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山尾悠子『飛ぶ孔雀』(文春文庫)
結膜結石でできた傷がようやく完治。読書ペースをゆるゆる復活させて、本日は山尾悠子の『飛ぶ孔雀』を読む。
まずはストーリー……と行きたいところだが、この物語をザクっと紹介するのはかなり難しい。あまり粗筋らしい粗筋というものを感じさせず、さまざまなイメージの断片だけを垣間見せられているような、そんな物語なのである。
舞台となるのは、石切り場で事故があったため、火が燃え難くなった世界。その中で可能なかぎり簡略化された氏名の人々が営みを続けている。真夏の夜の庭園で開かれる大茶会、その大茶会へ火を運ばなければならない娘たち、その娘たちを襲う飛ぶ孔雀。一方では高温の湯を運ぶダクトが複雑に入り組む地下世界、その地下世界で蠢く大蛇。そして並べられたカードによって示される運命……。

イメージの断片だけを見せられていると書いたが、加えて時系列もはっきりせず、登場人物も記号的だ。とはいえ完全なランダムだったり、曖昧模糊とした世界というわけではない。ひとつひとつの場面や語りは印象的で、それらが着実に連なっているのも確かなのだ。
普段、論理によって物語を完結しようとするミステリという世界に遊ぶ管理人にとって、そんな山尾悠子の世界を頭の中で再構築する作業は半端でなく大変だ。しかし、繋がりはぼんやりとしていても、それらを物語として消化する作業ははなかなか刺激的な読書体験だった。
もちろん完全に腑に落ちたなどというつもりはさらさらない。それでも繰り返し描かれるモチーフやエピソード、特に火や熱、電気といったエネルギーに関する描写は、このイメージの奔流ともいうべき物語の中で、ひときわ印象的であり、そこに大きな意味を見出すのは、それほど間違ってはいないだろう。また、それらエネルギーに関わる人々の運命に、不穏なものを感じるのも確か。
ベタな解釈かもしれないが、管理人としてはやはりそういったものの陰に、東日本大震災以降の原発問題を感じずにはいられない。
著者の奔放な想像力の賜物たる本作に、そういう生々しい現実問題が取り込まれているかどうかはわからない。ただ、いったん意識すると、孔雀にしろ大蛇にしろ、すべてがそういう読み方に通じるのは我ながら困ったものだ(苦笑)。まあ、こういう読み方をする者もいるということで。
まずはストーリー……と行きたいところだが、この物語をザクっと紹介するのはかなり難しい。あまり粗筋らしい粗筋というものを感じさせず、さまざまなイメージの断片だけを垣間見せられているような、そんな物語なのである。
舞台となるのは、石切り場で事故があったため、火が燃え難くなった世界。その中で可能なかぎり簡略化された氏名の人々が営みを続けている。真夏の夜の庭園で開かれる大茶会、その大茶会へ火を運ばなければならない娘たち、その娘たちを襲う飛ぶ孔雀。一方では高温の湯を運ぶダクトが複雑に入り組む地下世界、その地下世界で蠢く大蛇。そして並べられたカードによって示される運命……。

イメージの断片だけを見せられていると書いたが、加えて時系列もはっきりせず、登場人物も記号的だ。とはいえ完全なランダムだったり、曖昧模糊とした世界というわけではない。ひとつひとつの場面や語りは印象的で、それらが着実に連なっているのも確かなのだ。
普段、論理によって物語を完結しようとするミステリという世界に遊ぶ管理人にとって、そんな山尾悠子の世界を頭の中で再構築する作業は半端でなく大変だ。しかし、繋がりはぼんやりとしていても、それらを物語として消化する作業ははなかなか刺激的な読書体験だった。
もちろん完全に腑に落ちたなどというつもりはさらさらない。それでも繰り返し描かれるモチーフやエピソード、特に火や熱、電気といったエネルギーに関する描写は、このイメージの奔流ともいうべき物語の中で、ひときわ印象的であり、そこに大きな意味を見出すのは、それほど間違ってはいないだろう。また、それらエネルギーに関わる人々の運命に、不穏なものを感じるのも確か。
ベタな解釈かもしれないが、管理人としてはやはりそういったものの陰に、東日本大震災以降の原発問題を感じずにはいられない。
著者の奔放な想像力の賜物たる本作に、そういう生々しい現実問題が取り込まれているかどうかはわからない。ただ、いったん意識すると、孔雀にしろ大蛇にしろ、すべてがそういう読み方に通じるのは我ながら困ったものだ(苦笑)。まあ、こういう読み方をする者もいるということで。
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