- Date: Thu 30 07 2020
- Category: 国内作家 村上春樹
- Community: テーマ "国文学" ジャンル "本・雑誌"
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村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)
もうそれほど期待はしていないのだけれど、それでもどこかにかつての感動をもう一度味わいたいと思う気持ちがあって、新刊が出るとついつい読んでしまう。本日の読了本は村上春樹の短編集『一人称単数』。
まずは収録作。
「石のまくらに」
「クリーム」
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
「ヤクルト・スワローズ詩集」
「謝肉祭(Carnaval)」
「品川猿の告白」
「一人称単数」

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?
上は本書の帯に書かれた宣伝文句だ。「単眼」はそのまま「(一人称で書かれた)短編」というふうにも置き換えられる。どこで読んだか忘れたけれど、短編とはそもそも「人生をナイフで切ったときの、その断面を見せてくれるもの」だという表現がある。まあ、エンタメ系はそうも言い切れないけれど、いわゆる純文学系の場合において。
本書に収録された短編は、著者の分身的な主人公がかつて体験した不思議な出来事やそうでもない出来事を、「単眼」=「(一人称で書かれた)短編」で語っていく。普通の作家なら、それらの短編の積み重なりによって、本書の総合的なテーマであったり、著者のメッセージを浮かび上がらせてくれるわけだが、村上春樹の場合はひとつひとつのストーリーを思い切りはぐらかすものだから、そこに浮かび上がるのは明確なテーマやメッセージなどではなく、混沌とした著者のイメージでしかない。「私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく」と書くとそれらしいが、現実と虚構の境界を曖昧にするなんてのは珍しくもない手法だし、村上春樹自らが幾度となくやってきたことだ。物語をはっきり着地させない点もご同様。
その一方でスタイル自体はかなり明確なのも春樹作品の特徴だ。本書に限らず、多くの作品が幻想的でノスタルジックに彩られ、音楽と料理の描写があり、(性描写が少なくないにもかかわらず)無機質で中性的な男女のドラマがある。現実感や高揚感に乏しく、物語はいつも曖昧である。それが春樹ワールドだといわれれば、そうかというしかない。『ねじまき鳥クロニクル』のように、戦争というこれ以上ない重大事を扱ってもそれは同じだった。
結末がはっきりしない話だからこそ余韻が美しいという意見もあるだろう。ストーリーは気にせず文章を味わうべきだ、感動を求めるというよりは雰囲気に酔えればよい、そういう声もあるだろう。
善し悪しはともかく、結果として春樹作品における真理はいつも読者のイメージに委ねられる。読者は意味がわからないなりにそれを受け入れ、気持ちよく自由に消化できるわけで、そこに今もって人気を保っている秘密があるのかもしれない。
皮肉でも何でもなく、これが村上春樹のスタイルなのである。
管理人も別にそういう小説を嫌いなわけではない。実際、いくつかのエッセイを除き、ほとんどの作品を学生時代からリアルタイムで読んでいる。ただ、そんな春樹ワールドにずいぶん長い間接してきたせいもあってか、当初に幾度となく覚えた感動を、最近はほぼ得ることがない。
なぜ、村上春樹はかたくなに同じような話を、同じようなスタイルで書き続けるのだろう。本書の作品でいえば、確かに「謝肉祭(Carnaval)」あたりの音楽の話は巧いし、「品川猿の告白」の人名を盗む話も面白い。でも、それは村上春樹の技術であれば何を今さらの話であり、既視感もバリバリである。
繰り返すが、なぜ村上春樹は同じような話ばかりを書くのだろう。下手に作風を変えてセールスに影響が出ると困るから? もちろんそれは冗談だが、好意的にみれば、村上春樹は常にアップデートを重ねているのではないか。つまり自分の信じている文学を徹底的に突き詰めようとしているのだ。めざすゴールは究極の春樹ワールドである。
ただ、個人的には全然違うタイプの作品を読んでみたい。本書でいえばラストの「一人称単数」のみ、その可能性を感じた作品だ。短いし出来だけならむしろ他の作品のほうが勝っているが、主人公と女性の関係が予想を裏切っており、本書のなかにあってはかなり異彩を放つ。
これが読めたのが今回の収穫といえるだろうが、それでもまだまだ満ち足りてはいない。
まずは収録作。
「石のまくらに」
「クリーム」
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
「ヤクルト・スワローズ詩集」
「謝肉祭(Carnaval)」
「品川猿の告白」
「一人称単数」

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?
上は本書の帯に書かれた宣伝文句だ。「単眼」はそのまま「(一人称で書かれた)短編」というふうにも置き換えられる。どこで読んだか忘れたけれど、短編とはそもそも「人生をナイフで切ったときの、その断面を見せてくれるもの」だという表現がある。まあ、エンタメ系はそうも言い切れないけれど、いわゆる純文学系の場合において。
本書に収録された短編は、著者の分身的な主人公がかつて体験した不思議な出来事やそうでもない出来事を、「単眼」=「(一人称で書かれた)短編」で語っていく。普通の作家なら、それらの短編の積み重なりによって、本書の総合的なテーマであったり、著者のメッセージを浮かび上がらせてくれるわけだが、村上春樹の場合はひとつひとつのストーリーを思い切りはぐらかすものだから、そこに浮かび上がるのは明確なテーマやメッセージなどではなく、混沌とした著者のイメージでしかない。「私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく」と書くとそれらしいが、現実と虚構の境界を曖昧にするなんてのは珍しくもない手法だし、村上春樹自らが幾度となくやってきたことだ。物語をはっきり着地させない点もご同様。
その一方でスタイル自体はかなり明確なのも春樹作品の特徴だ。本書に限らず、多くの作品が幻想的でノスタルジックに彩られ、音楽と料理の描写があり、(性描写が少なくないにもかかわらず)無機質で中性的な男女のドラマがある。現実感や高揚感に乏しく、物語はいつも曖昧である。それが春樹ワールドだといわれれば、そうかというしかない。『ねじまき鳥クロニクル』のように、戦争というこれ以上ない重大事を扱ってもそれは同じだった。
結末がはっきりしない話だからこそ余韻が美しいという意見もあるだろう。ストーリーは気にせず文章を味わうべきだ、感動を求めるというよりは雰囲気に酔えればよい、そういう声もあるだろう。
善し悪しはともかく、結果として春樹作品における真理はいつも読者のイメージに委ねられる。読者は意味がわからないなりにそれを受け入れ、気持ちよく自由に消化できるわけで、そこに今もって人気を保っている秘密があるのかもしれない。
皮肉でも何でもなく、これが村上春樹のスタイルなのである。
管理人も別にそういう小説を嫌いなわけではない。実際、いくつかのエッセイを除き、ほとんどの作品を学生時代からリアルタイムで読んでいる。ただ、そんな春樹ワールドにずいぶん長い間接してきたせいもあってか、当初に幾度となく覚えた感動を、最近はほぼ得ることがない。
なぜ、村上春樹はかたくなに同じような話を、同じようなスタイルで書き続けるのだろう。本書の作品でいえば、確かに「謝肉祭(Carnaval)」あたりの音楽の話は巧いし、「品川猿の告白」の人名を盗む話も面白い。でも、それは村上春樹の技術であれば何を今さらの話であり、既視感もバリバリである。
繰り返すが、なぜ村上春樹は同じような話ばかりを書くのだろう。下手に作風を変えてセールスに影響が出ると困るから? もちろんそれは冗談だが、好意的にみれば、村上春樹は常にアップデートを重ねているのではないか。つまり自分の信じている文学を徹底的に突き詰めようとしているのだ。めざすゴールは究極の春樹ワールドである。
ただ、個人的には全然違うタイプの作品を読んでみたい。本書でいえばラストの「一人称単数」のみ、その可能性を感じた作品だ。短いし出来だけならむしろ他の作品のほうが勝っているが、主人公と女性の関係が予想を裏切っており、本書のなかにあってはかなり異彩を放つ。
これが読めたのが今回の収穫といえるだろうが、それでもまだまだ満ち足りてはいない。
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