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G・K・チェスタトン『マンアライヴ』(論創海外ミステリ)
あのG・K・チェスタトンの『マンアライヴ』にとうとう手を出してしまった。
ご存じの方も多いと思うが、論創社の海外ミステリ・シリーズは以前から翻訳のレベルの低さが指摘されていた。これは経験の浅い翻訳者ばかりを多く起用しているためで、そのかわり版元にとっては、コストを抑えることができたり、進行を滞らせることなく矢継ぎ早の刊行ができたりというメリットがあったわけだ。これは読者の都合を無視しているかのようにも思えるが、クラシック・ミステリの需要や売れ行きを考えると、ああやって五十作以上の刊行が続くだけでも奇跡的なことであり、版元が安定してこの企画を続けられるのなら、多少の翻訳のまずさなどはこの際我慢すべきであろう。
そこで『マンアライヴ』だが、どうやら本作の翻訳については、そんなに悠長なことも言っていられないぐらいひどい状況にあるらしい。ただ問題は翻訳だけにあるのではなく、注釈のミスや、何より日本語としての文章そのものにあったりするのだ。まあ、どれぐらいのものかは、読み始めればすぐにわかることなので、いちいち例はあげない。それでも知りたいという人は、Amazonのレビューや「マンアライヴ 翻訳 つづみ綾」等で検索すれば、いくつか記事がひっかかるはずだ。
しかしながら、もともとチェスタトンの原文自体が厄介な代物らしいことはわかる。入り組んだ文章、わかりにくい比喩、登場人物たちの抽象的な議論、哲学やら宗教やら文学やらの衒学趣味等、これらを消化して平易に翻訳するには、さぞや苦労したことだろう。訳者の悲劇は、このチェスタトンの原文の持つ雰囲気を、できるだけ日本語でも再現しようとしたところにあるのではないか(あるいは逆に原文が手に負えなくなり、ほぼ直訳でいってしまったという線も捨てがたいが)。
ただ、同じ業界にいる者として一言いわせてもらうなら、これは訳者が悪いというより、その訳者を選び、原稿チェックをやっているはずの編集者が一番悪い。普通は気づくべきだろう。とにかく結果として、せっかくのチェスタトンの小説が、このように読みにくい形で世に出たのは実に残念である。
まあ、翻訳の話ばかりでもしょうがないので、そろそろ中身の話に移ろう。
ロンドンの下宿屋ビーコンハウスに住む三人の男と二人の女。そこへ現れたのが突拍子のない言動を繰り広げる、その名もイノセント・スミス。唖然とする周囲をよそに、スミスは知り合って数時間しかたたないというのに、ビーコンハウスに来ていたメアリという女性に結婚を申しみ、さらにはやはりビーコンハウスに客人としてきていた医師に発砲してしまう。下宿人たちはスミスの行動に感化されたか、下宿を法廷に見立て、施設裁判を開くことにしたが……。
一見ミステリ仕立てではあるが、これはやはり似て非なるものだろう。チェスタトンお得意の逆説的論理が、極端に劇画化された登場人物たちによって延々と繰り返し展開される。
最初は当時の裁判制度を諧謔化したものかとも思ったが、さすがに表面だけをとらえて云々する小説でもないだろう。もちろん、タイトルにある「マンアライヴ」=「生きている男」というテーマはあるだろうが、これは突き詰めてしまうと、人間の存在についての考察となるため、当たり前すぎてあまり面白くもない。
で、ちょっと思ったのは、本書で登場人物たちによって延々と繰り返される議論のシーンである。論考する場面がこれだけあるからには、論考すること自体がテーマでもまったく問題はないはずで、これはもしかすると「逆説」や「論理」そのものについて書かれた小説といえないだろうか。逆説を小説内で手段として用いるチェスタトンだから、それをさらに小説のど真ん中に据えても何らおかしいことはないはず。登場人物の多くはそれを描写するための道具であり、その最たる者が、まるで逆説が生きて歩いているかのような存在、スミスなのだ。
と、ここまで書いてみたが、どうも怪しいな(苦笑)。少なくとももう二、三度は読まないと、頭に入ってくる話ではないので(いろんな意味で)、いずれ新訳が出れば(笑)再チャレンジしてみたいものである。
ご存じの方も多いと思うが、論創社の海外ミステリ・シリーズは以前から翻訳のレベルの低さが指摘されていた。これは経験の浅い翻訳者ばかりを多く起用しているためで、そのかわり版元にとっては、コストを抑えることができたり、進行を滞らせることなく矢継ぎ早の刊行ができたりというメリットがあったわけだ。これは読者の都合を無視しているかのようにも思えるが、クラシック・ミステリの需要や売れ行きを考えると、ああやって五十作以上の刊行が続くだけでも奇跡的なことであり、版元が安定してこの企画を続けられるのなら、多少の翻訳のまずさなどはこの際我慢すべきであろう。
そこで『マンアライヴ』だが、どうやら本作の翻訳については、そんなに悠長なことも言っていられないぐらいひどい状況にあるらしい。ただ問題は翻訳だけにあるのではなく、注釈のミスや、何より日本語としての文章そのものにあったりするのだ。まあ、どれぐらいのものかは、読み始めればすぐにわかることなので、いちいち例はあげない。それでも知りたいという人は、Amazonのレビューや「マンアライヴ 翻訳 つづみ綾」等で検索すれば、いくつか記事がひっかかるはずだ。
しかしながら、もともとチェスタトンの原文自体が厄介な代物らしいことはわかる。入り組んだ文章、わかりにくい比喩、登場人物たちの抽象的な議論、哲学やら宗教やら文学やらの衒学趣味等、これらを消化して平易に翻訳するには、さぞや苦労したことだろう。訳者の悲劇は、このチェスタトンの原文の持つ雰囲気を、できるだけ日本語でも再現しようとしたところにあるのではないか(あるいは逆に原文が手に負えなくなり、ほぼ直訳でいってしまったという線も捨てがたいが)。
ただ、同じ業界にいる者として一言いわせてもらうなら、これは訳者が悪いというより、その訳者を選び、原稿チェックをやっているはずの編集者が一番悪い。普通は気づくべきだろう。とにかく結果として、せっかくのチェスタトンの小説が、このように読みにくい形で世に出たのは実に残念である。
まあ、翻訳の話ばかりでもしょうがないので、そろそろ中身の話に移ろう。
ロンドンの下宿屋ビーコンハウスに住む三人の男と二人の女。そこへ現れたのが突拍子のない言動を繰り広げる、その名もイノセント・スミス。唖然とする周囲をよそに、スミスは知り合って数時間しかたたないというのに、ビーコンハウスに来ていたメアリという女性に結婚を申しみ、さらにはやはりビーコンハウスに客人としてきていた医師に発砲してしまう。下宿人たちはスミスの行動に感化されたか、下宿を法廷に見立て、施設裁判を開くことにしたが……。
一見ミステリ仕立てではあるが、これはやはり似て非なるものだろう。チェスタトンお得意の逆説的論理が、極端に劇画化された登場人物たちによって延々と繰り返し展開される。
最初は当時の裁判制度を諧謔化したものかとも思ったが、さすがに表面だけをとらえて云々する小説でもないだろう。もちろん、タイトルにある「マンアライヴ」=「生きている男」というテーマはあるだろうが、これは突き詰めてしまうと、人間の存在についての考察となるため、当たり前すぎてあまり面白くもない。
で、ちょっと思ったのは、本書で登場人物たちによって延々と繰り返される議論のシーンである。論考する場面がこれだけあるからには、論考すること自体がテーマでもまったく問題はないはずで、これはもしかすると「逆説」や「論理」そのものについて書かれた小説といえないだろうか。逆説を小説内で手段として用いるチェスタトンだから、それをさらに小説のど真ん中に据えても何らおかしいことはないはず。登場人物の多くはそれを描写するための道具であり、その最たる者が、まるで逆説が生きて歩いているかのような存在、スミスなのだ。
と、ここまで書いてみたが、どうも怪しいな(苦笑)。少なくとももう二、三度は読まないと、頭に入ってくる話ではないので(いろんな意味で)、いずれ新訳が出れば(笑)再チャレンジしてみたいものである。
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Comments
Edit
おお、これお読みになったのですね。
色々なところで訳に対する非難の嵐を見て、どんなもんかと本屋で少し立ち読みしたことがあるのですが、訳の良し悪しにはかなりこだわらない私もこれは読み通せないと思いました。ま、もともと難しいですけどねチェスタトンは(^^; 新訳が出たらぜひと思っております。(出ないか)
Posted at 21:37 on 08 04, 2007 by Sphere
Sphereさん
これを読み通すコツは、とりあえず事実関係だけを追うことです。下手に深読みをしても、心象風景や比喩が本当に著者の思惑通り訳されているのか、わかりませんから。
新訳はまず出ないと思われますが(笑)、もしかすると5年ぐらいしたら創元あたりで出ないこともないかもしれません。創元って、割とそういうことしますもんね。
Posted at 23:20 on 08 04, 2007 by sugata