同士の高校生メグとミニーは、学校の人気者ジェシカに誘われて、離島の別荘で行われるパーティに誘われる。集まった高校生は十人。ところが主催者のジェシカは到着が遅れているようで、折しも島には嵐が襲う。
そんな中、部屋にあったDVDに何者かの恨みを示す動画が発見された。その動画が意味するものは何なのか、判然としないまま、ついに一人の犠牲者が出てしまう。そして一人、また一人……。

あらら、これはちょっといただけませんな。
嵐で孤立した島、招待された十人、到着しないホスト、次々と起こる殺人事件。『そして誰もいなくなった』のオマージュらしいとは書いたが、これではそのまんまではないか。オマージュとかリスペクトとかで作品を書くのは別によいけれど、設定なりアイデアなりを拝借するからには、やはりその著者なりのプラスアルファが必要だろう。そういった新味を加えることなく先達の美味しいとこどりをするのは、普通「パクリ」と言うのではないのかな。
しかもプラスアルファがないばかりか、ミステリとしても欠点が目立つ。雰囲気作りだけのためにまったく回収されない伏線を貼ったり、結末も本家をまったく超えていない。描写が緩いせいで簡単に犯人も読めてしまう。
解説によると、本作はそもそもヤングアダルト向けに書かれたものだという。著者は本作に限らず、過去の名作を若い人向けに書き直した作品がけっこう多いようで、ああ道理で、という感じだ。
登場人物を全員、高校生にしたのもヤングアダルト向けという理由が大きいのだろうが、そのため個々のキャラクターが薄っぺらくなっているのも辛い。ほぼほぼ色恋にしか興味がなく、感情で行動する人物ばかり。論理的に考える力や想像力が欠けすぎているから説得力もなく、目の前の事実にきちんと対処しようともしない(できない)。著者にとっては、そのほうがストーリーを自由に進めやすいこともあるのだろう。
と、ここまで書いてきて、この作品は『そして誰もいなくなった』より、むしろ70〜80年代の安いホラー映画などに近いのではないかと気がついた。登場人物たちはキャーキャー騒ぐばかりで、ただただサスペンスのみを味わう。初めからそういうところを狙っているのであれば、文章は読みやすいし、それなりに面白い作品といえるだろう。ただし、それも『そして誰もいなくなった』を読んだことがなければ、という前提付きではあるが。
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杉全美帆子『イラストで読む奇想の画家たち』(河出書房新社)
隣駅内にある書店を覗いたら河出書房新社の何周年だかのフェアをやっていた。壁一面、本棚にして四台分ぐらいはあっただろうか。そこに河出書房新社の本ばかりがずらりと並ぶ光景は意外と新鮮で、応援というわけでもないけれど、ついつい一冊ぐらいは買ってあげようという気持ちになるから不思議である。
そこで選んだのが、杉全美帆子『イラストで読む奇想の画家たち』。西洋の美術、特に絵画の意味などを解釈する本がこの二十年ほどで定着した感があるけれど、本書もそんな一冊だろう。
どうやら同じ著者のシリーズの一冊のようで、毎回、ルネサンスとか印象派とかギリシャ神話だとかテーマがあり、それに沿って自らもイラストをふんだんに描き、絵画のポイントや作品にまつわるエピソードなどを楽しく解説する本である。

とりあえず息抜きのようなつもりで読んだのだが、これがけっこう軽妙な見せ方と解説で面白い一冊であった。
こちらが美術に関してそれほど知識がないこともあって勉強にもなる。まあ、著者と版元が狙ったとおりの理想的な読者ということになるだろう(笑)。内容的には入門書やガイドブックの一種という見方もできるわけで、そういう意味での作り方もなかなか上手く、類書をいろいろ読んだわけではないけれども、これは上等の部類ではないだろうか。
ちょっとだけ残念だったのは、細部へのこだわりがどの作品も凄いため、もう少し絵を大きく見せてほしかったところ。たくさん見せたいという気持ちもあったのだろうが、全体的に小さい図版が多くて、やや見づらいのが気になった。そこは今後の課題にしていただければ。
取り上げている画家は七名。ヒエロニムス・ボス、アルブレヒト・デューラー、カラヴァッジョ、フランシスコ・デ・ゴヤ、ウィリアム・ブレイク、オディロン・ルドン、アンリ・ルソーである。ダークなアイデアに富んだ作品を多く残した画家たちばかりで、もちろん作品解説は楽しいが、その時代における位置付けなども門外漢にわかるよう解説されていて嬉しい。
個人的にはヒエロニムス・ボスにまず惹かれる。あのマイクル・コナリーが書いているボッシュ・シリーズの名前は、まさしくこのボスから採られているのだが(初期作品ではけっこう言及が多い)、それを抜きにしても『快楽の園』のカオスっぷりは尋常ではなく面白い。一体この絵の中に幾つの金妙なドラマが描かれているのだろう。この各エピソードを連作の幻想小説にすると非常に面白いかもしれないが、おそらく誰かがやっていそうな気がする。
ついでにもう一つミステリ関係で挙げておくと、トマス・ハリスが書いた『レッド・ドラゴン』で言及される『大いなる赤い龍と太陽をまとう女』はウィリアム・ブレイクの作品。確か文庫のカバー絵にも使われていたはずである。
とまあ、無理やりミステリとの関係で語る本でもないのだが(苦笑)、これも話の種ということで。とりあえずはミステリや幻想小説好きにもおすすめの一冊。
そこで選んだのが、杉全美帆子『イラストで読む奇想の画家たち』。西洋の美術、特に絵画の意味などを解釈する本がこの二十年ほどで定着した感があるけれど、本書もそんな一冊だろう。
どうやら同じ著者のシリーズの一冊のようで、毎回、ルネサンスとか印象派とかギリシャ神話だとかテーマがあり、それに沿って自らもイラストをふんだんに描き、絵画のポイントや作品にまつわるエピソードなどを楽しく解説する本である。

とりあえず息抜きのようなつもりで読んだのだが、これがけっこう軽妙な見せ方と解説で面白い一冊であった。
こちらが美術に関してそれほど知識がないこともあって勉強にもなる。まあ、著者と版元が狙ったとおりの理想的な読者ということになるだろう(笑)。内容的には入門書やガイドブックの一種という見方もできるわけで、そういう意味での作り方もなかなか上手く、類書をいろいろ読んだわけではないけれども、これは上等の部類ではないだろうか。
ちょっとだけ残念だったのは、細部へのこだわりがどの作品も凄いため、もう少し絵を大きく見せてほしかったところ。たくさん見せたいという気持ちもあったのだろうが、全体的に小さい図版が多くて、やや見づらいのが気になった。そこは今後の課題にしていただければ。
取り上げている画家は七名。ヒエロニムス・ボス、アルブレヒト・デューラー、カラヴァッジョ、フランシスコ・デ・ゴヤ、ウィリアム・ブレイク、オディロン・ルドン、アンリ・ルソーである。ダークなアイデアに富んだ作品を多く残した画家たちばかりで、もちろん作品解説は楽しいが、その時代における位置付けなども門外漢にわかるよう解説されていて嬉しい。
個人的にはヒエロニムス・ボスにまず惹かれる。あのマイクル・コナリーが書いているボッシュ・シリーズの名前は、まさしくこのボスから採られているのだが(初期作品ではけっこう言及が多い)、それを抜きにしても『快楽の園』のカオスっぷりは尋常ではなく面白い。一体この絵の中に幾つの金妙なドラマが描かれているのだろう。この各エピソードを連作の幻想小説にすると非常に面白いかもしれないが、おそらく誰かがやっていそうな気がする。
ついでにもう一つミステリ関係で挙げておくと、トマス・ハリスが書いた『レッド・ドラゴン』で言及される『大いなる赤い龍と太陽をまとう女』はウィリアム・ブレイクの作品。確か文庫のカバー絵にも使われていたはずである。
とまあ、無理やりミステリとの関係で語る本でもないのだが(苦笑)、これも話の種ということで。とりあえずはミステリや幻想小説好きにもおすすめの一冊。
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ピーター・スワンソン『だからダスティンは死んだ』(創元推理文庫)
ピーター・スワンソンの『だからダスティンは死んだ』を読む。まずはストーリーから。
広告業界で働くロイドと版画家ヘンの夫妻。彼らはボストン郊外に越してきたが、さっそく隣に住む夫妻、マシューとマイラから食事に招待される。食事も終わり、家の中を見せてもらっているときのこと。マシューの部屋で、ヘンはある物を目撃する。それは二年半前に起きたある殺人事件で、犯人が持ち去ったとされている置物だった。ヘンはマシューが殺人事件の犯人ではないかと疑い、警察に連絡するが……。

サスペンス小説の名手としてかなり評価が定着してきた感のあるピーター・スワンソンだが、単なるサスペンスではなく、本書を含めて邦訳の四冊すべてに叙述系のトリックを用いているのが大きな特徴である。だからこそ人気もあるのだろうが、個人的にはこのあざとさが食傷気味というか、逆効果に思えてしまう。
前作『アリスが語らないことは』の記事でも書いたが、語り口や心理描写は上手い。本作ではヘンとマシューそれぞれの視点で交互に物語が進むのだが、どちらもクセの強すぎるキャラクターなのに、変に劇画化することなく、その辺にいそうな、ちょっと危ないやつ程度に抑えつつ描写する。この加減が絶妙で、サスペンスとしては実に効果的だ。
躁鬱病気質で過去に暴力事件を起こした過去を持つ、主人公としてはかなり尖ったキャラクターのヘン。表面的には紳士だが、子供時代の経験によって偏った正義感を育んでしまった殺人鬼のマシュー。前半で明らかになるので、これぐらいはネタバレにならないと思うけれど、ヘンはマシューを警察に通報するが、自らの過去のせいで話を信用してもらえない。そしてマシューは狡猾に立ち回り、ヘンを取り込もうとする。
こうした二人の心理戦・駆け引きも読みどころであり、正直いうと、これで十分なのだ。描写が上手いので、むしろこれだけで怖さは十分に伝わってくる。
ところが著者はこれだけでは不満なのか、余計なサービスを盛り込んでくる。本作でいえばマシューの弟のエピソードは必要かなぁと思いながら読んでいた。そもそもて前例がないわけでもないので、かなり早い時点で真相に気がついてしまったのだが、なんだかストーリーのポイントがブレてしまう印象しかない。個人的にはロイドとマイラを目一杯の巻き込んで、この四人でまとめてくれた方がしっかりした物語になったのではないだろうか。
それでも弟は必要なネタだというのであれば、逆に早い段階から差し込むべきだろう。
ということで個人的にはいつも消化不良気味になってしまう作家である。もちろん技巧に走るのが悪いわけではないけれど、サスペンス系の叙述ものは山ほどあるし、せめて違うアプローチも考えてみてはどうだろうか。
広告業界で働くロイドと版画家ヘンの夫妻。彼らはボストン郊外に越してきたが、さっそく隣に住む夫妻、マシューとマイラから食事に招待される。食事も終わり、家の中を見せてもらっているときのこと。マシューの部屋で、ヘンはある物を目撃する。それは二年半前に起きたある殺人事件で、犯人が持ち去ったとされている置物だった。ヘンはマシューが殺人事件の犯人ではないかと疑い、警察に連絡するが……。

サスペンス小説の名手としてかなり評価が定着してきた感のあるピーター・スワンソンだが、単なるサスペンスではなく、本書を含めて邦訳の四冊すべてに叙述系のトリックを用いているのが大きな特徴である。だからこそ人気もあるのだろうが、個人的にはこのあざとさが食傷気味というか、逆効果に思えてしまう。
前作『アリスが語らないことは』の記事でも書いたが、語り口や心理描写は上手い。本作ではヘンとマシューそれぞれの視点で交互に物語が進むのだが、どちらもクセの強すぎるキャラクターなのに、変に劇画化することなく、その辺にいそうな、ちょっと危ないやつ程度に抑えつつ描写する。この加減が絶妙で、サスペンスとしては実に効果的だ。
躁鬱病気質で過去に暴力事件を起こした過去を持つ、主人公としてはかなり尖ったキャラクターのヘン。表面的には紳士だが、子供時代の経験によって偏った正義感を育んでしまった殺人鬼のマシュー。前半で明らかになるので、これぐらいはネタバレにならないと思うけれど、ヘンはマシューを警察に通報するが、自らの過去のせいで話を信用してもらえない。そしてマシューは狡猾に立ち回り、ヘンを取り込もうとする。
こうした二人の心理戦・駆け引きも読みどころであり、正直いうと、これで十分なのだ。描写が上手いので、むしろこれだけで怖さは十分に伝わってくる。
ところが著者はこれだけでは不満なのか、余計なサービスを盛り込んでくる。本作でいえばマシューの弟のエピソードは必要かなぁと思いながら読んでいた。そもそもて前例がないわけでもないので、かなり早い時点で真相に気がついてしまったのだが、なんだかストーリーのポイントがブレてしまう印象しかない。個人的にはロイドとマイラを目一杯の巻き込んで、この四人でまとめてくれた方がしっかりした物語になったのではないだろうか。
それでも弟は必要なネタだというのであれば、逆に早い段階から差し込むべきだろう。
ということで個人的にはいつも消化不良気味になってしまう作家である。もちろん技巧に走るのが悪いわけではないけれど、サスペンス系の叙述ものは山ほどあるし、せめて違うアプローチも考えてみてはどうだろうか。