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探偵小説三昧

天気がいいから今日は探偵小説でも読もうーーある中年編集者が日々探偵小説を読みまくり、その感想を書き散らかすページ。

 

ジョルジュ・シムノン『倫敦から来た男』(河出書房新社)

 ジョルジュ・シムノンの『倫敦から来た男』を読む。シムノンのノンシリーズは非ミステリーも多いが、これは比較的ミステリーの雰囲気をまとった作品。とはいえ興味の中心はやはり事件の謎なんかではなく、主人公が転落してゆく様であり、そうなるに至った心理である。

 港町ディエップで夜勤の転轍手と働くマロワン。贅沢はできないが妻と二人の子どもを抱え、単調で平凡な毎日を過ごしていた。そんなある日の夜、マロワンは高所に設置されている転轍操作室の窓から、二人の男がスーツケースのやりとりをしているところを目にし、マロワンはおそらく密輸入あたりだろうと見当をつける。ところが数十分後、二人はまたも姿を現し、今度は何やら争っている様子。すると一人がスーツケースもろとも海へ突き落とされてしまう。残った男は落ちた男を救おうともせず、その場を去っていった。
 誰もいなくなったあと、スーツケースが気になったマロワンがそれをを引き挙げると、中には五十万フランもの大金が入っていた。ひとまず転轍操作室のロッカーにスーツケースを隠したが、その日からマロワンは、去っていった男が自分の後をつけ狙うのではないかという不安に襲われる。やがて、それは現実のものとなり、さらにはその男を追って英国の刑事も現れ……。

 倫敦から来た男

 先に書いたように、本作はミステリっぽい体裁はとっているが、本質は平和な生活を踏み外してしまった主人公の行動や心理を描くところにある。
 平凡ではあるが決して満たされることのない日々。主人公マロワンにはそんな生活を変えようという気概もない。しかし若いときならいざ知らず、生活のために働き、疲れ果てた中年男性を誰が責められようか。そして、そんな人間が違法な手段でたまたま大金を入手したとき、どう考え、どう行動するのか。シムノンはマロワンを通じて、人間の弱さをまざまざと見せてくれる。
 とりわけ巧いのは、直接的な心理描写がいたって少ないことだろう。良質のノワール然り、良質のハードボイルド然り。シムノンはあくまで行動を通して主人公の心理を描いてゆく。大金が入ったことで奥さんに強気になる、贅沢品を買ってしまう。そうかと思うと男が自分をつけ狙っているという不安に怯え、かえって怪しい行動をとってしまう。そんなアンバランスな状態、一貫性のない行動が逆にリアルなのだ。

 カタストロフィへと至る道筋も絶妙だ。終盤、マロワンは倫敦から来た男と接触を果たすが、ここからのマロワンの行動にはかなり意外な感じを受ける。なぜそういう行動をとるのかという疑問と、それもまた仕方ないのかという納得感、その両者のバランスを保ったまま、読者は苦いラストを迎えることになる。
 マロワンは決して悪人ではない。しかし彼の抱える弱さは、多かれ少な彼誰もが持っているものではないだろうか。それが感じられるからこそ、マロワンを憐れむことができ、本作は胸に響いてくるのだ。

 個人的にシムノンは大好物だが、ストーリーの面白さという点で人にお勧めするのが難しい作家でもある。しかしながら本作は過去、三度も映画化されており、シムノン作品の中でも比較的面白さがわかりやすい作品だ。シムノンを試そうと思うなら、本作は間違いなくその筆頭にくる作品といえるだろう。

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Comments
 
犬さん

はじめまして。シムノンはいいですよね。ミステリという観点で読むと物足りないところもあるんですが、切なく哀愁に満ちたドラマをここまで安定したレベルで描き続けた作家というのは他にいないんではないでしょうか。
そういう意味で、メグレ警視シリーズもいいのですが、何といっても非シリーズがおすすめです。特に本作は割合ストーリーも派手な方ですし、かつてはあの乱歩も傑作と太鼓判をおし、三度も映画化になった傑作です。文庫になってないのが残念ですが、ぜひお楽しみください。
 
はじめまして。最近、初めてのジョルジュ・シムノンで『猫』を読みました。好みでした。老夫婦の依怙地な生活ぶりが、夫の心理描写だけで延々と描かれ、その妄執ぶりに老年のペーソスと一周回ってユーモアも感じました。題材が地味なだけに、ここまで読ませるシムノンの筆力に圧倒されて、次は何を読むべきかと思ってましたが、今回ご紹介にあるこの作品も好みに合いそうな予感です。

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プロフィール

sugata

Author:sugata
ミステリならなんでも好物。特に翻訳ミステリと国内外問わずクラシック全般。
四半世紀勤めていた書籍・WEB等の制作会社を辞め、2021年よりフリーランスの編集者&ライターとしてぼちぼち活動中。

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