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日影丈吉『夕潮』(創元推理文庫)
本書は1990年に出版されたハードカバー版の文庫化作品だが、初出は1979年にまで遡る。かの有名な探偵小説誌『幻影城』に、まず前半が掲載された。ところが経営に苦しんでいた版元が倒産し、当然ながら雑誌も廃刊。残りの原稿は発表される場を失ったばかりか、倒産のどたばた騒ぎで原稿が紛失するという事態にまで発展、遂には幻の作品となったのである。しかしながら十年の時を経て原稿のコピーが発見され、奇跡的に単行本として出版されることになったという。
まあ、この曰くだけでごはん三杯はいけそうだが(笑)、内容も捨てたものではない、というか、これは著者の代表作に入れてもいいぐらいの傑作である。
物語はヒロイン、鹿沼未知の一人称で語られる。彼女は遅ればせながらの新婚旅行で夫と共に伊豆の島を訪れていた。そこで知り合ったのは、夫の伯母にあたり、学生時代に感銘を受けた女流詩人でもある仁科秘女。自らの夫を若くして海で亡くし、その後、歌人として立った秘女に、未知は自然と惹かれ、親交を深めてゆく。
そんなある日、未知の親友、瑠璃子が島を訪れ、海で溺死するという事件が起こる。しかもなぜか現場には一時帰京していたはずの夫が居合わせ、参考人として足止めされているという。夫はいったい自分に何を隠しているのか、未知の不安は募る……。

日影丈吉の魅力はいろいろあるが、よくいわれるのが描写の細やかさ。特に心理描写については異論のないところだろう。犯罪者や被害者の心理をそれこそ重ねるようにして、丹念に描写していくところが実に見事で、フランス・ミステリ的と言われる由縁でもある。
ただ、本書を読むと、それだけにはとどまらない独自の世界も広がっている。
主人公の未知というのは、引っ込み思案な性格で、結婚していながらも成熟しきっていない文学少女というイメージ。感情移入しにくい面もあるし、いらいらする場面も多々あるわけだが、それでも繰り返し語られる彼女の意識の流れには、読むものを引きずり込まずにはおられない何かがある。夫や秘女に対するさまざまな思い、事件に対する意識、さらには(そしてこれが胆だったりするのだが)女としての喜びや夫婦生活といった性に関する思索などなど。
ミステリとはあまり関係ない、要は文学的な香り付け、という性格がとりわけ強いのだが、さらにはこの描写が実はミステリ部分にも干渉するという構造で、この謎と叙情性が渾然一体となった様相が実に魅力的。フランス・ミステリの多くはそこまで重層的ではないので、この点では明らかに日影丈吉の方が上をいっている。
また、未知の語りは決してストレートではない。いわゆる「信頼できない語り手」とまではいかないが、彼女自身が弱い人間であるため、常に周囲によってさまざまな影響を受けてしまう。したがって常にひとつぐらいは裏を読んでいかないと、未知の感情や事件の全貌は掴みにくいのがミソ。
とはいえ、主要な登場人物は未知を入れても何と三人。驚くべき真相や意外な犯人という観点で期待するのは少々厳しい。だが、この濃密な作品にそんなケチをつける気は毛頭ない、っていうか、そんなもん日影丈吉に期待するなってことだ。
エロスとサスペンスに彩られた心理ミステリー。文章のひとつひとつに酔い、未知といっしょに絡みとられていくことこそ本書の正しい読み方である。でも、そこそこ年をとらないと、この本の面白さは伝わらないかも知れぬ。ううむ。
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Comments
ハードカバーが出た時、幻影城を読んでから改めて読みました.全集も買いました新刊で(急に値上がりしてのけぞりましたが)
決して私好みの作家ではないと思うのですが気になるのです。全集も全刊読みました。
「夕潮」傑作。同感です。
Posted at 00:05 on 07 17, 2010 by M・ケイゾー
>清貧おやじさん
ええー、そこまでマイナーな作家ではないと思いますよ。数年前には国書から全集も出ましたし。長篇の出来には少々ムラがありますが、優れた作品はとことん優れておりますので、もし機会があればどうぞ。
Posted at 00:28 on 07 16, 2010 by sugata
日影丈吉。
いましたねーそんな作家。
何を読んだのかも忘れてしまいましたが、
名前を覚えているということは、
私にとっては良い作家だったと思います。
もしかしたらコレを読んだのかもしれません。
Posted at 02:20 on 07 15, 2010 by 清貧おやじ
>Ksbcさん
私もたまに読んだかどうか思い出せない本がありますが、年のせいだとは思いたくないですね(笑)。
『夕潮』、どうぞお楽しみください。
Posted at 23:54 on 07 14, 2010 by sugata
やっぱり本棚にありました
やっぱり本棚にありました。
数ページめくってみましたが、記憶が戻ってきませんでした。ヒョッとすると積ん読だったのかも…。
でも、読んだっぽい形跡はあるのですが…。
20年後の再読となります(笑)。
Posted at 11:06 on 07 14, 2010 by Ksbc
>Ksbcさん
私も個人的にはオランダ推しだったので、ちょいと残念。でもスペインにしてもオランダにしても、強豪なのに苦節ン十年という状況でしたから、まあ、よしとします。日本も頑張ったし、いいW杯でした。
『夕潮』はよかったですよ。藤桂子がお好みなら、この作品も絶対いけるはずです、ってもう読んでたんですね(笑)。
Posted at 23:29 on 07 12, 2010 by sugata
どうも…。
ひいきのオランダが敗れ残念な結果でしたが、美しさにまさるスペインが勝ったことは、サッカーの神が存在することの証なのかも…タコのパウルは凄いですね。というわけで、やっとW杯も終了。
Tour de Franceは中継をウチでは見ることができず(本日の前半ダイジェストは見られますが)ですので本格読書再開といったところです。
私、この作品をハードカバーで出た時に読んだと思うのですが、記憶がさだかではなく中身についての印象がありません。
本棚を探って確認して、手元にあれば再読をしたいと思っております。
イケませんね。
Posted at 12:29 on 07 12, 2010 by Ksbc
>M・ケイゾーさん
私も全集、買ったくちです。ただ、文庫や単行本のばっかり読んでいて、肝心の全集はほとんど手つかずですが(苦笑)。なんせ重くて持ち運べないし。
>決して私好みの作家ではないと思うのですが気になるのです。
何となくわかります。長篇に限ってですけれど、中には「ええ~?」と思うものもありますからね。個人的には『夕潮』をはじめとして、『孤独の罠』『応家の人々』『女の家』あたりが推しですね。
Posted at 00:24 on 07 17, 2010 by sugata