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レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』(晶文社)
レオ・ペルッツの『最後の審判の巨匠』を読む。作者はプラハ生まれのユダヤ人。1901年にウィーンへ移住して、保険会社で働きながら創作を続け、1915年『第三の魔弾』で人気作家の切符を手にしたという。基本的には幻想文学の書き手だが、単純にそのひと言では収まりきらない部分もあるようで、本書も一応はミステリの体裁をとりつつ、実は……という作品。
舞台は二十世紀初頭のウィーン。俳優ビショーフの家では友人たちが集い、演奏に興じていた。歓談中、余興として次の舞台で演じるリチャード三世をその場で披露するよう求められたビショーフは、役作りのため庭の四阿にこもる。ところがしばらくすると、四阿で銃声が鳴り響く。人々が駆けつけると、そこには瀕死の状態で倒れていたビショーフの姿が。しかも現場は密室にあり、当初は自殺と思われたのだが……。

そもそも本作はミステリなのかどうかという話なのだが、まあ、そういう話が出る時点で十分ミステリに含めてもよいとはいえる。昨今のミステリの許容範囲はあまりに広く、例えば『罪と罰』をミステリであるとする人もいるぐらいなので、それが許されるなら本作は紛れもないミステリであろう。
とはいえ、そんな極端な立ち位置はおいといて、ひとまず狭義の本格ミステリということで話を進めるなら、本作は確かに迷うところだ。
なんせ扱われる事件は密室もの。ミステリの中でも一際ミステリらしいネタを扱い、しかも登場人物には探偵役と語り手を配し、捜査や推理の進め方なども実にまっとうな流れである。ついでにいえば最大の驚きは、ミステリ史上でも非常に有名なあのトリック。これら表面的な事実だけを追えば、本作は十分に本格ミステリの資格があるといえる。
だが実際に読んでみると、その印象はまったく異なる。確かにギミックはミステリのそれなのだが、受ける感じは本格ミステリどころではなく、広義のミステリに含めることすら躊躇われてしまうレベル。強いていえば、作者の宗教観や哲学など多分に含んだ幻想小説というところだろうか。
作者、レオ・ペルッツの興味が、論理的な謎解き、アッと驚くトリックなどにはまったく向いていないことは確かだろう。では何に向いているのかといえば、それはやはり人である。精神の有り様である。心の奥底に分け入って、人が生きるためのぎりぎりの精神の均衡を求めているようにも思えるのだ。
そしてそれを具現化しているのが、本来はワトソン役たる本編の語り手、フォン・ヨッシュ男爵の存在である。
抑圧され、屈折し、あまつさえ元恋人や義弟から容疑者扱いまで受けてしまうという、まったく信頼するに足りない最悪のワトソン役。現実の出来事なのか、それとも心象風景なのか、それすら覚束ない後半の怒濤の展開は圧巻で、読みどころも正にそこにあるといってよい。本来のミステリの楽しみとは異なるが、このワトソン像のお陰で、本作は滅法スリリングで面白くなっているのだ。
探偵役の技師ゾルグループは、そんなフォン・ヨッシュと対比される理性の存在。だが、事件の背後に潜む"怪物"の存在に気づき、やがては怪物に呑み込まれる運命をたどる。ミステリマニアには悪夢といってよい、この物語。読者もゾルグループと一緒に呑み込まれるのが吉である。
舞台は二十世紀初頭のウィーン。俳優ビショーフの家では友人たちが集い、演奏に興じていた。歓談中、余興として次の舞台で演じるリチャード三世をその場で披露するよう求められたビショーフは、役作りのため庭の四阿にこもる。ところがしばらくすると、四阿で銃声が鳴り響く。人々が駆けつけると、そこには瀕死の状態で倒れていたビショーフの姿が。しかも現場は密室にあり、当初は自殺と思われたのだが……。

そもそも本作はミステリなのかどうかという話なのだが、まあ、そういう話が出る時点で十分ミステリに含めてもよいとはいえる。昨今のミステリの許容範囲はあまりに広く、例えば『罪と罰』をミステリであるとする人もいるぐらいなので、それが許されるなら本作は紛れもないミステリであろう。
とはいえ、そんな極端な立ち位置はおいといて、ひとまず狭義の本格ミステリということで話を進めるなら、本作は確かに迷うところだ。
なんせ扱われる事件は密室もの。ミステリの中でも一際ミステリらしいネタを扱い、しかも登場人物には探偵役と語り手を配し、捜査や推理の進め方なども実にまっとうな流れである。ついでにいえば最大の驚きは、ミステリ史上でも非常に有名なあのトリック。これら表面的な事実だけを追えば、本作は十分に本格ミステリの資格があるといえる。
だが実際に読んでみると、その印象はまったく異なる。確かにギミックはミステリのそれなのだが、受ける感じは本格ミステリどころではなく、広義のミステリに含めることすら躊躇われてしまうレベル。強いていえば、作者の宗教観や哲学など多分に含んだ幻想小説というところだろうか。
作者、レオ・ペルッツの興味が、論理的な謎解き、アッと驚くトリックなどにはまったく向いていないことは確かだろう。では何に向いているのかといえば、それはやはり人である。精神の有り様である。心の奥底に分け入って、人が生きるためのぎりぎりの精神の均衡を求めているようにも思えるのだ。
そしてそれを具現化しているのが、本来はワトソン役たる本編の語り手、フォン・ヨッシュ男爵の存在である。
抑圧され、屈折し、あまつさえ元恋人や義弟から容疑者扱いまで受けてしまうという、まったく信頼するに足りない最悪のワトソン役。現実の出来事なのか、それとも心象風景なのか、それすら覚束ない後半の怒濤の展開は圧巻で、読みどころも正にそこにあるといってよい。本来のミステリの楽しみとは異なるが、このワトソン像のお陰で、本作は滅法スリリングで面白くなっているのだ。
探偵役の技師ゾルグループは、そんなフォン・ヨッシュと対比される理性の存在。だが、事件の背後に潜む"怪物"の存在に気づき、やがては怪物に呑み込まれる運命をたどる。ミステリマニアには悪夢といってよい、この物語。読者もゾルグループと一緒に呑み込まれるのが吉である。
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Comments
Edit
これけっこう好きです。
たしかにミステリだと思って読んでると、どんどん幻想的になっていって驚きますが、”イタリア語を話すが聴かない巨大な怪物”の推理とか、”最後の審判に輝きわたるトランペット赤”というイメージが実に印象的でした。
Posted at 20:05 on 05 13, 2011 by Sphere
Sphereさん
さすが、Sphereさん。こういうものもしっかり押さえているんですね。
”最後の審判に輝きわたるトランペット赤”というイメージは、確かに鮮烈で、私も印象に残っています。こういう描写で作者がメッセージを込めるということ自体、もうミステリからは離れている証左ともいえますね。
Posted at 00:01 on 05 14, 2011 by sugata